創価学会幹部の厚顔無恥な選挙活動の方法

学会の地域の幹部が、自宅に訪問してきて、日曜日の選挙の連絡に来ました。

私は、普段、組織活動をしておらず、今の学会の体質や、学会員の信仰、信心に対する姿勢、人間的な未熟さなどに対して、どちらかと言えば外から見て批判的な思いをためていました。

これまでほとんど、訪問などすることも無く、近況や世間話の一つもなく、いきなり選挙の話題を切り込んでこられたので、内心、ぶしつけな人だなと、ムッとしたのですが、こちらは出来るだけ大人の対応としようと表面的には、平静を装いながら、「ええ、選挙には投票に行きますよ」と答えました。

そのあと、更に、こちらの個人的な事を根ほり、葉ほり、聞かれるのに嫌気がさし、うんざりな気持ちで、なおざりな態度で返事をしていると、

また、選挙の話に戻り、「何時ごろ?に選挙に行くの?」と念押ししてきた。

このバカ幹部は、どこまでも票にこだわる組織の傀儡なんだな。

と思うと腹が立ってきて、

「そこまであんたに聞かれる筋合いもないし、あんたに選挙投票をお願いされなくても、こちらの判断で決めることだ!」、感情的に切れてしまいした。

その幹部は、私の権幕に押されて、帰ってきましたが、こちらはそれでも収まらず、その幹部の自宅まで押しかけていき、さっきの失礼を詫びさせました。創価学会員は、選挙の時だけ、厚顔無恥な顔してお願いにやってくるが、末端の会員にまで、そんなことをしているようでは、創価学会の信仰なんて終わりだと言ってやりました。

組織の中でキチンとした人間関係さえ築けないことさえ気がつかず、単に組織活動、選挙活動に終始している幹部に果たして、信仰心があるのかどうかに疑問を感じ、その幹部の人間として、あまりの未熟さにとても腹立たしくなりました。

これからの創価学会という組織に対する憂えを感じざるを得ません。

創価学会は、一人ひとりの対話重視の組織ではなくなってしまったのですね。

これまでの学会の姿、今の学会の姿、これからの学会の姿をどのように感じます?



創価 | [2014-12-12(Fri)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

「大変ですね」って、言う上から目線


「日曜なのに今日も仕事ですか?」

「ええ」

「大変ですね。」

・・・・。

相手や相手との関係。

その言葉には、いろんな意味がある。

でも、「大変ですね。」って言葉は違うだろうと思う。

嫌味なのか皮肉なのか?

「同苦」が看板の学会の方へ



創価 | [2014-09-26(Fri)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

ベコニアと創価学会


ベコニアが無い。

何軒かのホームセンターにある園芸ショップを回ってみたもののどこにもなかった。

ベコニアは、創価学会の文化会館へ持っていくために地域の学会会員が、一人、何個かを買って届けることになっている。

組織の中には、学会の会館を飾るために、ベコニアをまとめて買ってくる担当の学会員がいる。

その担当のひとりが、高齢を過ぎたわたしの母である。

杖を突いて歩く母が、複数の学会員の分までベコニアの購入を任され、会館をお花で飾るためのたくさんのベコニアを足の不自由な母が買いに行く。

従ってこの時期、たくさんのベコニアが、近隣地域のフラワーショップでは売れることになる。

わたしは、学会のこういうシステムが気に入らない。

第一、母が買いにいくにも、杖を突いて障害を抱えている。

しかも、車に乗れるわけでも、自転車に乗れるわけでもない。

しかし、母は、自分で買わなければならない3個も、4個ものべニアのほかに、他の学会員の分までを含め10個以上ものベコニアを買いに走らなければならないのである。

おいっ!こら!

地域の学会の責任者! 幹部!

年老いた母に、なぜに、こんなことをさせるのだろうと、地域の組織を運営する幹部に対して腹立たしい思いを感じる。

こんな年老いた母に、学会の草創期から一生懸命に活動をしてきた功労者に対して、もっと組織は敬意を払い、大事にしろって、言いたい。

学会の組織の人間。

そこは廃れた、信仰心の無いものばかりが集まった組織なのかね!

悲しい現実なんだね。

結局、そのベゴニアは、私が何とかしなければならない。

おかしいよ!

創価学会。

どこまでも人間一人ひとりを大切に、人のために尽くすのが学会というのではないんかい?

こんなにまで一生懸命に学会のために頑張っている母をお前ら見殺しにする気か!

創価学会という組織はなんなんだ?

組織の中でやってることは、仕事を都合の良い言い訳にする、単なる連絡係。

ボロボロじゃあないか。

学会の組織の中に、いるのかね?

人材と呼べる人間が?

やい!おまえら!

でっかいだけの巨大組織の上に胡坐をかいて、人の心も理解することのできない高慢ちきな金集め集団になってしまうのかい!

嫌だね~、組織人間は・・・。


※ベコニアと「ベゴニア」では、「ベゴニア」が正しいようです。



スイカぺぺを枯らしてしまった。

暑かったので、水遣りを注意していたけど、逆に水を与えすぎてしまった。

折角、姉がくれたスイカペペ。



申し訳ない気持ち。




創価 | [2014-09-06(Sat)] | Trackback:(0) | Comments:(2) |-

創価のせいで自意識過剰の泥沼の人生:桜梅桃李

宗教によって、わたしの人生はズタズタになった。


創価学会のせいだ。


信仰によって人生が泥沼になった。


必要のない信仰を親によって、無理やりやらされ洗脳された。


お蔭でわたしは、自意識過剰で、対人恐怖症、視線恐怖症、そして、うつ病へと。


わたしの生きてきた過去の人生は、そうだった。


と言える。


宗教は怖い。


本当に宗教は怖いんだ。


妄信することによって、自らが洗脳に励むのだ。


宗教の奴隷だ。


自己とは、何か?


私が私らしく生きることから遠ざかる人生を歩むことになる。



要するに宗教の教義を無理やり信じ込ませることからはじまるのだ。


生きることが辛かった。


辛いと言えないことが辛かった。


しかし、その辛さの原因が自分にあるのだという信仰の教えによって、更に辛さのふかみへと嵌っていった。


自分らしくいきることからどんどん遠ざかる。


暗く沈んだ人生。


宗教なんてなければ・・・。


もっと、わたしは私らしい自由な人生を歩めたはず。


宗教の足かせ。


奴隷。


因果な人生だ。


幸せになる為の宗教が、人間を不幸のどん底へと、人間崩壊に導いていくのだ。



創価学会の会員には、うつ病が多い。


自分を責めて、自分を責めて、自分らしく生きられなくなるする信仰なんだから。


全ては自分の持って生まれた業なんだとする。


原因結果、自業自得。


突き詰めれば、やがては精神が破たんするよ。


怖いよ。


宗教のシステム。


廃人になっても組織はどんどんお金が集まる集金システムが完成が更に進む。


なんでって、死ぬまで宗教から抜け出すことが出来ない教義によって雁字搦めにされているから。


洗脳という言葉さえ無意識の中に消えて掻き消えてしまう。


卒業を許さない宗教は、恐ろしい。


卒業しない会員の多くは「病膏肓に入る」



そんなことが何となくわかって来たよ。


これが自己確立された桜梅桃李の生き方。










創価 | [2014-03-08(Sat)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

信仰の本質から逸脱した宗教に携わる観念の奴隷達

創価学会が拝んでいるご本尊。

そのご本尊が、本物か、偽物か?

そんなどうでもいいことが、重要であるかのごとくに言い合っている人間達がいる。

なんだろうね?

本物、偽物と決めつけること、また、決めようとすることに何の意味がある?

己の生命の御本仏を映し出す鏡。

単なる鏡。


その鏡に偽物も本物も無い。


鏡は、己の心の奥深くにある。


力を引き出すのは、己の中にあるご本尊だ!

