「アンチ」を自ら増殖させる自称・創価学会員


似非で、軽い乗りで宗教ごっこを繰り広げるネットでみる異臭を放つ世界。

言いたいことがなんでも言える世界というのは、こうまで人間の中のエゲツナイ心の底の生命に蔓延るドブのような蓋をしておきたい部分を抉り出すのだろうか?

現実の世界から遊離した世界で、ネットの中でまるで幽霊やゾンビの如くにうろつきまわる。

しかし、自称、創価学会員は、自分が神様にでもなったつもり。

いや、仏になったつもりか?

というくらいの勘違いの宗教を創り出す。

ネットでみる、自称、創価学会員。

創価を批判し、創価に対して好感を持たない人間に対して、「アンチ」扱い。

「アンチ」=創価を理解できない馬鹿な奴ということでひとくくりにして、こんな奴らと話しすることなど無駄だとばかりに、偉そうに相手にしないと決め込む。

アホ創価学会員。

お前、いつから、世間にそんなエラそうな態度をとることが出来るほど、出世したんだい?

自分は偉くて、偉い私が所属している創価を毛嫌いする奴なんざ、人間として相手にしてやんねえよ。

ってか。

世間を挑発してそんなに愉快か?

ネットで偉そうに、何を狂ったことを言っているのかしらんけど。

そんなこと区別や差別や壁や違いを創り上げるために宗教ごっこをやっとるんかい!

自称、創価の汚い人間の中の傲慢。

まったく。

そんな自称、創価がブログで好き勝手なことを、創価が言っているかのごとくに、「アンチ」、「アンチ」といらぬ敵を創り上げることが、お前ら自称、創価学会員のやることか?

根本の哲学を弁えず、正しい法を己の汚いエゴと傲慢で捻じ曲げる。

自称、創価学会員の俺が、創価の代表だっ!

ってか。

お前ら、ネットの創価のアンチを毛嫌いするアホ創価は、確かな哲学にとっての脅威であり、お前ら自称、学会員こそが、「アンチ」そのものなんだ。

ネットの自称、創価をなのるアホな学会員を、早く掃除してほしいものだ。



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「わたしの創価」:想い


いつか分かってくれる。

いつかきっと、この信仰の正しさがわかる時が来る。

母は、そんな言葉をよく言った。

でも、なぜ、その時にわからせてくれなかったの?

って思う。

小さい頃、私は知らずにこの信仰を授かった。

何も知らずに母の言われたとおりに、宗教活動を行っている組織の中に信者として入信させられた。

親達は、先祖代々の信仰を捨て、新興宗教といわれる団体をいくつも渡り歩き、現在の宗教組織にたどり着いた。

不思議な縁だね。

その宗教団体が、今、日本で最も大きな組織として存在している。

組織が大きくなるのには、それなりの理由がある。

幸せも、不幸もあった。

何も変わらなかった。

そんな風に思っていた。


知らずに受けた信仰に対して、恨んだりもした。

憎んだりもした。

組織の信仰の仮面をまとっただけの、大人たちの人間の汚さを見せつけられた。

人間が信じられなくなった。


人間を信じることの根本を知るための信仰になのに、人間を信じられなくなる宗教組織に入信させられる不幸。


これ以上のわたしの不幸はないではないだろうか。

私自身を呪ってみたりもした。


学会によって、何年もの間、わたしは苦しみ続けた。

でも、今は、その全ては過去。


わたしにとって創価は、好きでも嫌いでもない。

でも、思いは深い。

深くて、その思いは、互いの信仰というものなしに語ることはできない。

己の信仰とは、こんなものなんですよ。

なんて言うことを書けば書くほど、嘘になる。



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ネットの創価が学会を滅ぼす


私は創価学会員であり、創価学会によって授かった仏法を信仰しており、その仏法における教義と哲学を根本として、記事を掲載しているわけですが。ネットにおける当サイトのポリシーとして「創価学会」のことは意識して、これまで取り上げないようにしてきました。。

それは、「創価」の中だけと言わずに世の中には、素晴らしいと感じる生命を持つ人は、他宗を始め、信仰さえ持たない人の中にもいくらでもいらっしゃいます。また、学会員だからといって、これだけ組織が肥大化すれば、全ての人が、世間的な常識を弁えた人たちかと言えば、必ずしもそんなことは無く、一般社会からも、創価学会の人間は、非常識といわれても仕方のない人もいるわけです。

勿論、それは、私を含めてのことであり、創価といえども、言ってみれば、なんら世間の人たちと変わらない。いえ、逆に、多くの悩みと問題を抱えたまま、そのまま消化できずに悶々と苦しんでいる人の方が多いのかもしれません。それは、創価だけに限らず、「信仰」と「宗教」を選択する人の心の闇は深い。一般世間から非難されるような行動を取るという人が、創価や、信仰・宗教をしている人に中にいても、それは、至極、当然のことなのです。

信仰とは、一人、一人が、社会の中で、役目と責任を果たせる生き方が出来る人生の独立自尊を体得するためにあり、宗教とは、その一人ひとり、個人のためにあるのであって、創価という組織のために人間個人の信仰があるのではない。

あくまでも、ひとりひとりの自己確立を目指すための信仰心を生命に開き続けることの役目を創価と言う団体は担っているわけです。

一人、一人のその心の中にある信仰心を現実の生活に即して、そのあり方を語ることが、創価を語らずとも「創価」を語ることになる。しかし、その方法は各人各様。それぞれの境涯と境遇における宿命転換の道筋の中で、己の心と生命に映る現実を語ることが、「創価」の「価値」の種を撒くことにつながる。そんな風に考えます。

他宗を批判する、寄せ付けない雰囲気を醸し出し、創価が宗教界の王者と名乗るのであるならば、こんなネットという場所において、その他宗がしていることと同レベルな宗教活動をして良いものかどうか、それぞれの己の「創価」によって与えられた、その信仰心を育てるための根本である哲学に、常に、問うてみる必要もあるのではないかと考えます。

寄らば大樹の陰。大きなものを主張することによって、己を大きく見せようとするために、己の信仰心を隠すための道具に「創価」と言う名前を簡単に使うことが、己の中で許されるのならば、それは、本当の信仰心があるのかどうかその覚悟を命に問うことが、また、必要になるのではないかと考えます。それは、己自身の過去の浅墓な行為としての事実から感じ取れることの答えでもあります。

しかし、私が「創価」が備える根本と、その本質に対して感じる「誇り」と「恩」は、ひとしおです。

恩は恩。

わたしは、わたし。

その恩を返すのは、私の中の信仰心。私の中の信仰心と言う【もの】を顕すことによって恩返しをすることが、己を変えることになる大切なことと考えます。だから、「創価」を名乗る必要はないし、創価の中の哲学とは、己の中の信仰心を開くためのものであり、その哲学を現実の生活における人生に反映させるためのものである。

そして、哲学であるこの信仰の究極、「利他」の信仰、更に進んで「慈悲」の信仰であるということは、言葉の意味や観念として理解は出来ます。しかし、生身で現実を生きる、それぞれの人間の千差万別を考えれば、利他や慈悲などどいう、言葉の意味の本質さえ理解できない人間が、お利口さんの信仰者を装って、ネットで、自身のお尻がかゆくなるような、自分の中で体得さえしていない言葉を並べて余所行きの「猫なで声」を使うことに意味があるのかどうか?

