因果応報・因果具時・本因妙:「生きてるだけで丸儲け」の哲学

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過酷な状況の中で現実を生きている人間の姿を見て、しばしば、人間というものの無力さを痛感させられる。

また、一日一日、命を削りながら懸命に生きるということの現実を乗り越える姿、その「生き様」から、人間の強さを信じることも出来る。

謙虚な生き方のなかで、自らの生命に、より人間らしく生きるためのアンテナを強く張り巡らせることが出来る信仰が、境涯を築き上げていくことを可能にする。

私という人間に対して、絶対にあきらめない。

人間らしく、より最も強く生きれる信心を自らの生命に確立することの出来る信仰。

信じる心。

信心とは、確かな哲学を生命に刻み込むことによって、自らの可能性をどこまでも信じきることの出来る自身の灯りである。

自分という生き方の絶対的な自己を確立するための信仰。

自らの「生命」を確信出来る信心。

人生の独立自尊を歩むことを可能にする自己確立の世界。

人様に迷惑をかけない生き方が基本。

生きてるだけで丸儲け。

報恩と感謝。

人のために火を灯せば、我がまえあきらかなるが如し。

願兼於業。

過去を宝に変えることの出来る信仰。

過去にこだわらず、「今を生きる」ことの大切さ。

「宿命転換」そして、不可能を可能にする「人間革命」

与えられるよりも与える方がいい。

境涯革命の大切さ。

衆生所有楽、所願満足の人生を全うする。

絶対的幸福というのは、どこにいても生きがいを感ずる境涯、どこにいても生きていること自体が楽しい生命。

腹のたつことがあっても、愉快に腹がたつ。

「他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことはしない」

「平和教育原点の碑」に刻まれている恩師の言葉。

今を生きるための確かな哲学。

組織の為に、個人があるのではない。

一人の人間の為に組織は存在するのであり、組織の為に一人の人間がいるのではない。

組織は一人ひとりの人間が幸福に生きる為に存在する。

他人の不幸の上に幸福を築くことなどできない。

常に高潔な人間とは、富や名誉や肩書きなどに基づくものではなく、感謝に基づく報恩の大切さを知るものが、心から決意し行動を起こしていくことが出来る人である。

人として報恩の誠を尽くすことこそが、真の人間の生き方。

因果具時。

過去の因を知らんと欲すれば、現在の「果」を見よ。未来の果を知らんと欲すれば現在の「因」を見よ。

因果応報。

人間として、今を生きるこの瞬間が、未来の因果に直結する。

本因妙。

桜梅桃李。

今を生きる。



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自分とは「生命」である:自らの「生命」に従って生きる

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自らの「生命」に従って生きよ

我思う、故に我あり (デカルト)



相手の中の自分。

自分の中の相手。

神は死んだ (ニーチェ)



神は死んだのだ・・・。

我思う。

故に我あり。


「自分」とは何か?

自らの「生命」に従って生きよ。

自分とは生命である。

自らの生命に生き、自らの生命によって、私という「人間」を生かす。

自分が生命になれば、私の肉体や精神を持つ人間という存在は、その関係性において動じることがない。

絶対的な自己を確立する。

自分とは生命である。

生命そのものなのである。

生命とは永遠であり、その自分の肉体や精神もつ人間は、自己が所有するものなのである。

言い換えれば、この世で姿形として生きる為の乗り物なのである。

自分とはもともと生命そのものなんだけれど、人間としていきていることによって、自らの生命を試されている。

その自らの生命に戻れるための場所。

原点。

人間という姿で、自分という生命を映し出すことができる。

見える世界で見えぬものを見ることができる場所。

見えない世界を見ることのできる場所。

見えない世界から見える世界を見ることのできる生命。

私。

「自分」とは何か?

私という「人」の中の心を「無」にすると、見えてくる。

「自分」とは何か?

その答えが見えてくる。

「自分」とは、「人間」を生かす「命(生命)」である。

心を「無」にする。

その哲理。

自らの生命に生き、自らの生命よって私という「人間」を生かす。

自らの「生命」に従って生きよ。

その境涯の体得。

悟り。

不可能が可能になった。

自らの「生命」で生きる。

仏。

桜梅桃李。

今を生きる。



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人間の価値を創造する心の師:「生命」でありのままに生きる