確かな生きた哲学である根本のご本尊が存在する。

ネット上に蔓延するただの頭の禿げた坊主達。

本当の信心の本質から逸脱した観念の奴隷たち。

あなたに信仰を語る資格は無い。

あなたこそが、宗教を金稼ぎの道具にし、信仰に携わる者を宗教の奴隷にしているのだ。

宗教の本質から逸脱した観念の奴隷たち。

観念の奴隷の坊主どもが、信仰者を宗教の奴隷にし、弱い人間をさらに弱くする。

確かな信心を築き上げるための本当の信仰心を捻じ曲げさせる。

あなたこそが、「偽物」だ!

創価の中の自称、創価学会員と名乗る者たちのなかにも、ネットではうようよ見ることが出来る。

お馬鹿な薀蓄を語る人間が。

あなたが信仰しているのは、創価学会の中の根本ではない。

インターネットというネット信仰に心を奪われたゾンビだ。

ネット信仰だ。

「0」と「1」の世界の崇拝者が創価を騙っているから、片腹痛いよ。

創価にもいるよ「偽物が」

あなた、あなた、あなたは、創価の「偽物」だ!

2011-10-11


創価 | [2014-01-29(Wed)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

【間違った創価 組織】:聖教新聞を5部も購読する学会員

私が創価という組織を、冷ややかに右後ろ斜めから見るようになったのは、こんなところに原因があるのかもしれない。


「金集め」の組織。


一人の人間の信仰心を宗教の奴隷として巧みに利用する。


聖教新聞を一部購読するよりも2部購読する方が、信仰を高く積むことが出来るんだって。


功徳があるんだって。


宗教の奴隷だね。


信じることでしか成立しない宗教。


盲目的な信仰心。


正しいか?


正しくないか?


宗教とは、そんなことはどうでもいいんだろう。


一部しか読まないなら一部でいいに決まってるのに。


読まないのに、2部、3部、4部と購読する学会員。


理解できない。


宗教とは恐ろしい。


盲信とは恐ろしい。


洗脳とは恐ろしい。




創価 | [2014-01-14(Tue)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

【創価 組織】:創価という組織に囚われず一人の人間として生きる

わたしは、変わる。


人間は変わることが出来る。


人間が、変わることは、不可能なことではない。


脳だって、実は「年齢を重ねても衰えることは無い」と脳科学の研究で発表されている。


人間の固定観念。


人間の中の惰性。


人間の怠慢。


あきらめ、無気力。


悪しき生活習慣。


人間の進化。


もう組織に囚われない。


創価という団体に囚われない。


わたしは、わたし。


今、この瞬間を生きているのは、わたしなんだ。


一人の人間として、今、この瞬間を生きる。


「毒矢の譬え」


創価の組織の人間がどうのこうのと言って、愚痴や悪口を言っても、わたしが変わるわけではない。


今、わたしが生きているのは、何の為?


己の2度目の人生を、一日たりとも無駄にはしたくない。


愚痴や不平、不満は、惰性と怠慢。


堕落と傲慢以外のなにもでもない。


わたしが、私の力で、今を生きることが、わたしの2度目の人生を与えられた使命。


わたしの確信する確かな哲学とは、自らの力で生きることの自己確立を果たす哲学。


創価という組織に関わる人間に囚われるための信仰ではない。


創価も世間もそこにいる人間は、同じなんだ!


人間とは、どこにいても何も変わらない。


同じなんだ!


変わらなければならないのは、わたし以外にない!


わたしの信仰。


唯一、絶対のひとりの信仰心。


わたしの中の私を信じきることの出来る信じる心。


信心。





創価 | [2014-01-14(Tue)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

【財務】:「真心」を押し売りする耐えらない創価

 毎年、財務が始まる頃になると、必ず、やってくるんだ。

学会員であれば組織活動していようが、していまいが、財務だけは、特に徹底している。

この地に越してきてから、それまでは、何か月も組織から連絡が無かった。

よってこの地の学会組織でのつながりは、とても希薄であった。

わたしは、わたしの信仰に没頭できた。

財務の申し込みの時期になって、学会の幹部が仰々しく、二人連れでやってきた。


財務の申込み用紙を持ってきました。

断った。

腹が立った。

わたしは、組織の金集めの為だけの会員ではない。

腹が立った。

これが、一人ひとりを大切にする学会の組織なのか?

厳しく抗議した。

地区部長がどこかに飛んだ。


次の年がやってきた。

「真心の財務をお願いします。」

腹が立った。

幹部の口から出た、「真心」という言葉。

嘘。

金集めの口上として、非常に都合のよい「真心」という言葉。

「真心」を押し売りする耐えらない創価の幹部。

踏絵だね。

テクニック。

マニュアルにでもあるのかな。

創価は単なる中身の無い、「張りぼてブランド」と成り下がってしまった。

わたしは、一人の人間です。

創価という組織の一人ではありません。

これ以上、創価を壊さないでほしい。

人間らしさとは、何か?

創価の言う「対話」とは何か?

組織活動の基本となる根本の姿が見えない。

創価という団体は、一体、どこにいくのだろうか?

わたしの創価を慕う真心まで汚されるようだ。

組織に対する帰依を求める創価。

一人の人間をどこまでも創価という組織の支配下に組み込もうとする。

これではいつまでたっても、宗教という奴隷から卒業することはできない。

洗脳と盲信。

一人ひとりの信仰心に対する帰依を求める。

いい。

これでいい。

一人ひとりの独立自尊を生きるための信仰。

桜梅桃李を生きる。



創価 | [2013-10-04(Fri)] | Trackback:(0) | Comments:(2) |-

組織の足かせによって不幸になる信心:【桜梅桃李に生きる】

「フォーチュン・クッキー」って知ってる?



運勢を占うおみくじクッキーなんだって。



アメリカやカナダの中華料理店の殆どの店で、食後に出されるんだって。




「自分の未来は、おみくじによって決まるんかい」って、言いたいけれど、良い運勢も悪い運勢もみんな味方につけることが出来れ、それはそれでいいじゃない。




なんでもプラス思考、ポジティブシンキング。





そんな幸せになる信仰を授かった。




しかし、組織の足枷(あしかせ)によって、不幸になった。




いつも、創価学会の活動によって、喧嘩ばかりしてた。





不幸になるための創価学会活動もあるよ。










創価 | [2013-08-28(Wed)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

組織を太らせ、巨大化させるための肥やしとなる人間

組織を太らせるための宗教。


創価。



結局は、創価も他力本願かい?




利他、慈悲?


嘘やまやかしと誤魔化し。




広宣流布?




理想じゃあなくて、妄想だ。


実は、神様や仏様でもなければ、発揮できません。





「どうか、病気を治してください」



「どうか、選挙で勝てますように」


「どうか、聖教新聞を購読してくれますように」



「どうか、お願いします」



「どうか、遠隔操作で不思議な力を・・・・」





「どうか、どうか・・・・、よろしくお願いします・・・」




「どうか・・・、そうか・・・」



「創価、助けて・・・・」





いつの間にか、張りぼての巨大なピラミッドが出来てるよ。





人間をただ、組織の肥やしにするために機能しない創価学会。





方便という嘘で、完成させた集金システム。




桜梅桃李から離れて、堕落し崩壊していく組織。





見えるよ。



自分の足元を見てみれば一番よくわかる。




自分の足元が見えないのは、既に巨大な張りぼてピラミッドパワーに飲み込まれれ、洗脳されてゾンビ化した幽霊になっている証拠さ。




創価 | [2012-10-20(Sat)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

宗教は怖い:【学会バカ】は、世の中、世間に通用しない

学会の常識は世間の非常識。




井の中の蛙、大海を知らず。




組織活動だけの【学会バカ】は、世の中、世間には通用しない。




洗脳だけの盲信や盲目は恐ろしい。




己の中に信仰の灯りを灯せぬ組織に利用されるだけの宗教活動は、何の足しにもならん。



愚か者。




宗教に操られる愚かな信仰者であってはならぬ。



創価という組織に信仰があるのではない。




信仰とは一人ひとりの人間の中にある。




宗教は怖い。




今、学会の本当の姿が見える。




現実の姿。




組織に宗教はあっても、信仰は無い。




組織に利用されるだけの学会員達。




創価という組織は利用するためにだけ存在する。




一人の人間の中に確かな信仰心の明かりを灯し続けるためにある。





創価という宗教の奴隷にならないで!