「自分に無いものを背伸びして見せても、後で、自分が恥ずかしくなるだけ。」ともいいます。

それよりも、私が感じるのは「ネット」と言う場所で「創価」を使うことのマナーを弁えることを、学会員の方は学ばれた方がよいとも感じます。ネットの社会を「こんなところ」と言うのは、語弊があるのかもしれませんが、己の中の本当の宝であるなれば、本当の価値を知らずに、こんなネットなんかで「創価」「創価」と宣伝することよりも、そのメリットと、デメリットを信仰者の知恵として学び、真摯に受け止め、「組織」「組織」とその枠を固めようとして、創価の団体の力をひけらかし、広げれば、広げるほど、ネットと言う世界では、不特定の傍(はた)で観戦する人達は、理解を傾けようとすることよりも、逆に、更に、かたくなな拒否反応を示す場所なのだということを、学ぶべきなのではないでしょうか。その学ぶべき根本こそ、妙法の中の題目にあるのではないでしょうか。

そんな意味では、このネットという未成熟なメディアの世界に、多くの信仰者達が、こぞって参加し宣伝まがいや宣伝そのものに終始する宗教団体と同列な場所で、まるで「創価」の宣伝チラシをばら撒くことがいいのかどうか。

ネットのメディアが、宗教の根本の教義を語ることにふさわしい場所なのかどうかの意味を問うことと、その行動の根本を疎かにすることがあってはならないとも感じます。そこには大きな責任が付きまとうのだとう言うことです。ネットの発信者は、創価を名乗るのであれば、この「ネットというメディア」のもたらす影響を理解しなければなりません。単なる個人の自己満足のために、創価の名前を使うのならば、それが、正しいことの根本から発していることなのかどうか、それは、真剣な戦いを求められているということに気がつかなければなりません。そのような、のべつ幕無しでいいのかどうかを信仰心によって、己自身にその善悪を啓蒙する必要もあるのでしょう。

ネットで、信仰と宗教・創価を、語ることの意味を、現実のリアルさ以上に、真摯に受け止め、己の信仰心を発揮することにつなげていかなければ、逆に法を下げ、宝の本当の価値を石ころにしてしまう。その怖さを知らずに、ネットで軽々しく語ることの恐ろしさを、喚起しようとしないのは、ネット社会が、特別な場所であることを示しているのかもしれません。その特別な場所であるということの意味を、信仰によってまた、見抜いていく知恵を得ることがネット社会を変えることにつながるのではないかと考えます。

最高の信仰を保ちながら、「人」や「物」に利用されるのでは、あまりにも愚かです。最高で最強であるこの信仰。もっともっと、その力を己自身の知恵を発揮するために、利用しつくしていかなければなりません。そこに必要なものは、生命からは発することの出来る信仰心以外の何者でもありません。

いいことも、悪いことも全部、受け止めることのできる生命を発揮できるのがこの信仰。そして、本来の理想は、もっともっと大きい。いいことも悪いことも「どんなことも言える」。逆に、言われて困ることなど何一つない。批判されることに、目くじらひとつ立てることも無いはず。そんな風に、何でも受け止めて行く覚悟も必要なのでしょう。

学会可愛さゆえに、つまらぬ我が身の保身のために擁護するための「法」を使って正論と称する言い分けすることは、創価学会が、非難や中傷を受ける事の理由のひとつであるかもしれないし、結局、非難される側にその原因の根本があるのだというところに帰着できないという己の信仰心に立ち返れることの出来ない、己の傲慢さを露呈しているのかもしれません。

仮に、創価学会が崩壊しようと、更に、発展しようと、究極、一人ひとりの信仰が確立されれば、どうでもいいこと。一人の中に永遠に消えない創価の存在が厳然として、己の生命の中に存在する。宝は、創価学会と言う団体にあるのではなく、信仰者の一人一人の中に目に見えない最高の宝として絶対的に存在する。

しかし、ネットの安易な信仰活動の世界では、外部の創価を毛嫌いしている人たちが創価を攻撃し、創価学会を潰すのではなく、その内部から出てくる愚かな信仰者の獅子身中の虫によって、時代を察知できぬ変化の結末が、創価の崩壊につながる可能性を秘めていると言うことを否定することは、出来ません。

それは、リアルな現実よりも、更にリアルなのかもしれません。

 サイト運営者 2011/3/6  


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ネットの先に見える目:心と精神の退化

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人間の顔。

その中の目。

「目は、口ほどにものを言い。」

相手の心の強さと、心の色を感じ取ることの出来る目。

目は、現実に映るものを見るためだけにあるのではない。

その瞳の奥に隠された真実を見つめるためにある。

「対話」とは、互いの心と心を確認しながら、互いの立場に立ち、相互の利益をもたらす話。

「対話」とは名ばかりのどちらかの主張を繰り広げることなど、単なる議論でしかない。

対話、対話と言うけれど、心を語ることの出来ないものが対話など出来るはずが無い。

出来ないことを、借りた言葉だけで、いい格好をする。

自分の言葉に責任を持てぬ、自分の尻さえ拭けぬものが、対話、対話とほざく。

「目は、口ほどにものを言い。」

ネットの世界で何の意味も持たない言葉。

人間が、人間を見つめる為の、大切な言葉が死語になる時代。

人の目を見て話すことの出来ぬものが、ネットで人間について語る大きな間違い。

ネットの先に見える目は、決して人の目を直視する勇気など無い、常にうつむき加減の焦点の定まらぬその目線。

その先に見えるもの。

猜疑心と懐疑心の塊。

この世に対する悲観と諦めと絶望感、現実に対する無力感による幻覚への逃避。

その目線の先に見えるもは闇。

暗闇。

その暗闇を映しだすのが「ネット」。

そして、その人間の目に映る暗闇の中から、何一つ根拠の無い、無責任で無差別な、適当なターゲットに対し、憎悪や憎しみ、怒り、嫉妬といったありとあらゆる悪魔的な攻撃の本能を呼び覚ます入り口がぽっかりと開く。

それは、もう、救う事の出来ない「自我」の崩壊を辿る道。

人間が崩壊する。

本当に崩壊してるじゃあないか?