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人間は人間である。

「人間」は「人間」以外の何者(物)でもない。

人間は人間。

人間が人間として生きる。

人間が人間であることの意味。

その価値。

人間が人間として生きる意味。

その価値。

人間が、より人間らしく生きる為の思想。

価値を創造する。

今を生きる為の哲学。

限りなく高く見える山も、必ず乗り越えられる。

「心」とはそいうものだ。

全ては心。

心は自由自在。

心は「無」となることもできる

心を無にして「生命」で人間を生かす。

宿命を使命に変えることのできる法。

私はその心の「師」となる。

心は私ではない。

心の「師」こそが本来の私という「生命」なのだ。

自分に与えられた道。

自分の人生。

自分らしく生きる為の人生だ。

自らの人生を悠々と生きる。

世の中の自然を支配し、理解するための法則を物理と科学に求めたアインシュタイン。

そのアインシュタインは晩年、物理学や科学だけでは宇宙や人生の究極のものを得る事が出来ないと悟り、その根本の解決法として東洋の宗教に期待をかけていたといいます。

人間とは?

桜梅桃李。

今を生きる。



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この世は「信じる」ことで全て成り立っている


時間は有限。

祈りは、無限。

出来ることを可能するよりも、出来ないことを可能すること。

その意味、その価値。

この世は信じることで成り立っている。

信じること。

信心。

おのれの心を信じる。

己の中の仏と己の外にある神。

その生命。

己が全て。

その正しさ。

その確立度。

その根本。

信じることを貫き通す。

その信心。

妙法。

桜梅桃李。

今を生きる。



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「人間」を生きる「人の道」:人生


人は何の為に生きるのか?

人間という姿で、私という人を生きる道。

人生。

このことを間違えてはいけない。

今というこの瞬間。

「人」が「道理」に基づいて「人間」を生かせば、問題は起こらない。

己の人としての心に道を敷く。

心の師となるもの。

社会や組織においては、歯車としての物の役目を果たすための性能を究め、そこに人間味を付け加える。 

職場においては、常に問題意識を持つこと。

桜梅桃李に生きる人の個性を人間として発揮する。

その道理。

そこに人の問題があるからだ。

その人の問題に真正面から取り組む。

それの闘い。

人間を革命する戦い。

生命。

それは、一人ひとりの今を生きる姿にあらわれる。

妙法。

桜梅桃李。

今を生きる。


人と会うのが苦手な人の大半は、相手と打ち解けるのに時間がかかるものだが、それは出会いの一瞬に相手に対する親愛の情を示さないからだ。

斎藤茂太(さいとう・しげた):1916~2006精神科医・著述家





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人間なんて所詮、「井の中の蛙」


人間なんて・・・

あえて、人間なんて、井の中の蛙大海を知らず 。

所詮、「井の中の蛙」。

「井の中の蛙大海を知らず」 (故事成語)

これには、後付とされるが、「されど、空の深さを知る」、という続きがあるらしい。

また、「空の青さを知る」

「井戸の深さを知る」などとも。

だから、結局、人間なんて、みんな「井の中の蛙」なんだ。

人は、人それぞれ。

一人ひとりの価値とその権利、人間としての尊厳は同じだ。

しかし、井戸から見た空さを知ることが出来るだろうか?

そして、井戸の深さを知ることが出来るだろうか?