創価 | [2012-10-19(Fri)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

創価VS「アンチ」を自ら増殖させる創価学会員


創価学会員の似非で、軽い乗りで宗教ごっこを繰り広げるネットでみる創価の異臭を放つ世界。

言いたいことがなんでも言える世界というのは、こうまで人間の中のエゲツナイ心の底の生命に蔓延るドブのような蓋をしておきたい部分を抉り出すのだろうか?

現実の世界から遊離した世界で、ネットの中でまるで幽霊やゾンビの如くにうろつきまわる。

しかし、自称、創価学会員は、自分が神様にでもなったつもり。

いや、仏になったつもりか?

というくらいの勘違いの宗教を創り出す。

ネットでみる、自称、創価学会員。

創価を批判し、創価に対して好感を持たない人間に対して、「アンチ」扱い。

「アンチ」=創価を理解できない馬鹿な奴ということでひとくくりにして、こんな奴らと話しすることなど無駄だとばかりに、偉そうに相手にしないと決め込む。

アホ創価学会員。

お前、いつから、世間にそんなエラそうな態度をとることが出来るほど、出世したんだい?

自分は偉くて、偉い私が所属している創価を毛嫌いする奴なんざ、人間として相手にしてやんねえよ。

ってか。

世間を挑発してそんなに愉快か?

ネットで偉そうに、何を狂ったことを言っているのかしらんけど。

そんなこと区別や差別や壁や違いを創り上げるために宗教ごっこをやっとるんかい!

自称、創価の汚い人間の中の傲慢。

まったく。

そんな自称、創価がブログで好き勝手なことを、創価が言っているかのごとくに、「アンチ」、「アンチ」といらぬ敵を創り上げることが、お前ら自称、創価学会員のやることか?

根本の哲学を弁えず、正しい法を己の汚いエゴと傲慢で捻じ曲げる。

自称、創価学会員の俺が、創価の代表だっ!

ってか。

お前ら、ネットの創価のアンチを毛嫌いするアホ創価は、確かな哲学にとっての脅威であり、お前ら自称、学会員こそが、「アンチ」そのものなんだ。

ネットの自称、創価をなのるアホな学会員を、早く掃除してほしいものだ。



創価 | [2011-12-04(Sun)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

「盲信、洗脳の創価はひどいよ!最低だよ!」って言ってるの♪

わたしは、最近、「世界に一冊のメモ帳」である私の個人ブログで、創価学会員である「わたしが」、その創価の悪口をさんざん書いている。

自称、創価学会員と名乗るネットのユーザーさんも、まあ、かなり困惑したり、腹を立てたり、眉をひそめながらよんでいるかもしれない。


でも、わたしは、創価学会員である。


ここでは、わたしも、自称、創価学会員なのである。


自分が創価であるかなんだかなんてことを語る必要ないと思うんだけど。


創価とは、一人ひとりの人間が、己の人間を語ることが全てなんだ。


創価の名前のついたタイトルの個人のブログやHPを見ると、時として、嫌な気持ちになる。


創価の自慢話ばかりや会合の内容などを書くなら内輪でやってくれ!


組織の同志のアホなコミュニケーションをとるなら現場サイドでやってくれ!


聖教新聞と同じ美談ばかりをただ宣伝するだけなら、その役目は、ちゃんとリアルな新聞媒体がその役目を担っているよ。


聖教新聞に書かれてあることを、だた、コピーするだけの作業が、創価学会員だと勘違いするのはやめてくれ!


ブログにこんな記事を書くことって、かなりのエネルギーが必要。


あたりさわりのないところで、創価はみんなが家族同様なんですよ~~♪ みんなが人のため、世の中のため、社会のために役立つ人間として頑張っているんですよ~~♪


なんてことも出来るけど・・・。


しかし、現実はそうじゃあない。


いいことばかりがあるはずがない。


創価の中の哲学は、最高にもなるが、最低にもなる。


それは、その創価が根本とする哲学を、自らが体得できるか、できないかによる。


創価の価値は、受け取る一人の一人の人間によってダイヤモンドにも、石ころになるということ。


自称、創価学会員と名乗るネットウェブオーナーは、自らの組織を讃嘆し、そして宣揚する。

創価は正しい団体なのだ。

創価は正義の団体なのだ。


と連呼する。


組織に頼るな!


組織のただの宣伝活動家になるな!


創価の正しさを証明するものは、一人の人間の姿。


わたし自身しかいない。


創価の中の宝を大切にしたい。


わたしの中で、その宝の原石をさらに大きくしたいと思う。


「創価は、いよいよ更に、永遠なる生命の黄金城を建設する」


現実はどうだ?


組織は、大きくなり過ぎると必ず崩壊するんだ。

組織はいつかは、その役目を終え、新しい芽が、次々に生まれる。


組織はジャガイモ。


創価。


「種ジャガイモ」になり、創価の確かなDNAを引き継ぐ、たくさんの美味しいジャガイモをつくれ!


そして、最後には、朽ち果てる定め。


全ては、受け継ぐべき一人ひとりに託される。



今年の財務はしないと組織に、宣言した。

(以前に、書いた記事↓)
創価学会はどこに行く?その哲学は根本は?


わたしが現在、この地に引っ越してきたのは、昨年の暮れだった。


財務とは、創価学会の一年に一度、組織をあげての資金を集めるイベント。


イベントというのは、ちょっと違うかもしれない。


まあ、儀式みたいなもので、その意思表示によって創価の信仰のあるなしが問われることにもなる。

でも、本来、お金によって己の信仰をはかりにかけるようじゃあ、そんな組織とは、とっくに縁を切ってやる。

創価の中でも、そのあたりは、信仰心の浅い者や、深い者などいろいろある。

しかし、お金という財務によって信仰の有無を問うことなんてあってはならないというのが、この哲学。


しかし、学会組織は、お金という財務をすることによって、信仰の功徳に恵まれるんですよ。


とても、わかりにくく、まわりくどく説明する。


信仰心の無いものは、自分の信仰心の無さを悟られたくないから、自分の中ではっきり明確な意志の無いまま、お金という財務を支払う約束をする。

盲信。

盲信は、やがて、洗脳に変わる。

それが、自分の信仰心なんだと錯覚する。

これが、組織の為の人間を生み出す宗教の奴隷。

創価にいるよ。


なんだか、そんな人間ばかりになっちまったような気もするね。



で、話を戻すけど、昨年、引っ越しをしてきて、創価学会員としても、引っ越しという手続きがあり、組織内で移動も完了していた。


しかし、ながら引っ越し後、財務の申し込む手続きが始まる、今年の9月ごろまで、地域の創価学会員の担当幹部が顔を見せたことは、引っ越した後に、しばらくたった後の一度のみ。

本来なら、毎月の定期的な会合などの連絡などが行われることが定例であった。

これまで創価として所属してきた中では、そんなことが当たり前で、その人たちとの間でも、それなりの人間関係を保ってきた。

だから、創価は、創価学会員といわれる人達のことを、家族と呼んだり、同志と呼んだりする。

学会員一人ひとりを大切にする現場主義なんだ。

当たり前のことが、当たり前にできるのが創価なんだと思っていた。


でも、現実は違う。


だけど、わたしは、創価の組織の人間と連絡や近況などを話さなくても、、関わらなくても、現実生活すべてが、わたしの自己を確立させるための己の哲学に基づく闘いの場所なんだと感じていた。


だから、まあ、縁が無くてもそれなりに、やってるので気にしているわけではなかった。



しかし、


来た!


ココの地域の創価の奴は、来た!


しかも、何でこんな時に来るんだよ!


って言う時に、アホ面下げて。



下っ端の幹部じゃあなくて、中くらいの幹部かな?