それがわからないのは、お前さえもその崩壊の道を歩む「同じ穴の狢(むじな)」というこだ。

ネットの先に見える目。

まるで、死んだ魚の目みたい。

その目は、活きた明るい未来を自ら開こうと渇望するものを何一つ感じる取ることは出来ない。

現状に対する不満と、その捌け口。

己自身の人間の弱さの中の、愚かさにさえ気づくことの出来ぬ、救いがたい程のその愚かさを、なんと呼べばよいのだろう?

人間についている道具の数々。

もともと付いている道具を必要とせぬもの、使わぬもの。

人間という「者」が、「物」に変わる時代を生きる人間にとって、今を生きる現実は、人間に与えられたお道具箱が使われずにどんどん、倉庫にしまわれて、錆びて使用不能、そして、使い方さえ理解不能になってしまう時代。

便利さを得る代わりに、どれほどの道具が失われしまったか?

愚かな時代を更に生きる人間。

人間は生まれるのではない。

もはや単なる生産物になる時代。

そんな選択肢を選び続ける未来を考えれば怖いねえ。

今の時代、人間についているお道具は多すぎるのではないかいな?

何を言いたいかって?

便利な時代を作り上げた人間の進化の過程の中の、人間が生きる世の中の文明社会。

これまで「必要なこと」がどんどん必要でなくなる時代。その時代を生きるためには、人間は、便利な社会の恩恵を受けるために適応しなければならない。

それは、人間が善の利益と引き換えに、必然的な副産物として生まれる必要悪という罪つりな業。

人間は、背負わなければならない。

人間は、その罪作りな業による罰を、時代を生きるものたちが受けなければならない。

宿命と宿業。

やっぱり、これは、「呪い」と「祟り」だな。


適応することの能力を高めることは、人間の進化の過程の辿る道。

必要なものを取り入れ、不必要なものを切り捨てる効率的な効果と結果ををもとめる合理的社会。

見えないものを理解する非合理的なものよりも、見える確かなものを優先する合理的で単純な社会。

脳みそを必要とするものと必要としないものを生み出す社会。

人間から生まれるロボット。

人間の姿をしたロボット。

ロボット社会。

人間の不幸。

不幸を感じる心。

その見えない心の合理性と進化を切り捨てる時代。

今感じている、心の幸福と幸せは、その内、人間にとって、何の意味も無くなりそうな気がする。

否、それは、進化の過程を辿ることの結末にとって幸せなことかも・・・。

人間が幸・不幸によって苦しまなくても済むことになる。

猿の惑星は、やはり、現実の未来の人工知能のチップがたくさん組み込まれた正真正銘のロボット達の惑星になって実現するのかもしれない。 (・・・そんな映画もあったような・・・)

心を必要としない社会の進化は、知能のみが支配する社会。

生き物の進化の過程。

人間の善と悪の相対的観念の放棄。

切り捨てる時代が進化の過程ならば、人間が最終的に選ぶ道は1つしかない。

対話ができるのは、心を備えた人間にしか出来ない。

心の進化を語れるのは対話でしかない。

その対話の中の心を見つめるものは、互いを信じようと強い意志のシグナルを発する「目」と「目」。

桜梅桃李。

今を生きる。



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不毛:未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ


玉石混合の混沌とした世界。

魑魅魍魎と言う言葉もぴったりだな。

本当の宝石までもが、単なる石ころになる世界。

現実。

更に、如実に表わす現実を拝みたいのなら、ネットを徘徊するべし。

ただし、廃人から、ゾンビにならぬ覚悟を胆に据えるべし。

現実から遊離し、乖離した、夢と現と幻の世界を生きることになる。

そんな怖さと勇気がないのなら、ネットなんぞに首をつっ込まぬ方がよい。

下手すりゃあ心の病を更に加速する。

麻薬の世界。

幻覚の世界。

しかし、そんな世界で、宝もある。

しかし、その宝を探すことなど、常人のレベルでは不可能。

宝を石ころに変える世界。

そんな世界に宝を持ち込むとこの意味。

与えることに意味の無い一方通行の世界。

不毛の地。

周囲は溶岩だらけ。

死の連鎖をとめることが出来るかな。

顔と顔をあわせ、目と目を見つめることでさえ、人の心の今を推し量ることさえ出来ないのに。

言葉に心を託したとしても、いかほどの効果があるのかな?

観念の理論武装をしたところで、結局、こんなところで勝とうが負けようが何の意味も無い。

刹那以外のなにものでもない。

愚かな自己満足。

ネットの功罪。

人間は誰も、最初から罪を作ろうと何かを発明したりはしない。

罪作りな人間の業。

重たいアナログな世界のお話を、0と1のデジタルに加工された世界で語る事を誰が賛成しているのかな?

それは、自由を履き違えた得手勝手な傲慢のなせる業かな?

ネットの威力とその功罪。

人間の悪魔が囁く。

無価値なものが価値を生み、価値あるものが無価値な世界へ追いやられる。

インスタントラーメンに袈裟を着せて説法をしたところで、その背中に電極をつなぐプラグがはっきりと見えてるぜ。

未来を創る、未来を予想する。

『過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ』

『未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ』

気がつく哲学。

変化の哲学。



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アイドル・偶像:生命哲学の奥底


目に見えるものばかりの世界。

「看板」に映る文字、や表面的な「美辞麗句」に繋がりを求める世界。

アイドル・偶像。

それは、単なる奉られた「から」のお人形。

刹那で愚かなおまえの「空想」と「妄想」を、その「から」の中に詰め込むのにはちょうど都合が良い。

「ネット」の偶像・アイドルは、現実のアイドル・偶像よりもたちが悪い。

嘘と誤解と錯覚と巧妙さの中の、根拠のない客観と偏見的な主観。

より正しさを求める世界から遠ざかるありとあらゆる非人間的な世界。

人間のプラスの本質から遠ざかる世界。

見える文字と数字の結果のみにその価値を求めようとする愚かな人間が、より愚かさを発揮できる好都合な場所。

人間の心を踏みにじり、心を抹殺することの出来る信号の世界。

ネットの世界の一番は、現実の世界の一番か?