あえて人間なんて・・・。

結局、人に、どうでもいい御託を並べるよりも、

「人間なんて、今日できたこと、やったことがすべてやねん」(明石家さんま)ということだ。

自分が人間として、「今を生きた」事が全て。

そのために、「人」から学ぶことが大事。

人間は、死への道を生きる。

人は、生(生命)きる道(未知)を知る。

ちなみに、この世に、「神」や「仏」が存在するとするなら、「神」は、明石家さんまさんで、「仏」は私。

さんまさんの言葉に生かされ、己の心を師とするのは、私という仏の生命。

人間を生きるのが大切だ。

人間を生きるには、「思う」ことよりも「動く」ことが大切。

人間を動かすことに、余計な「思い」は必要ない。

祈って、動く。

人間が生きるということ。

ただ、それだけだ。

境涯革命。 

一生成仏。

妙法。

桜梅桃李に生きる。



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「大切なもの」:桜梅桃李を生きる


不安なことを一つずつ無くしていけば最後には、自信しか残りません。



「自信」と「勇気」と「責任」。

己という人間が生きることの義務(役割)を課し、人としての責任を果たす。

生きることに対する前向きな力。

勇気。

今を生きることの確信。

自信。

自分を信じる力。

大切な物。

守るべき大切なもの。

感謝と報恩の誠を尽くす。

「約束」を忘れてはならない。

「謙虚」を忘れてはならない。

心の師とはなるとも心を師とせざれ。

「人」を磨き「人間」として強く生きよ。

妙法。

桜梅桃李を生きる。








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妙とは蘇生の義なり:桜梅桃李に生きる


何度倒れようとも、立ち上がる。断じて立ち上がって見せる。

この究極の力こそ、不屈の信仰なのだ。

経済苦や仕事の悩み、家族の課題、人間関係、病気の再発、更には、自然災害など、人生には、これでもかと塗炭の苦しみのうち続く難局がある。

しかし、その時が、まことの信心が試される時だ。

「いよいよ強盛の信力をいたし給へ」

題目と唱え抜き、負けじ魂で立ち向かっていくのだ。

「蘇生の義」の妙法である。「絶対勝利の信心」である。打開の道をみいだせないわけがない。

大白蓮華 2016/12 巻頭言「我らは不屈の朗らか長者なり」より



信じることの大切さ。

信じることの強さ。

今を生きることの意味。

自分に勝つための信仰。

己を信じることの出来る正しい法。

「妙とは蘇生の義なり 蘇生と申すはよみがえる義なり」

桜梅桃李に生きる。



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信心とは?:自己を信じ切る「心の師」を確立すること


私の今のありのままの姿。

私が全ての宿業を背負っているというのなら、生命で宿業を宿命に、宿命を使命へと転換して見せる。

毎日、毎日、現実の苦しみから逃れることはできない。

なにも恥ずかしくない、自分が恥だと思う、その恥を晒せない心。

信じることは大切だ。

でも、信じることを止めてみる。

信じるだけでは、現実を変えるには足りないのだ。

信心とは、生命にたどり着く祈りが大切なのだ。


宗教によって「人間」を救うことは出来ない。

救えるのは「人」。

宗教によって救われるのは、その人の心。

しかし、その人の心が救われても、現実を生きる人間の姿が変わるわけではない。

人間を救うのは、その救われた心によって、更に強く心を揺さぶり続けることによって覚醒される生命。

人の心が無となり、その人の人間を動かす力となる。

それこそが生命力。

その生命の力の根源こそ。

妙法。

我が自身の生命。

宇宙の当体。

人間革命とは、意識革命である。

意識を無意識に変える。

生命に革命を起す。

妙法。

桜梅桃李。

今を生きる。



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「妙」とは蘇生の義なり:桜梅桃李に生きる


妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがえる義なり

人生の羅針盤。

生命。

一生成仏。

行学は、信心よりをこるべく候

行学絶えなば仏法あるべからず

病の起こりを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべしこちら(高原の憂鬱)

無限の希望。

妙法。

桜梅桃李に生きる。



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桜梅桃李に生きる:原点


現実を生きることに対する苦しみ、悩み、迷い。

その果てにやってくるもの。

絶望。

そして、希望。

人間とは何だろう。

生きることは、何だろう。

自分とは、何だろう。

肉体と精神。

その存在を支えるもの。

生命。

桜梅桃李に生きる。

その原点。


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より「人間」らしく生きる「人」としての仏道修行


仏法者というのは、自己挑戦の人、自己対決の人です。

我即宇宙ですから、自身を制する人は一切に勝つことが出来ます。

ともかく題目を唱えて行けば、自分が変わります。 自分が変われば、環境も変わる。

その根本がいい加減になれば、すべてが空転してしまい、価値を創造していくことは出来ないからです。


新、人間革命(5783)より




自身の生き方の根本。

謙虚さと報恩感謝。

人間として正しく生きる。

それは人としての道を究める道。

人は生きている間、成長する。

生涯発達。

仏の道は、人間を正しく生かす道理を人として知る道。

妙法。

桜梅桃李。





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理解できないものを理解するということ


好きとか嫌いとか理由の無い生理的な拒否反応は、仕方が無いというように片付ける。

そんなマイナスの最低な答えなんて、答えじゃあない。

理解しようとする時に、沸き起こる感情。

その感情を乗り越えるということは、理解しなければならないものに対する前向きな心によるもの。

その感情の元となるのは、己の?

現在の己の生き方の全て?

感情と感情。

理解できないものを理解するということ

それは、己の中の葛藤。

人間を理解することの難しさ。

思いやり以前の心の器の問題?

心の器より、過敏に反応する心の出来、不出来の問題?

単なる鈍感な人間の愚かさの軽薄な理解より、感情に打ち勝つ生命の塔を打ちたて、その鎖でつながれた心から、発する思いやり。

人間が、理解できないものに対する思いやりを発揮するために、そんなに、己の中で、戦わせなければならないものなのか?

単なる独り相撲。

独り相撲の哲学?