まあ、正式には、きちんと幹部には、役職名があるんだけどね。


その中くらいの幹部が二人も来たよ。


そして、あろうことか!!!!



「今年の財務のお願いに来ました。」



『厚顔無恥』とは、まさにこのことを言うのかと思ったよ。



「一口、1万円です。」


「はぁ~~っ?・・????」



内心、開いた口が塞がらないと言う気持ち。



創価にとって大切な信仰対話より、金集めの連絡の方が大事かい!


しかも、いつもなら一人で来るくせに、今日は二人かい!


そして、執拗にお金の振り込みを約束する財務の申し込みを迫る。


(※また、通常、申し込みをすると、最終的な振り込みの確認まで2度、3度と足を運んでくるよ)



人間主義で、一人ひとりを大切にする現場主義に立つ組織。


人間対人間、この信仰に最も必要なのは、対話。

一人の人間の気持ちをどこまでも理解する。

人間の心の不可能を可能にするものは、対話。





こんなふうに、お前ら創価の大幹部は、偉そうにいっている奴らが話をしてるじゃあないか!



それなの、久しぶりに地域の創価の「中くらいの幹部が、訪問してきて、金集めの話をするんかい!


集金係なら、お前の創価のメインバンクの営業マンにでもやらせればどうだい!



そう思いながら、尚も、私の中の、開いた口が塞がらない。



わたしの中で、「ぶちッ!」と何かが切れた音がした。



惰性と怠慢。


いや、腐ってるかなとさえ思った。




そして、今年の財務を拒否することを宣言した。


悲しいよ。



地域の創価の人間に猛烈に抗議して、その後、しばらくして、この地域のアホ、中幹部は、辞めた。



だから、今、ここの創価は、大嫌いなんだよ!


ちなみに、この創価学会の財務の金額も気に入らない。


なんで、創価学会の財務の金額は、最低、一口、「1万円」からなのか?


組織を守るためだけの組織人間には、納得できる答えなど言えるはずがない。



1万円以下のお金に、功徳の価値は無いか!

1万円以下のはした金では、お金じゃあねえか?

1万円以下では、面倒くさいか!


「おい!創価!傲り高ぶるなよ!」





だけど、それでも、わたしは「創価」を誇りに思う。


一人の人間の存在のために。



絶対に、あきらめないよ!


また、次に。




創価 | [2011-10-26(Wed)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

おい!創価!だから「題目をおくる」なんてことを言うなって!!!

「題目を唱えなさい!」


これは決して言っては、いけない!


親であるなら、尚更、言ってはいけない。


一人の信仰心の明かりは、決して言葉で灯ることは無い。


最大級の傲慢な言葉。


こんな言葉を吐くものに、確かな哲学による信仰を映し出す、信心なんてかけらもないね。


創価の中の似非宗教に励んでも何にもならない。



わたしの地域の創価に、聞いてみた。


わたし:「私の所属するこの地域の組織には、どのくらいの世帯の学会員さんがいらっしゃるんですか?」


地域の創価の幹部:「・・・まあ、わたしもはっきりよくわからなんですよね・・・。」



わたしは、この幹部が、組織の中でもっとも現場に近い学会員なのに、

学会さんの一人ひとり、はっきりと答えなくても、せめて、「約●●世帯くらいですよ。」

という程度のことの答えは当然あると思っていた。


創価の組織って盤石だって、言ってたくせに・・・。


創価は、いよいよ80周年から、100周年へ向けて更に、絶対に崩れない創価城を築き上げていくのだ!


なんて、聖教新聞に書いてあることは、とっても立派なんだけどね。


これが信頼できる現場主義の一人ひとりにの幸せを願う創価か!


心の中で、怒りの炎がメラメラと立ち上がる。


そして、わたしは、畳み込むように、更に、今わたしが、現実に生活をして所属している創価について根掘り葉掘り聞いた。



するとこの幹部は言った。


下っ端幹部:「わたしよりも、もっと「上」の幹部に聞かれた方がいいですよ。」


下っ端幹部:「「上」の幹部は、それなりの信心があるから・・・。」


わたし、「なんで、そんなことがわかるんですか?」


下っ端幹部:「体験をつんでいるから。」


(わたしの心の声):下っ端幹部のあんたのことを私は、信用できない。そんな信用できない人間が、おすすめする「上」の幹部なんて知るかっ!


※下っ端幹部ということばは、この幹部が、この組織には、会員と幹部と幹部の中で、上の幹部といったので、それに従い、わたしは、下っ端幹部と書いている。


わたしは、あんたという人間しか、今は見ていない。

しかし、あんたは、自分の信仰信の無さを晒し、創価としても恥ずべきことした。


盲目の信仰。

あんたという人間に創価が見えないのに、どこに創価があるというのか?



わたしは、信頼できる人間に対して、その人が言うことは、信じることが出来る。

たとえ間違っていたとしても、後悔がない。

わたしが信じた人だから。


わたしが信用できないこの下っ端幹部が、この人なら何でも分かるよなんて、逃げ口上をする奴が言うことを誰が信用するかって言うんだよ!



全く、情けないね。


と、わたしの心の中の言葉全部を、私の中に飲み込む。


これが今の創価の現実なのだ。


現場の基盤がボロボロなのに、そこに何が築けるというのだ。

何が盤石な基盤だ。

永遠に崩れない創価城だ。


全く、泣いてるよ。

わたしも悲しくて泣けてくるね。


こんな創価な人間が、頭数だけそろえて、困っている人に向かって、「題目をおくりましょう!」だなんて、何を血迷った傲慢宗教に突っ走ってんだよ!

てめえの足元も見えてないくせに、何が、「題目を唱えてあげてま~す!」「だから、がんばってくださ~い!」

何様だい!


傲慢という袈裟を来た創価。


これも創価って言うのかい?


もっと、謙虚になったらどうだい?

おい! 創価!



創価 | [2011-10-24(Mon)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

【創価 組織】:妻に先立たれ残された哀れな半ボケ老人の現実

二人で暮らす、お年寄りの創価学会員の方の片割れである奥さんが亡くなられた。


片割れっていう言葉はあんまり好ましい言葉とは思えないけど、この老夫婦になんかいいような気がする。


残されたのは、旦那。


世間的に言えば、可哀想。


男が後に残っても何にもできない。


自分の履くパンツの在りかさえ分からないんだから。


生活力、ゼロ。


出来れば、旦那が先に、あの世へおさらばして、奥さんが、旦那を見送る。


なんて方がいいね。

奥さんは、旦那から解放されて、これまで旦那に苦労をさせられてきた分の人生を、家族と共にエンジョイする。


でも、この場合は、奥さんが先に死んだ。


ここで繰り返す。

この夫婦は、創価学会員であるということを。


そして、この夫婦には、7人ものの子供がおり、入院して2週間ほどで亡くなった病院で己の母親の死に目に会えたかどうかは定かではない。



葬式にもどれほどの身内、親族が顔を出したかもそのあたりもここでは置いといて。


しかし、わたしの母親の話では、


葬式の後の次の日。


残された、やや痴呆を発症しと見えるぼけ老人。


介護でヘルパーの世話にもなっているらしいが、このヘルパーもこのぼけ老人対しては、警戒をしており必要以上というよりも必要以下程度の世話しかせず、まるでこのぼけ老人に何かされたかのようにも思えるほど、そそくさと仕事を終えるということだ。


葬式を終えた次の日。


母のところへ、そのぼけ老人がやってきた。



「食べるものが無く、お腹がすいたので」何か食べさて欲しいという。


勿論、母は、亡くなった方老婦人の方の葬式へ出席している。


その時には、家族や親族も来ていたとのこと。


しかし、やってきたぼけ老人の話を聞いて、おにぎりを持って、ぼけ老人の自宅を訪ねたところ、そこには、葬式の後に、親族や家族が食べ散らかしていった残骸が置き去りにされていたらしい。


女3人、男4人の息子や娘がいながら、その家族たちは、誰一人、亡き母の後に一人残された、ぼけ老人の世話をするものはいなかったということだ。


ただの一人もいない?