一番の嘘と誤解と錯覚と巧妙さの中の根拠のない客観と偏見的な主観の世界。

心の世界と精神、そして、更に深い生命を語る世界に、番号付けする意味があるのか?

生命を「心」で語ることのできる世界か?

何を根本に対話すとるというのか?

単なる文字と同じ、表面的な知識を積み上げた観念をひけらかすことか?

ネットの世界で、信号として、目に見える繋がりをリンクという手段で強調する世界。

検索エンジンさん、お疲れ様です。

つながってますよ。

日常に、やる気と潤いを与える、和気藹々で楽しい世界。

それでいい。

しかし、はなはだ、確かな哲学の基点は、そんな嘘と誤解と錯覚と巧妙さの中の、根拠のない客観と偏見的な主観の世界に無い。

生命哲学の奥底には、目に見える繋がりに意味を求めることよりも、目には見えない繋がりを確かに心で感じ取ることの出来る生命を磨くことこそに、意味がある。

「単なるブックマーク」と言ったその人の言葉の意味がわかった。

凡人のつぶやき。



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ネット中毒・生きる屍達よ


ここ数日間の私の書いた記事の中で【感情・怒り/ネット社会】のカテゴリー・テーマで書かれた記事の数本を削除いたしました。


ご訪問いただいた方には、とてもお見苦しい記事であったかと思います。また、残念な思いをされた方もいらっしゃるかと思います。


大方、残念な記事ばかりなのですが・・・。


この場を借りてお詫び申し上げます。


幾つかのきっかけが重なり、それらの記事を書くにつれ、冷静な状態で書いていると感じていたのもが、いつのまにか冷静を越えいることに気が付けなくなっている自分がいたのです。


「見えるものが見えない」という言ってみれば、前後不覚でお先真っ暗。


根本というもの。


それが崩れると、こんなにも流されてしまうものなのだということをまた知ることになりました。しかし、その感情に流されている自分というのは、その間も冷静の「つもり」でいる。


対象物の感情が私の感情に乗り移って、その渦に引っ張られるというように感じる感情の暴走。


自分は大丈夫だなんて思いながら、気がつけば、自分の心は、その対象と同じ状態になっている。


いえ、それより具合の悪いことに、それを、分かっていながら、尚、それでも気がつけない。


その感情の渦の中で書かれた記事は人が見れば、とても読めるものではなかったかもしれません。


それでも、記事を書いている自分というのは、正常だと判断している。


その削除された記事の中の一部に、「ミイラ取りがミイラになる・・」の記述がありました。


ネットの中の移動の怖さを指摘しておきながら、その書いている私自身が、ミイラ取りはミイラになりますよ。という指摘によって、私がミイラになろうとしていたのです。


ミイラ取りのミイラを指摘して、そのまた私が、ミイラになる。


感情の暴走というものの怖さ、また、大丈夫と思いながら、自分では気がつくことが出来ない怖さ。


一体、このようなことを何というのでしょう?


心の隙。


ネットの罠。


そんなものなのでしょうか。
 

いえ、違うのかもしれません。


感情の暴走と言うものは、そのスイッチと言うものをなかなか切ることが出来ないようです。


スイッチを切らなければならないというその制御さえ不能に陥ってしまっている。


一度、暴走しだすと、とことん。


そんな怖いエネルギー。


「風の谷のナウシカ」といアニメがありましたが、その中に出てくる王蟲(オウム)の暴走。


しかし、私の生命の歯車と、心がかみ合わなくなった暴走のエネルギーは、王蟲(オウム)の暴走よりもたちが悪いのではと感じました。


王蟲(オウム)の暴走は、赤い攻撃色を発します。


しかし、わたしの冷静を越えた感情の暴走、その攻撃色は青い色のままなのです。


何故かと言えば、そこには、まだ、その感情に、理性の糸が繋がっているといると錯覚している自分がいるのです。


その暴走を正しいことをしていると自分では勘違いしているわけです。


ミイラ取りのミイラを指摘し、助けようとして、私がミイラに陥っている状態なのです。


いやはや、なんとも・・・。


一体、私の報恩感謝と、今年の目標である、笑顔というその願いはどこにいってしまったのか。


残念なことです。


己の醜い本性を戒めるためにこのブログは存在しなければらない。


多くの素晴らしい人達のその姿を、もっと学んでいかなければならない。


他者を批判するという己の基準と言うものが、未熟であり、未完成であると言うことを前提で、このブログのTOPページの「はじめ」の欄に私自身が誓いながら、いつの間にか、いらぬ方向に向って刀を振り回しているのでした。


そのようなことで、今、その間の記事を振り返れば、痛いというか、苦しいというか、身もだえするほどのその記事の残存は、その記事掲載後のしばらくの間の期間を経て、本当の冷静を取り戻せるきっかけを得ることによって、更に、その冷静を得るための辛さと痛さの回復のための身もだえによって、現在。今、この記事を、「冷静」を持って書くことが出来ていると感じています。


今日の反省をもって日々、改めてまいりたいと思います。


ご迷惑をおかけしました。 サイト運営者



※記事内容につきましては、掲載後内容と一部削除、変更しています。


☆お断り


削除・不掲載とした記事に関しまして、現在、【ネット社会/雑感】として再掲載しています。


チクル徘徊から廃人へ
ネット回路の徘徊物
知っているのに知らんぷり
厄介で迷惑な偽者
血脈の証・紋章


再掲載の理由に関しましては、各記事をご覧ください。



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血脈の証・紋章:命を賭す覚悟


看板。

看板とは何か。

社章。

紋章とは何か?

それはお前の紋章か?

その旗はお前のものか?

旗と紋章を振りかざす意味は?

その看板を掲げるなら、命をかけていると言うことだ。

その紋章を使うのにどれほどの勇気と覚悟が必要だろう。

命をかけて全力でその紋章と旗を守り、背負って語るならよかろう。

しかし、その紋章と旗は、お前のものではない。

その紋章とその旗は、命を掛けて道を切り開いてきた先人達の栄光の証。

私達の財産だ。

私達の生命の財産だ。

一人が所有することは出来ない。

「私達」の生命の血脈の証。

単なるトレードマークとは違う。

トヨタの社員だからと言って、

トヨタの看板・ロゴ・シンボルマークを安々と掲げてブログを書くだろうか?