哲学は、孤独な中で生まれるもの。

思いやりって、それは同情。

理解しなければならないものに対する、心の葛藤の末に投げかける重い槍。



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人間の我慢の限界:宗教の袈裟を着て「法」を語る


人間の我慢の限界。

一人の裸の人間の言葉で「法」を語る。

「宗教の袈裟を着てそのユニホーム」で、「法」を語る。

この二つは、全くその語る意味が違う。

その時、その持つ人間の本性が出る瞬間。

一人の人間の本性を通し、その「法」を知ることによって、人間が必要なものを知る。

その宗教を賛嘆し、その組織を宣揚するために、「法」の教えを語る時、人間の我慢の限界を越えて、むき出しにされた本性を知ることは、その宗教の価値を下げる。

その宗教の宝を石ころにする。

その宗教の未来をぶち壊す。

その宗教の本質とその価値を語れないのに語ろうとするもののその心とは?

私のような未熟者では、「ココ」が、どこなのか、わけもわからず、どこのどいつが見ているかも知れないこんな場所で語るのには、どんな批判が来るか、その宗教の宝と大切な【もの】を壊しはせぬかと、名前さえ出す事が恐ろしい。

それは、こんな場所だから。

良識を弁えた人間ならば、

「よくあんな場所で、そんなことが出来るわねえ。」

なんて中身を知らぬものが、勝手な事を噂する。

「一体、常識さえ弁える事の出来ない、非常識な人たちなんだから」、なんてね。

「そりゃあ、しかたが無いかもね。」

「正義、正義」と、正義ならなんでもあり。

なんて風に思っているの人たちなんだから。

慎みや謙虚や思いやりが、そのやり方のえげつなさに、かき消されてしまうほどの正義の履き違え。

宗教を信仰しながら、世間の常識からずれていく、この非常識。

でも、それをその宗教の正義と勘違いするドアホ。

本当に、極普通に生きていらっしゃる人には、迷惑極まりなくて申し訳ありませんと代弁しても収まりません。


一部で見られるそんな、今のその宗教の実情。

憂慮しなければならない心配事を、上からの号令だけで、猪突「盲信」。

突き進もうとする。

元気がいいのはいいけれど、礼節を弁えられんのかね。

その宗教の看板が泣くよ。

それは、私には、愚かに見える。

「物言わぬ」本当に、その宗教の価値を知る良識を弁えた高き生命の人たちは、見えているはず、感じているはず、心配しているはず。

でも、私は、「一人の裸の人間の言葉」で、「法」を語る。

だから、あえて、その宗教のダメだしをする。

それは、その宗教を大切にしているから、絶対に壊せない宝があるから。

きっと心配しているはず。

号令だけで動く、イエスマン達。

一番大切なもんを忘れてはいませんか?

大切な人が、一番恐れているものはなんですか?

その宗教の本質とは、利他と慈悲。

未曾有の理想。広大無辺な理想。

その宗教の素晴らしさを、にわか仕立ての袈裟を着て、人に教えを説く坊さんにでもなったつもりで、出家並みの修行や過酷な現実を生きたわけでも無いのに、わたしゃ、頭が良いといわんばかりに、理路整然と、「偉そうに」法を説く。

何様のつもりじゃ!

そんな暇があったら、一人の大切な人を救える人間になるために、現実を生きんかい!

法は、お前が偉そうに、こくもんじゃねえ。

おまえ自身に現実のために説く法だろ?

誰も法を説いてくれなんてそんなことを誰が頼んだのかねえ。

俄仕立てのお尻の赤いお坊さん。

ネットはホントに厄介だねえ。

一著前に、お釈迦さんにでもなったつもりで偉そうに法をといても、やっぱり、人間は人間。

その馬脚を現す時がやって来る。

その本性を現すときがやって来る。

中身の無いものに、紙を貼り付けても、当然、雨が降れば破れて、おんぼろろ。

攻撃される事を承知でも、結局、そいつの我慢の限界。

我慢の限界とはなんだ?

己の負け。

しかし、その負けを認める事の出来ないその生命が、本性をさらけ出す。

見ているだけで哀れ。

その哀れさの結末は、誰がそいつの尻をふくというのだろう。

その尻を拭かされて汚されるのが、その宗教じゃあないのか?

情け無い。

逆切れして、そのネットで、攻撃したものをこれでもかと晒す。

何のためのその宗教の宣揚なのだろう。

それは、その宗教は、人を選ぶと言う権威主義に映らんか?

その宗教を褒めちぎり、宣揚する事を己の役目として振舞いながら。

人の幸せを祈ることの出来るその宗教。

利他と慈悲の、その宗教を宣揚しながら。

そんなときには、都合よく自己保身のために、その「法」を都合よく使える。

逃げるために仏法を解釈する。

そんな意味では、法というのは、頭のいいだけの尻の赤い猿でも使える者には万能。

使われるその宗教にとっては不幸。

桜梅桃李。

今を生きる。




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