こんな半分ぼけた老人を、妻が亡くなったあとなら、さぞ可哀想に感じる事だろう。


せめて初七日をむかえるまでは、代わる代わるでもいいからそばについていてあげよう。


当たり前に思う。


それで周りは、創価学会員のご夫婦のあそこの子供たちは、当たり前のことをちゃんとされると見るよね。



でも、現実は違う。


誰一人、自分の父親が悲しみ沈んでいるはずの時に側について、労わってやる者が居ない!


「7人も子供がいるのに?!」


こんな疑問を感じない人は、まずいない。


この疑問を感じる疑問こそが、すべての答え。


これが現実だ。


これが創価学会員の現実だ。



そこに何がある?


何もないからこうなる?


長く生きた結果の答え。


最後の審判。


はたの人間が、どちらが悪いなんて言うことはできない。


子にはこの理由がある。


親には親の言い訳がある。


しかし、だからといって、「そのぼけ老人が子供の世話にはなりたない」と己の生き方に対して現実に向き合うことも不可能なほど枯れ果ててしまったからといって、

その世話をなんで、うちの母に泣きついてくるのだろう?


全く、おかしな道理だね。


母は、その家族のことに理解できないと言いながらも、辛いだろうから、可哀想だからと、その半ぼけ老人の面倒を見てやっている。


そして、その姿を見て、地域の創価学会員の幹部が言う。


創価には、婦人部というのがあって、「白百合長(しらゆりちょう)」という役の御婦人がいる。



母は、その白百合長にくぎを刺された。


「あの人には、注意しいや・・・」


この言葉の意味には、いろいろ深く想像力をおよばさなければならない。


それを聞いたわたしも、母に注意した。


「あまりかかわらない方がいいよ。」


人間とは冷たいものだ。


しかし、人間に同情は禁物だ。


その場限りの同情では、何にも解決しない。


慈悲とはなんだ?



愚かな人間の人生の最終章に訪れる現実。


人間を救うことなんて出来やしない。


人間を救うのは、己自身しかない。


憐れな現実を真正面から見つめる。


そこに必要なのが、確かな哲学以外のなにものでもない。






創価 | [2011-10-23(Sun)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

酸化した「はた迷惑」な組織エゴ人間の「頑固さ」という垢

人間の頑固。


とても協調性のある頑固と、はた迷惑な頑固。


「もう、こんな頑固な人とは付き合いたくない!」


なんて、頑ななほど、人の意見を聞かないという頑固。


そんな頑固さは、時として「傲慢」がプンプン。




「わたし、頑固な便秘で困っている。」


便秘に対して頑固を使って強調する。


便秘とは頑固なもの。

早く出るものがでてすっきりしたい。


組織という場所で、その歯車として働く人間には、頑固な「油」が付着するようだ。


その「油」は、酸化してなめらかに部品としての役目を果たすことはできない。


「組織の硬直化」とは、ひとつひとつの歯車が己の頑固の油が酸化して、油として本来の役目を果たさなくなったものの集まり。


傲慢人間の集まりの組織。


組織エゴ。


人間の汚い垢という汚れにまみれている。


その頑固は、洗脳という言葉にも似ている。


こんな人と話をしても、全部組織の歯車としてそれ以上の機能を果たさぬわけで、何の対話も期待できない。


組織のための人間を作り出す。


もう、交わること、関わることさえできないようなところにまで来ているのだろうか?

感じた。


組織の奴隷。


組織の歯車の一つとして、笑っているその人間の笑顔にみえるその瞳の奥には、弱い人間としてしか、生きることを選択できぬ歯車を固定するだけの「ピン」。

ピンという存在。

歯車を回すためだけに存在するだけの「ピン」。


この組織は、今、どこにあるのだろう?


だた、存続させることのみの組織の大きさをひけらかす権威だけに基づく形式主義の組織。

怖い。


組織の中の歯車を見ているだけで、怖いような気がする。


この組織は、本当に一人ひとりの人間を見つめる事に、一つ一つの歯車が役目を使命を担っているのだろうか?


否、「組織のための人間」としてしか機能を果たさない、はた迷惑な酸化した油にまみれた歯車がそんな役目と使命を果たせるはずがない。




創価 | [2011-10-23(Sun)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

創価学会の幹部の「くせに」、なんでそんなトホホな質問するの?

創価学会のある会合に参加せて頂いた。


幹部:「勤行はしていますか?」


わたし:「はぁっ?・・・」


・・・えっ?何この人?

どう答えていいのかわからず、

そんなことを聞かれることを想定しないから、躊躇しながらも聞かれた以上、答えるしかない。


わたし:「ええ。」



更に、お聞きになる。


幹部:「題目は唱えていますか?」



(・・・ええっ?!、なんでそんなことを聞く権利があるの?)


もう、半分、あほらしくなって、答える気にもなれない。

しかし、黙っているわけにもいかず、


わたし:「ええ。」



一番、わたしが、納得いかない部分の「創価学会の幹部と私」の会話の内容。


まあ、その前後にも、いろいろと質問されている。


その時に、わたしに向けられた幹部の質問。


何を知りたいのか。

一体、私の信心を勤行と題目というはかりにかけて信仰の深さを図ろうとする。


わたしが、一番嫌いなこと。

一人の人間の中の大切なものをいとも簡単に、品定めをして決めつける。


創価学会の中の幹部というぬるま湯につかりきって、一人の人間の重さを上から目線ではかろうとする。


このような素人だましの愚の骨頂ともいうべき、質問を当たり前のようにする幹部がいるんだね。


まったく・・・。


なにもわからないくせに、人を図る短絡的な質問。


わたしは、その質問をもっと深いところに求めたかったが、結局はそんなことは無かった。

創価学会の幹部ってこんなにくだらないものなのだろうか?

万年幹部となると、もう、そいつの信仰心は、「物」と化してしまうのだろう。

あなたの信仰心を、勤行と題目の励行で判断します。


まったく・・・。

本当に、まったくだね・・。

一方通行の質問に、質問されたもののその意味を推し量りかねている本意というものを感じ取ることもできない。


まったくな幹部・・・。


これじゃあ、創価の本当の価値を知るものなど、創価の幹部と呼べるものの中にいるのかね。


どっぷりと創価に使っているねんきの入った幹部ほど、トホホな幹部が多いんじゃあねえの。

己の絶対的な信仰心を、勤行や題目の目に見える形だけで比較、判断されるほど、傷つくことは無い。

そんなものでは、己の信仰心をはかりにかけられるほど、お前に判断されたくはない。


このアホ幹部!

お前、いったい、何様のつもりだい?


己の命である大切な信仰心を、形式的な質問で、本気で答えるほど愚かではない。


お前みたいな幹部は、わたしは、絶対に信用しないよ!


それから、その会合の中で老婦人の体験発表があった。


わたしは、驚かされた!


「創価の財務を100万円しました!」


そう、このビックリマーク!!!!

このビックリマークが4つくらい並ぶほどの、「財務100万円宣言」。


なんじゃあ、こりゃあ?


そんなことを言うんかい? この婆さん。


財務の金額に信仰心の深さを重ねる。


これじゃあ、政教一致・・・じゃあねえ・・・。


「信金一致じゃねえか?」


こんなことを当たり前に聞いている創価学会員は、なにも疑問を感じないのだろうか?


信じることを強くさせるはずの信仰の体験発表で、


「信じられましぇ~ン!」という言葉が、わたしの頭の中で、鳴り響いた。


トホホ・・・で後にする創価学会のある会合だった。


わたしの中の創価は、どこにある?


わたしの創価は、妄想の世界へと消え去ったのか?


わたしの中にのみ存在する創価な創価。


現場に革命的なカンフル剤が必要だね。




創価 | [2011-10-23(Sun)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

池田大作重病説を流布する創価学会員

以前、池田大作死亡説:沈黙は金なりでも同じようなことを書いた。

創価を宣揚すると見せかけて、創価の名を借りただけの自称、創価学会員の個人ブログの売名行為をする人間もいる。

インターネットの中で、ランキングとアクセスの虜になる。

「70万アクセス達成しました!