警察官が紋章をネットに貼り付けてブログを書いて、ネットを取り締まる気になるだろうか?

そんなパワーがないから仕事だけで十分だ。

凡人ならね。

凡夫ならね。

謙虚ならね。


誇りのある社員ならその刀は使わぬときは大切にしまっているもんだ。

しかし、その覚悟で、一度揚げた看板を外すことは、負け犬を意味する。

負け犬と言うことがどんなことか解っているのか?

人生の敗北ということだ。

そんな覚悟を持っているのだろうか?

大切なものを汚すことは、私達を同時に巻き込むこと。

無いなら、お前の中に存在しない紋章を語る資格など無い。

そんなことを知ると知らずか。

謙虚もクソもないのか。

自己主張ばかりの傲慢が、手前勝手が当然の似非には、謙虚と言う言葉は意味不明か?

そんな気持ちで看板を背負えば、会社の社運はお先真っ暗。

会社が潰れるのはかまわんか?

潰れれば、他の会社に職探しか?

それは、みんなのものだ。

お前のものじゃあない。

その価値を汚さないでくれ。

紋章と旗を汚さないでくれ。

その紋章に秘められた価値。

そこには「血脈」が流れているのだ。

中途半端は許さん。

現実でまみれ、赤い血を流しながら懸命に生きている人たちを想像できるのか?

その紋章を自ら選択することは、全部を背負うと言うことが解っているのだろうか?

その旗の願い。

その紋章の誓い。

その価値と願いを壊さないでくれ。

その看板を出せば、もう、後には引くことは出来ない。

生「命」は、24時間時どんな時もその鎖つながれているのだ。

オフタイムは無い。

言い分けをすることは出来ない。

発するところはその紋章から発せられるものでなければない。

それが看板を背負うという意味だ。

それがネットで24時間紋章を掲げると言うことだ。

覚悟。

※この記事は、一度、不掲載(不掲載の理由→お知らせ) に致しましたが、一定の期間を経て熟考の末、再掲載させていただくこととしました。記事の内容に関しては、具体的な名称などには、一定の配慮を加えてあり、私の中で感じた、今、その瞬間の事実であり、個人の自由な思想と信条に基づき未熟な人間として感じることでもあります。事実である表現を隠すということは、自身を否定することになります。また、記事によって誰かを否定するということではありません。このようなことから、公開することになんら不都合は無いという判断に至りました。読者が不愉快な思いをされるようなら、今後、当ブログをスルーされることをおすすめします。



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ネット回路の徘徊物:心の師とはなるとも、心を師とせざれ


「心が師となる」 ネットの奴隷と傀儡を産み出す制度。

「kokoroが師となり」 心をネットに搾取される制度。

巧妙。

なんせ、世界の言葉を操る巨大なデータバンクなんだから。

ネットを徘徊する中で、息を殺し青白く生気を吸い取られた、

もはやシステムに組み込まれたネットの傀儡、奴隷。

心が、ネットの中で、ネットの奴隷になる怖さ。

ネットの回路の中で、心の回路が遮断される怖さ。

遮断させようと徘徊する、ネットで心の回路の破壊されたものの、汚れた足跡。

汚い土足で、平気でウロツク。

心の回路が、ネットの回路の奴隷となる、その怖さ。

ネットの中で、ミイラ取りがミイラになる怖さ。

呪われたネットの「恥部」。

人間が作り上げたシステムだ。

その善と悪が、鮮明に如実に、相対となって現われる。

それは、己の生命の中に存在するそのものだ。

現実以上の悪臭を放つネットの世界には、

現実の言葉などを投げかけることに意味が無い。

文字化けしたã–‡åæ–æと同じ。

通じることが無い。

目に見える「物」を宣伝とスパムでその価値を空気を入れて膨らます世界で、

人間の真実の価値を語る、見出す空間など、埋没して書き消される世界。

今日書いたものなど、その上に上書きされて、ないものと同じゴミになる。

ネットの世界は、言葉の羅列の中のキーとなる情報を収集するアルゴリズムが支配する。

心が優先するわけではない。

必要なものと不必要なものの判断の選択基準。

その幼さ。

しかしながら、それが、この世の世界の最先端と言うわけだ。

相互扶助のもとで情報の共有とシェアが目的とされる人間が1つになれる善の思想。

今や、相互不所かいな?

大切なものが置いてけぼりにされ、人間の本性がどんどんむき出しにされていく。

付いていけないというか、もはや、心の入る隙を与えなくしている。

ネットはそんな窮屈な世界の一面をも広げているのである。

心の空洞を広げながら、ネットの世界は、膨張し続ける。

言葉に本当の価値を持たない「ランク付け」のネットの世界では、

本当の価値を求めるものがその価値を産み出す。

人間社会の範疇にない、見えるものだけが優先される社会。

物だけが動くそのネットの本質。

そして、人間の中に存在する溜まりに堪った精神の、小便や大便のような汚物を撒き散らすための手っ取り早い、排泄物の排泄場所のようなドブ。

そこら中に、うんこやしょうべん、死体がころがっている。

自分で踏んづけておいて、人のせいにする。

ネットとは、そんな場所だ。

そんな無秩序な場所であるのなら、

与えようとすること、気がつかせようとすることなど何一つ必要ない。

ほしいものを取りに来ればいい。

黙って持って帰ればいい。

必要が無ければ、黙して語らず。

語ったところで不毛。

ドブの一片には、毛は生えん。

窒息死するだけだ。

気づかせるのではなく、お前が気がつけばそれでいいんだ。

それが、語ることになる。

与えられるものでは無く、自ら得るもんだ。

正しい選択眼を持つものだけが得ることが出来る。

『心の師とはなるとも心を師とせざれ』

わかろうとする心が無ければわからない。

傲慢。

「人生の病根は傲の一字」

A4のコピー用紙程度の薄っぺらな心で語る徘徊物。


※注記1記事文中の「あなた」「お前」「おまえ」の二人称は、全て「私」「己」の一人称のことであります。

※2この記事は、一度、不掲載(不掲載の理由→お知らせ) に致しましたが、一定の期間を経て熟考の末、再掲載させていただくこととしました。記事の内容に関しては、具体的な名称などには、一定の配慮を加えてあり、私の中で感じた、今、その瞬間の事実であり、個人の自由な思想と信条に基づき未熟な人間として感じることでもあります。事実である表現を隠すということは、自身を否定することになります。また、記事によって誰かを否定するということではありません。このようなことから、公開することになんら不都合は無いという判断に至りました。読者が不愉快な思いをされるようなら、今後、当ブログをスルーされることをおすすめします。



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知っているのに知らんぷり:ネットの徘徊物


干からびたスカスカの「kokoro」のスキマだらけ。

知っているのに知らんぷり。

出来た大人ばかりの社会なら、

「知っているのに知らんぷり」で、世の中丸く収まるもの。

「見てみぬふり」をするのも、大人社会の出来た人間のなせる業。

人間の器とは?

出来た大人なら、「大人になれない大人」に対しても、見てみぬふりをする。

しかし、「大人になれない大人」には、大人社会の思いやりなど理解できんらしい。

己のことは、知らんぷりは出来ても

他人のことは、知らんぷりができん。

口を出さねば我慢ならん。

「病膏肓に入る」の入り口だ。

こんな言葉があった。

「重箱の隅を突く」「箸の上げ下げまで気に入らん」

卑猥で矮小で、オマケに・・・やめておこう。

気色悪いものに触れることの瞬間に、吐き気を催すほどの醜さ。

1つの社会の中で引寄せられたその汚いものに、己の、心の底から湧き上がる憎悪。

おのれの生命の中から心を通し、憎悪の念がメラメラと立ち上がる。

憎悪。

そして、嫌悪。

その憎悪と嫌悪は、己の弱さの証明。

愚か者の生命に対する憎悪に、己の中の愚かがにょっきりと断ち切ることの出来ない本性を現す。

噴出するその憎悪と嫌悪は、更に、憎しみを増す。

ありとあらゆる方法で、その汚い感情の捌け口を、愚かな生命で探そうとする。

連鎖。

マイナスは、プラスの中の汚い本性をさらけ出す。

鏡。

汚いものに触れれば、己の中の汚いものが、ゾロゾロト蠢き始める。

蠢き始めるのだ。

そして、止めをさそうとする。

己の中の誇りと正義が、己の生命の中で、悪魔に変わる瞬間。

己とは、いつでも悪魔になれる。

常に感情と冷静のハザマで揺れている。

そこに理性がついていけなくなる。

己の生命の中の悪魔を呼び覚ますもの。

決着を誓う瞬間。

人間とは、間違うもの。

人間はどこまでいっても人間だ。

間違うから人間なんだ。

人間なんだ。

だから生きるんだ。

精神を養う肥やしの足らん物。

人格を備える為の器を持とうとせぬモノ。

持たぬもの。

最近まで聞いたような、人格や品格という言葉など絶滅語。

それに変わる新語が必要だな。  

おのれ以外の人間に対する憎しみ、おんしつ、嫉妬は、大凶。

大凶とは、死。

おのれ以外の人間を苦しめるつもりが、おまえ自身を苦しめること以外のなにものでもない。

こんな言葉がある。

「死して屍拾うものなし。」

「死して屍拾うものなし。」

あぶない、あぶない。

こんな言葉もある。

「人を呪わば穴二つ。」

ノミの心臓程度の持ち物では、寛大という心の置き場所などあるはずが無い。

欺くための卑怯の悪知恵だけは人並みに働くくせに、毛さえ生えないちんけなノミの心臓。

でも、みんな、なんだかんだ言っても、一生懸命生きてる。

人間が生きているということだけで、前向きだ。

己の死という墓場へのゴール向って恐怖を刹那でごまかしながらでも行進しているのだから。

死への行進だ。

今、「生きているだけで丸儲け。」

もひとつこんな言葉もある。

「馬鹿も利口も命は1つ。」

死んだら終わり。

ドンマイ、ドンマイ、ドンマイ。

必要なものは、羞恥心。

恥を知れ。

ネットの徘徊物、カスカスの「kokoro」のスキマを埋めなよ。

※この記事は、一度、不掲載(不掲載の理由→お知らせ) に致しましたが、一定の期間を経て熟考の末、再掲載させていただくこととしました。記事の内容に関しては、具体的な名称などには、一定の配慮を加えてあり、私の中で感じた、今、その瞬間の事実であり、個人の自由な思想と信条に基づき未熟な人間として感じることでもあります。事実である表現を隠すということは、自身を否定することになります。また、記事によって誰かを否定するということではありません。このようなことから、公開することになんら不都合は無いという判断に至りました。読者が不愉快な思いをされるようなら、今後、当ブログをスルーされることをおすすめします。



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チクル徘徊から廃人へ:記録の残せる【嘘】と残さない【本当】


「縁」を感じる瞬間は必然。

しかし、その縁は、己の「生命」そのものをその暗い渦に引き込んでいく。

悲しいことも全ては、必然。

己の原因と結果。

この人間社会の歪は、そのままの以上をこの「ネット」という残酷な世界で映しだす。

その、残酷なものとは・・・。

惨めな人間の姿を映しだす。

その姿。

骨。

骨だけしか、私には、見えない。

骨。

人間の世界を徘徊する骨の見える躯(むくろ)。

死体。

生きながの死体が見える。

怖い、生きているのにその姿は死体なのだ。

しかも、骨だけ。

そこには、人間の臭いを感じない。

死神のような「ハイエナ」が、徘徊してくるネット。

しかも、間抜けなことに人間と勘違いしてる。

躯なのに。

あわれな、むくろなのに。

死んだ人間が、生きている人間の足を、躯(生きながらの死)の世界へ足を引っ張ろうとする。

死神。

死神は、今を懸命に生きる人間に、ネットに入り込んで言葉とシステムを巧みに利用して、

この世の「魔」反対の世界に、人間を引きずり込もうとする。

ネットは、死神でさえも、この世で、共存で出来る特殊な社会。

その気持ち悪いものなど。見たくないのに見せられる。

会いたくないのに。

触れたくはない、入って欲しくない。

触れられたくも無い。

汚される。

しかし、やって来る。やってくる。

ネットの世界は死神にとって居心地がいい。

ネットの玉石混合、魑魅魍魎の世界。

すべては、このネットの世界と社会と宇宙の一片。


無色透明な綺麗な泉から、薄汚れた「下水道」。

腐った「ドブ」。

混沌。

カオスな世界。

その世界に足を踏み入れ、ことごとく、失い続ける。

哀れ。

その一端を垣間見ることの必然。

嘘と混乱、カオスな世界を作り出す悪魔的な刹那。

ネットの、「ねっとり」とした粘着の底知れぬ深さを知る瞬間。

暗闇の中の人間の崩壊しつつある精神がついていけぬ(精神を崩壊させる)