これもひとえにネットの創価の同志のお蔭です。

創価学会員でよかった~~♪」なんて、

中吊り広告の友人から渡されたという週刊文春の記事を見て、いちいち、、「池田大作」「重病説」に対する記事を、創価という立場から個人ブログネットで記事にする。

「池田大作」「重病説」週刊文春の中吊り2

なるほどね。

これなら食いつくよね~。

ネットの創価の自称、学会員といわれる同志のお仲間達も。


中国ではネット中毒患者が増殖中。

ネット中毒患者。


中国、韓国、お次は日本。


世界中に万円・・・?

いや、世界中に蔓延。


創価が大切なのか?


それともネットのランキングとアクセスが大切なのか?


創価をだしにせずに、正々堂々と己の人間だけで勝負しろっていうんだ!


創価の中にも、ネットの中毒患者がいるね。


とってもおかしなことだけど、正しい哲学に基づく信仰の宗教団体を宣揚しているように見えるホントの姿は、インターネットに仕掛けられた中毒に嵌ってる。

ネットに洗脳された中毒状態の創価学会員。



日々強りたまえ。

ご用心、ご用心。

人間の中に巣食う魔。

魔を魔と見破る。

今、この瞬間が大切。


そんな自らのうたい文句なんて、素通りの過去形。


それでも、魔は、人間を暗闇に引きずり落とそうとする。


創価学会員の中の観念の奴隷たち。


ネットに洗脳された中毒患者。


創価を宣伝するためにネットを始めたのに、いつの間にか、ミイラ取りがミイラになっていたよ。

ネットに洗脳にされる創価学会員の哀れな末路とは・・・。

ネットの自称、創価学会員さん、ネットの道具と化した人間には、近づいちゃだめだよ。


あっ、これって、もしかしたら、あんた・・・?

ネット中毒患者が増殖中




創価 | [2011-10-21(Fri)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

人のために灯をともせば、わが前明らかなるが如し

昨日よりも今日、今日よりも明日

明るい朝の日を浴びて、今日も元気に スクラム組んで♪

たたかうわれらの心意気♪

嬉しい時も、悲しい時も 交わす言葉は・・・♪



なんかきゅうにこんな歌が・・・。


自分の言葉に責任を持たねばならない。

責任を持たなくても、必ず、その責任を取らなければならない時がやってくる。

わかっている。

わかっているけど、わかっちゃあいない。

己の中の傲慢。

その責任。

原因と結果。

自分を苦しめるのは、自分以外の誰でもない。

自分が生きていること全てが自分を苦しめることになる。

自分が生きていること全てが自分を解放することになる。

どこまでも、どこまでも、己の中に巣食う傲慢。

バカだから仕方がないね。

人に頼る生き方は嫌だ。

だからと言って、人間、一人で生きられるわけがない。


『人のために灯をともせば、わが前明らかなるが如し』


そんなことない。

でも、その通りだ。

そうでなくてなくてはならい。

そうして生きられることが最高なのだ。

人間として確かな哲学に基づいて生きる最高の生き方。

最高の生き方こそが、当たり前の生き方。

でも、わたしには、出来ないよ。

まだ、まだ・・・。

昨日よりも今日、今日よりも明日。

あきらめないよ。

そんな風に当たり前に生きている人がいる。

毎日が当たり前の人達がいる。


ごめんね・・・創価。




創価 | [2011-09-26(Mon)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

一人ひとりの人間を大切にすることに徹しなければならない

財務を通して知った、わたしの地域の創価学会の体質。

まさに、わたしの見た地域の創価学会こそが、今の創価学会の組織だ。

地域によって創価学会というものの見方が違うのならば、創価が根本とするところの哲学は嘘っぱちになる。

新聞の記事は、綺麗ごとばりをならべたてた作り話となる。

現実を生きるわたしの生身の人間が創価という人間に接して感じる学会組織が創価そのものなんだ。

人間一人ひとりの千差万別?

そんなもん当たり前。

でも、創価の常識は世間の常識とは違うのか?

民主主義の世の中は、多数決の世界ではないのか?

少数派の意見が正しいという変人の世界なのか?

正しい、正しいという根本が一人ひとりの心の中にあるのか?

組織の操り人形になってるやん。

世間の常識よりも創価の常識を理解しろって?

それが、創価の正論?

人材、人材というけれど、今の組織に人材はいるの?

人材ってなんだ?

硬直化していく組織の中で、人材はどんどん組織の中から染み出していくよ。

ごく普通に感じる創価の組織に対する違和感。

組織を維持していくことの悲壮感さえ感じない。

楽観主義を都合の良い言い訳にして。

確かな哲学に基づく信仰心の確立された信仰者にとって、組織という存在は大切なものではないけれど、

組織にとって、一人ひとりの信仰者は、組織よりも大切なものである。

創価学会は、組織よりも、組織の一人ひとりの人間をまず、大切にしなければならない。

組織を守るために、組織を維持するために、組織の一人ひとりを単なる構成員としてみることに、創価の存在意義は無い。

必ず組織は崩壊する。

そう信じる。

わたしの哲学は、組織にあるのではない。

一人ひとりの己の信仰心に確かな明かりを灯し続けることを可能にし続ける者に、確かな哲学を受け継ぐことが出来る。

これからが、本当の試練。

一人ひとりの信者と呼ばれる者たちの化けの皮がはがされる。

正体をされけだすもの。

正体をさらけ出されるもの。

信仰活動ならぬ、惰性と観念に満ちたぬるま湯のタダの組織活動に、その判決が下される。

創価という組織のホントの正体。

その価値。

価値を創造する今の創価という組織に、本物の価値があるのかどうか。



創価 | [2011-09-19(Mon)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

池田大作死亡説「沈黙は金なり」:ネットの創価


「沈黙は金なり」という言葉ある。

ホント、創価にもいろんな人がいるんだね。


自称、創価学会員と名乗る者達のネットにおける情報の取捨選択の方法とは?


「おい、おい、・・・乗っかっちゃってるよ・・・。この人。」


劇場を上手く巧妙に演出する手段と方法に長けてるね。

炎上目的?

華麗にして、巧妙なる演出。

アクセス・・・?


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※当サイトは、この創価カテゴリーランキングには参加しておりません。願い下げお断りします。


池田大作死亡説についてなんたらかんたらを記事にする。

そんなもん、興味本位にターゲットを絞らなければ、出てくるもんじゃあない。

しかも取るに足るような根拠などありもせぬ悪意以外のなにものでもない。

その悪意を取り上げ、反証しようとする創価の看板を名乗る学会員も止せばいいのに・・・。

『根も葉もない』ものならば、そこに食いつく必要はない。

無視を決め込む。

それなのに、根も葉もないところをほじくろうとする矛盾。

何かの意図がなければ便乗するはずがない。

ほっとけばいいものを、煙もないものに、あらぬ方向から着火するとは・・・。

似非かどうかは知らんけど、馬鹿を相手にせぬことが最良の策とは、十分知りながらその馬鹿に便乗することで、創価を擁護していると見せて、己の愚かな自己満足にほくそ笑む。

右手は、水の入ったバケツのつもりでも、ほんとは、団扇で煽いでる。

しかも、左手で見えぬように隠し持っているのは、火のついたライターなんだよね。

そんな記事を下種な連中がみれば、野次馬根性が煽られ、記事にコメントの花が咲く。

やれ、屑だ、糞、ハエだと。

創価の変な奴等が食いついてくるんだよね。

それは、そこにうごめく創価の人間達の姿だ。

ココはいったいどこだ?

これが創価だ、これが人間というのもだ。

創価も世間の人間と何一つ変わらん。

『お前は屑だ!』

『屑という人間が屑だ!』

そんな応酬が繰り広げられる。

「なんじゃあ、こりゃあっ!」

創価も世間も

「お前ら、ドタマかち割って、ちい吸うたろうか!」

なんて、ドあほな気分になるね♪

楽しいよ♪

ほんと、創価って楽しい♪

だって、わたしも、そんなときには、より下種な楽しい人間になれる。

そう、「だって、人間だもの」

世間の人間達と同感できる。

悲しい愚かな人間としてね。

創価の学会員と名乗るのもが、創価を利用してそんなに得たいか?

自己満足とエゴ。

危ない、危ない。

ネットには、地雷が一杯だよ。

玉石混淆、魑魅魍魎の世界。

それは、ネットの世界のことではない。

創価学会という組織とその中の創価学会員とよばれる器のなかにある。

踏んづけたら終わり。

こわや、こわや・・・。

こんな記事が、負の連鎖としてありとあらゆる姿かたちを変えて蔓延していくんだろうね。

ネットは罪作りな道具だよ。

『沈黙は金なり』

でも、「雄弁も銀(きん)」かい?

的外れな理屈や屁理屈は御免だよ。

桜梅桃李。

「今」を生きる。



創価 | [2011-09-12(Mon)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

創価学会はどこに行く?その哲学は根本は?

創価学会では、毎年、この時期になると財務と呼ばれる、広く流布すると書いて、「広布」部員の申込みというのがある。

この広布部員の申し込みというのは、あくまでも学会員であるということを前提にしている。

わたしは、現在、この地に越してきてようやく9か月ほどが過ぎようとしている。

わたしが感じる現在の創価学会という組織は、新聞紙上で書いてあることを読むのと、現実の今の暮らしと生活をしてる場所に住んでいる地域の創価学会という組織とは、かなりの相違があるといわざるをえない。

別に、愚痴や不満を言うわけではない。

これは、事実なのだから仕方がない。

今の学会の現実。

一番、身近な場所には、創価学会員はいるけど、創価の哲学の根本をそこに見ることが出来る人間がいない。

何なんのだろう?

新聞で書かれていることの信仰に関わる記事は、嘘や出鱈目の美辞麗句の嘘パッチなのかと思いたくなる。

現実と理想のギャップと、本当なのか、事実があるのかと、己の現実の先に映る、今の生活をしている地域の学会員の姿を見て落胆させられた。

創価の組織の中で「財務」という仕事には、信心などいらんのかいな?

創価学会という組織のために、金を徴収する財務というシステム。

根本から見直す必要があるね。

しかし、現実は金が無けりゃあ組織の運営は不可能だ。

一人ひとりの人間。

たった一人の人間のために、創価という看板を掲げることが出来る。

組織運営に携わる創価学会員は、己の哲学の根本の看板を取り外した組織活動に陥ってはならない。


上意下達のピラミッド組織に成り下がった、ただの巨大化した宗教活動団体には、信心の流れは絶たれているいな?

悲しいよ。

地区の●●長さんよ~!

地域の●●長さんよ~!

あんたらの創価の哲学と根本は、どこにある?

現実の今というこの瞬間、この場所になければ、創価が財務を求めるための「広布部員」と称するこの名目は何にも意味のないものになる。

「広布」となる「広宣流布」とは、理想でもなんでもない。

ただの妄想と幻想にすぎない。

創価という学会組織に関して、こんな感想を抱く結果になった、財務に関してもう少し詳しいことは、また、後で記事を書かせていただくことにします。


人生を確かに生きる哲学


創価 | [2011-09-11(Sun)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

ふと思う、わたしの中の創価

いつか分かってくれる。

いつかきっと、この信仰の正しさがわかる時が来る。

母は、そんな言葉をよく言った。


でも、なぜ、その時にわからせてくれなかったの?

って思う。

小さい頃、私は知らずにこの信仰を授かった。

何も知らずに母の言われたとおりに、宗教活動を行っている組織の中に信者として入信させられた。

親達は、先祖代々の信仰を捨て、新興宗教といわれる団体をいくつも渡り歩き、現在の宗教組織にたどり着いた。

不思議な縁だね。

その宗教団体が、今、日本で最も大きな組織として存在している。

組織が大きくなるのには、それなりの理由がある。


幸せも、不幸もあった。

何も変わらなかった。

そんな風に思っていた。


知らずに受けた信仰に対して、恨んだりもした。

憎んだりもした。

組織の信仰の仮面をまとっただけの、大人たちの人間の汚さを見せつけられた。

人間が信じられなくなった。


人間を信じることの根本を知るための信仰になのに、人間を信じられなくなる宗教組織に入信させられる不幸。


これ以上のわたしの不幸はないではないだろうか。

私自身を呪ってみたりもした。


学会によって、何年もの間、わたしは苦しみ続けた。

でも、今は、その全ては過去。


わたしにとって創価は、好きでも嫌いでもない。

でも、思いは深い。

深くて、その思いは、互いの信仰というものなしに語ることはできない。


己の信仰とは、こんなものなんですよ。

なんて言うことを書けば書くほど、嘘になる。



創価 | [2011-08-26(Fri)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

創価学会員の「コピぺ」信仰

創価学会の団体の機関紙である聖教新聞。

その中の「名字の言」というコラム。

そのコラムの内容を「コピーペースト」をして、そのまま貼り付けてブログなどに掲載している人がいる。

私も、以前、「コピペ」をしていた。

「コピペ」をしてそのまま貼り付けるだけ。


「一体、この人は何をしたいのだろう?」と思う。


「何を伝えたいのだろう」というよりも、

「何をしたいのだろう」という強い疑問が湧く。

ただの「コピペ」。

創価学会の宗教団体に所属している創価学会員ということを前提に。

大切なものを、ただ、垂れ流す。

「ただ、垂れ流す」ことに一体、当事者の信仰心を映し出すことはできない。

コラムの執筆者達が、この500字ほどの原稿を書くために、創価と己の信仰に思いを馳せながら確かな哲学に基づく作品を書き上げることに苦労をされていることだろう。

その「名字の言」を、創価学会の会員であろうブログなどのウェブサイトを運営する者は、「たった、1分のコピペ」でその根底にある大切なものを宣伝しようとする。

そこに自分の言葉は何にもない。

他人を思いやる利他、慈悲の信仰を仰ぐ仏法を根幹とする創価学会の会員であると自負するのであれば、自らの信仰心に問いかけることをしないような自身に対してそして、他人に対して無慈悲な行為は止めるべきだと感じる。

他人の物を借りるのであれば、謙虚に、敬意をはらい、しかるべき方法で、マナーを守る。

そんなこともできないような人間が、創価学会員と名乗り、創価学会を宣伝するようなことは、誰人にとっても信仰上、有益なことは無く、害ばかりが増える。


単なる「コピペ」だけでは、その人間の信仰まで「コピペ」信心であるかのように思える。

己の中に、本当の自身の宗教を開く自己を確立するための信仰心というものがあるのかどうかを、常に問うていただきたいと願う。

信仰とは、一人ひとりの中に築き上げられていく、唯一のものであり、人間の心の奥底のを生命を感じることのできない「コピペ」信仰で得られるものではない。

せめて、「名字の言」を転載するのなら、そこには、きちんと自身の信仰と哲学に基づく感想や意見を述べるべきであると感じる。

何も感じることが無いのなら信仰心が無いのと同じ。

「コピペ」だけで創価の宗教を盲信するだけで、本当に一人ひとりの人間革命という自己確立の集大成をなすこと出来ようか?

己の信仰心に対する誇りを持とうとするのならば、行動、振る舞いを改めるべきであるし、必然的に成すべきことに気がつくはずである。

信仰とは、全部、自分自身できまる。

創価学会が自分を変えるのではない。

自らが変わる以外に、信仰に基づく確かな哲学を確立できることなどありえません。

インターネットは人類にとっての大きな財産。

わたくしにも言える事なのですが、正しい信仰、宗教団体を名乗り宗教活動のほんの少しの役目を果たさんと願うのであれば、他人の物を横取りしコピペしてそれが、自分の信仰心の証だというのなら、それは、創価を汚すことにつながり、正しい信仰を歪ませることにもなる。

インターネット上には、ゴミもたくさんあります。

宝を拾うのか、ゴミを拾うのか。

宝を買うのか、ゴミを買うのか。

それは、全部、パソコンをクリックする指先からつながってる心ひとつ。

全部自分自身の自己責任。

せめて、我々は、創価と名乗る以上、信仰上のゴミを増やさないという己の根本の中の宗教的な意識が必要なのではないでしょうか?