ネットの愚かな社会の「ドブの一片」は、人間の底知れぬ底(業)の深さをおもい知る。

廃人。

ネットの中では、そのリアルさ故に、人間の成れの果てを見ることが出来る。

廃人。

廃人への道を突き進む、「中央フリーウェイ」。

どうぞ、お先へ。

ネットの廃人は「ゾンビ」なのだ。

「スパム」どころの話ではない。

ネットでは、ゾンビがウヨウヨ。

「ゾンビ」のその怖さと深さを知るための覚悟をネット人は知る(スルー)べきである。

単なる「オマケ」なんですけど。

お負け。

良識ある知恵ある、嘘と本当を見抜く「ネット人」の時代を願う。


※記事文中の「あなた」「お前」「おまえ」の二人称は、
             全て「私」「己」の一人称のことであります。

※この記事は、一度、不掲載(不掲載の理由→お知らせ) に致しましたが、一定の期間を経て熟考の末、再掲載させていただくこととしました。記事の内容に関しては、具体的な名称などには、一定の配慮を加えてあり、私の中で感じた、今、その瞬間の事実であり、個人の自由な思想と信条に基づき未熟な人間として感じることでもあります。事実である表現を隠すということは、自身を否定することになります。また、記事によって誰かを否定するということではありません。このようなことから、公開することになんら不都合は無いという判断に至りました。読者が不愉快な思いをされるようなら、今後、当ブログをスルーされることをおすすめします。
   


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似非信仰者:厄介で迷惑な創価の偽者達


大切なものを汚す権利は誰にも無い。

本物と偽者。

厄介で迷惑な偽者。

信仰者になったつもりのサークル活動気取りの人間。

ネットとは厄介なもの。

草創期の人達が、現実の中で、自分たちの足で、血と涙と汗にまみれながら一人、一人に伝えてきた。

本当に大切にしているものは、「言うと減る」。

切り札は最後の最後まで取っておく。

最後の最後にたどり着くものが、その価値を知る権利がある。

世の中に自分の宝をばら撒くようなアホがどこにいる。

しかし、ネットの中では、その己の命の中の宝であるものを平気で露出するものがいる。

見せる価値のないところでその宝物を見せたとして、

その価値に興味を持つものなどいるものか。

蚊や「イカ」の集魚灯じゃああるまいし、大切な看板出してシンパを謳う。

そんなにちやほやされたイカ?

それは、お前にとって、本当の宝ではないということだ。

私が大切にしている二つの宝。

人生の宝。

その宝をこんな汚れた世界で自慢するはあほらしい。

宝を見せるのなら死んだ方がまし。

己の命と直結していると思うなら、面を汚されるのなら私だけで十分だ。

そのほうが、ありがたい、好都合だ。

少しでも指は触れさせない。

こんな汚いところで、汚させはしない。

力のないものほど、力のあるものにすがる。

己の生命に直結する大切な宝を利用するな!

己の信仰の無さを隠すために、大切な宝を利用するな!

ネットの中では、いとも簡単に広報担当の信者が出来上がる。

何を間違えとんじゃい!

お前のお母ちゃんが偉いからと、お前のお母ちゃんを自慢してお前が偉いのか?

お前のお父ちゃんが偉いからと言って、お前のお父ちゃんを自慢して、

お前と友達になってくれるというのか?

情けないことをしながら、平気で、さも英雄気取り、正義ぶるその仮面。

正義・正義と訴えながら、己の不義は知らぬ存ぜぬ。

本当に、本物を伝えたいのなら、お前が一人で歩ける人間になってからその大切なものを伝えろ!

お前の中に大切なものがないのに、さも、大切なもののように連呼する。

偽善者。

偽善者ならまだよかろう。

毛も生えぬそのヒヨコのような、人の心もわからぬような者が、偉そうに法を説くとは、なんと言う傲慢。

しかも、己の言葉を一切挟まぬ、コピーペッ!で済ませるその生命とは、一体、どこから発せられたものだろう。

信仰者の風上にも置けぬ。

手短に時間をかけずばら撒くだけの信仰活動に、何の意味があるのだろう。

何をしたいののだろう。

何様のつもりなのだろう。

信仰は何のための?

指先一本のタイピングで打たれた文字だけで、人の心が動くもんか!

貼りつけるだけの信仰活動で己が変われるのなら、

世の中が根本的に平和になるのなら、どんなに楽なことだろう。

ネットの信仰ごっこはもうやめて!

私には、大切なものをいとも簡単に晒すことこのできるこのネットを利用するものの、信仰者としてのその生命の発する根本が全く理解できない。

己が理解もせず、理解させようと法に振り回される人間が、法を振り回しても、食いつくのは害虫ばかり。

寄らば大樹の陰。

ネットの中の宗教活動は、楽な信仰活動だ。

予約もできるからね。

そんな世俗にまみれた延長線上の信仰活動しか出来んのか?

生きた方に疲れた人間が、めぐりあった確かな信仰で一体、何を掴んどんじゃ!

一人の力を試せよ。

お前の力を出せよ!

苦しめよ!

もっともがけよ!

でも、ネットの中ではそんなめんどくさいこと必要ないもんね。

コピー、ペッ!でおしまい。

明日もがんばろう!

頑張っていない人間に頑張ろうなんていわれることほど、腹の立つことは無い。

お前の中の大切な武器であるならば、おまえ自身の力と言葉で戦えるその力を引き出すために、もっと、現実にまみれろよ。

宝を大切にしまえよ。

平気でひけらかすな。

信仰を遊び道具にして、ネットで使う人間。

浅墓。

しかし、それは全て、自分の姿でもあった。

確かな私の中の絶対的なもの。

そして、もう1つの絶対的な存在。

「もう汚さないで!」

※この記事は、一度、不掲載(不掲載の理由→お知らせ) に致しましたが、一定の期間を経て熟考の末、再掲載させていただくこととしました。記事の内容に関しては、具体的な名称などには、一定の配慮を加えてあり、私の中で感じた、今、その瞬間の事実であり、個人の自由な思想と信条に基づき未熟な人間として感じることでもあります。事実である表現を隠すということは、自身を否定することになります。また、記事によって誰かを否定するということではありません。このようなことから、公開することになんら不都合は無いという判断に至りました。読者が不愉快な思いをされるようなら、今後、当ブログをスルーされることをおすすめします。




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【ネットの本質】繋がりを大切にする価値基準と価値判断


インターネットは、つながりを大切にする。

繋がり。

つながること。

つながることの価値基準とその価値判断の方法とその選択肢。

同じ人が、同じところでつながる。

つながることで、強くなれる。

その価値。

つながることの意味。

一人の力と一人の力。

勇気と勇気。

連帯。

つながることの善と悪。

理性と感情。

多くの力は、結局、善を支持する。

生き残れるものは、善の繋がりなのだ。

絆。

ネットの絆を求める機能は、働いている?

ネットの絆を広める機能は、働いている?

人間が求める本能。

ネットは、人間の本質をデジタルであらわした世界。

頭、良いの?、悪いの?

桜梅桃李に今を生きる。


※記事文中の「あなた」「お前」「おまえ」の二人称は、全て「私」「己」の一人称のことであります。



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ネットのカオス:人間のピンキリ

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放送コードギリギリ。

テレビなどのメディアでは、そのような法令やモラルのコンプライアンス機能が、ギリギリ働くことで、その電波を享受する人達の暮らしや生活は、常識の範囲内で、阻害されずになんとかメディアの必要な情報やサービスの利益を得ることが出来る。

しかし、ネットに、放送コードギリギリなどという、その線というものが引かれてあるのだろうか?

また、引くことを常に意識しながら、世界に発信しているという意識を持つものと持たないもの。

ピンキリ。

人間のピンキリ。

言い方が悪くて申し訳ないが、

ネットで見える、人間のピンからキリまで。

本当に、ピンからキリまで、同じ土俵にいるんだね。

人間のピンキリ。

実に楽しい♪

せっかくだから、楽しまなきゃあ。

そんな、たいした神経を持つことが出来るということが前提ですが・・・。

ピンキリの人間を見ること。

その中身。

それが、また、巧妙だから観る値打ちがある。

あきれかえって、正常な人間なら、拒否反応を示す世界でもあります。

現実の不自由な世界の鬱憤をネットで晴らす。

何でもかんでも自由。

規制などという歯止めなど、個人の良心、お前のモラルのみが頼りの世界。

犯罪の温床となりかねない、いや、一部では、犯罪の温床となっている事実。

現実よりリアルに、賞味期限の切れた人間の中身を、いくらでも見ようと思えば見ることが出来る。

見たくなければ見なくていい。

サーバーの監視、及び巡回による、警告や記事の削除や、問答無用の無料ブログのウェブページの自体の存在削除。

警察の監視による、犯罪としての告発や捜査による逮捕などの刑事処分。

ネットが、ある意味、社会の1つとしてまだ、認めてはいない証拠。

私がね。


暗い世界。一部でね。


カオスの社会。

ネットとは、人間の中のカオスそのもの。

整理されたもの。

整理されないもの。

意味の無いもの。

無意味以上、それ以上のもの。

混沌と無秩序。


世の中の人間、世の中の混沌そのもの以上を映しだし、曝け出す。

カオスの世界を体験したいなら、ネットの世界を寛平さんのように世界一周してみろ!

ちょっと、喩えに失敗。

寛平さん、ごめんなさい。m(__)m

心に傷を負った人たちのうめき声が、お前の頭から離れないだろう。

そして、心を引きずられる。

未成熟な世界を未成熟な人間が闊歩する。

無秩序な世界。

カオス。

カオスの世界は、カオスを広げようとする。

無限にひろがろうとするカオス。

言って見れば、ネバーエンディングストーリーということですわ。

お前のカオスの世界の状態で、カオスを語ってみました。

ただ、酔っているだけしょ!

すいません。m(__)m




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ネットのランク付けを崇拝する信仰者


ネットの中に存在するブログに関する「ランキング」というものの位置づけ。

「ランキング」を利用するものの目的とは何か?

ランキングを利用する者たちの双方の思惑。

そこにあるものは「利害の一致」と「アクセス」。

テレビの視聴率と同じ。「ランキング」と「アクセス」でそのサイトの価値を判断する一つの方法。表面的な人気サイトを自然発生的、また、人為的、作為的にも作ることが出来るシステム。

個人サイトは、そのランキングやアクセスで己の書いた記事の苦労を癒される自己満足に浸れ、商用サイトには、そのランキングをあげることでアクセスに広告収入が入る。

サーバーである運営者側は、システムを無料で提供し、利用者らが、必至でランキングサイトを盛り上げてくれれば、メンテナンスさえ行えば、グーグルなどの広告会社が高額な報酬をランキングサイト運営者に支払ってくれる。

わたし達は、利用されているのだ。

そして、それを知りながら、利用している。

愚か者は、知らずに利用され続け、大切なものを無料と引き換えに搾取される。

全て、ネット社会は利害関係によって成立している。

それでいい。

世の中の多くの「無償」という言葉に、その代償を求めない「無償」など存在しないことは解っている。

しかし、こと「宗教と信仰」にこだわる人間が、ランキングの上下や、今日、一日のアクセスに一喜一憂することのなんと浅墓なことか。

目的が浅墓で愚かなことと承知の上のことならまだ良かろう。

己の価値が、そのような数字一つの上下で、一日の訪問者数で、決まるなら「宗教と信仰」について、説教をのたまう人間の己らの汚さをそのランキングを通して知ることになれば、ランキングの存在も無駄にはならないだろう。

人間主義に生きるなら、数字という結果による世の中のランキングや序列社会を信仰崇拝するその汚い本性を隠すための正義面をして、信仰を語る愚かさと恥を知れ!

ランキングで、大切な価値を計りたいのなら、せいぜい人間を利用すればよい。

世の中の人間が作った最新のシステムを集めまくればよい。

正義と不正が混在する世界で、不正が不正をを増幅させる世界で、本当の価値を見抜ける人間など如何程のものだろうか?

形式主義の人間が、数の理論が世の中を表わす理論とするならそれでよい。しかし、卑しくも信仰者のはしくれを名乗るのであれば、そのような数字をひけらかす者は、己の信仰者としての低さを悟るべきであろう。

人間とは、どこまでも巧妙に、卑しき下劣な生き物であるという業。

どこまでも、知らず知らずの内に、人間を狂わせようとする信仰者の中に、うごめく魔。



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