人間として。

創価であると同時に全ての同じ人間として。




創価 | [2011-08-10(Wed)] | Trackback:(0) | Comments:(2) |-

ネットの創価が学会を滅ぼす


私は創価学会員であり、創価学会によって授かった仏法を信仰しており、その仏法における教義と哲学を根本として、記事を掲載しているわけですが。ネットにおける当サイトのポリシーとして「創価学会」のことは意識して、これまで取り上げないようにしてきました。。

それは、「創価」の中だけと言わずに世の中には、素晴らしいと感じる生命を持つ人は、他宗を始め、信仰さえ持たない人の中にもいくらでもいらっしゃいます。また、学会員だからといって、これだけ組織が肥大化すれば、全ての人が、世間的な常識を弁えた人たちかと言えば、必ずしもそんなことは無く、一般社会からも、創価学会の人間は、非常識といわれても仕方のない人もいるわけです。

勿論、それは、私を含めてのことであり、創価といえども、言ってみれば、なんら世間の人たちと変わらない。いえ、逆に、多くの悩みと問題を抱えたまま、そのまま消化できずに悶々と苦しんでいる人の方が多いのかもしれません。それは、創価だけに限らず、「信仰」と「宗教」を選択する人の心の闇は深い。一般世間から非難されるような行動を取るという人が、創価や、信仰・宗教をしている人に中にいても、それは、至極、当然のことなのです。

信仰とは、一人、一人が、社会の中で、役目と責任を果たせる生き方が出来る人生の独立自尊を体得するためにあり、宗教とは、その一人ひとり、個人のためにあるのであって、創価という組織のために人間個人の信仰があるのではない。

あくまでも、ひとりひとりの自己確立を目指すための信仰心を生命に開き続けることの役目を創価と言う団体は担っているわけです。

一人、一人のその心の中にある信仰心を現実の生活に即して、そのあり方を語ることが、創価を語らずとも「創価」を語ることになる。しかし、その方法は各人各様。それぞれの境涯と境遇における宿命転換の道筋の中で、己の心と生命に映る現実を語ることが、「創価」の「価値」の種を撒くことにつながる。そんな風に考えます。

他宗を批判する、寄せ付けない雰囲気を醸し出し、創価が宗教界の王者と名乗るのであるならば、こんなネットという場所において、その他宗がしていることと同レベルな宗教活動をして良いものかどうか、それぞれの己の「創価」によって与えられた、その信仰心を育てるための根本である哲学に、常に、問うてみる必要もあるのではないかと考えます。

寄らば大樹の陰。大きなものを主張することによって、己を大きく見せようとするために、己の信仰心を隠すための道具に「創価」と言う名前を簡単に使うことが、己の中で許されるのならば、それは、本当の信仰心があるのかどうかその覚悟を命に問うことが、また、必要になるのではないかと考えます。それは、己自身の過去の浅墓な行為としての事実から感じ取れることの答えでもあります。

しかし、私が「創価」が備える根本と、その本質に対して感じる「誇り」と「恩」は、ひとしおです。

恩は恩。

わたしは、わたし。

その恩を返すのは、私の中の信仰心。私の中の信仰心と言う【もの】を顕すことによって恩返しをすることが、己を変えることになる大切なことと考えます。だから、「創価」を名乗る必要はないし、創価の中の哲学とは、己の中の信仰心を開くためのものであり、その哲学を現実の生活における人生に反映させるためのものである。

そして、哲学であるこの信仰の究極、「利他」の信仰、更に進んで「慈悲」の信仰であるということは、言葉の意味や観念として理解は出来ます。しかし、生身で現実を生きる、それぞれの人間の千差万別を考えれば、利他や慈悲などどいう、言葉の意味の本質さえ理解できない人間が、お利口さんの信仰者を装って、ネットで、自身のお尻がかゆくなるような、自分の中で体得さえしていない言葉を並べて余所行きの「猫なで声」を使うことに意味があるのかどうか?

「自分に無いものを背伸びして見せても、後で、自分が恥ずかしくなるだけ。」ともいいます。

それよりも、私が感じるのは「ネット」と言う場所で「創価」を使うことのマナーを弁えることを、学会員の方は学ばれた方がよいとも感じます。ネットの社会を「こんなところ」と言うのは、語弊があるのかもしれませんが、己の中の本当の宝であるなれば、本当の価値を知らずに、こんなネットなんかで「創価」「創価」と宣伝することよりも、そのメリットと、デメリットを信仰者の知恵として学び、真摯に受け止め、「組織」「組織」とその枠を固めようとして、創価の団体の力をひけらかし、広げれば、広げるほど、ネットと言う世界では、不特定の傍(はた)で観戦する人達は、理解を傾けようとすることよりも、逆に、更に、かたくなな拒否反応を示す場所なのだということを、学ぶべきなのではないでしょうか。その学ぶべき根本こそ、妙法の中の題目にあるのではないでしょうか。

そんな意味では、このネットという未成熟なメディアの世界に、多くの信仰者達が、こぞって参加し宣伝まがいや宣伝そのものに終始する宗教団体と同列な場所で、まるで「創価」の宣伝チラシをばら撒くことがいいのかどうか。

ネットのメディアが、宗教の根本の教義を語ることにふさわしい場所なのかどうかの意味を問うことと、その行動の根本を疎かにすることがあってはならないとも感じます。そこには大きな責任が付きまとうのだとう言うことです。ネットの発信者は、創価を名乗るのであれば、この「ネットというメディア」のもたらす影響を理解しなければなりません。単なる個人の自己満足のために、創価の名前を使うのならば、それが、正しいことの根本から発していることなのかどうか、それは、真剣な戦いを求められているということに気がつかなければなりません。そのような、のべつ幕無しでいいのかどうかを信仰心によって、己自身にその善悪を啓蒙する必要もあるのでしょう。

ネットで、信仰と宗教・創価を、語ることの意味を、現実のリアルさ以上に、真摯に受け止め、己の信仰心を発揮することにつなげていかなければ、逆に法を下げ、宝の本当の価値を石ころにしてしまう。その怖さを知らずに、ネットで軽々しく語ることの恐ろしさを、喚起しようとしないのは、ネット社会が、特別な場所であることを示しているのかもしれません。その特別な場所であるということの意味を、信仰によってまた、見抜いていく知恵を得ることがネット社会を変えることにつながるのではないかと考えます。

最高の信仰を保ちながら、「人」や「物」に利用されるのでは、あまりにも愚かです。最高で最強であるこの信仰。もっともっと、その力を己自身の知恵を発揮するために、利用しつくしていかなければなりません。そこに必要なものは、生命からは発することの出来る信仰心以外の何者でもありません。

いいことも、悪いことも全部、受け止めることのできる生命を発揮できるのがこの信仰。そして、本来の理想は、もっともっと大きい。いいことも悪いことも「どんなことも言える」。逆に、言われて困ることなど何一つない。批判されることに、目くじらひとつ立てることも無いはず。そんな風に、何でも受け止めて行く覚悟も必要なのでしょう。

学会可愛さゆえに、つまらぬ我が身の保身のために擁護するための「法」を使って正論と称する言い分けすることは、創価学会が、非難や中傷を受ける事の理由のひとつであるかもしれないし、結局、非難される側にその原因の根本があるのだというところに帰着できないという己の信仰心に立ち返れることの出来ない、己の傲慢さを露呈しているのかもしれません。

仮に、創価学会が崩壊しようと、更に、発展しようと、究極、一人ひとりの信仰が確立されれば、どうでもいいこと。一人の中に永遠に消えない創価の存在が厳然として、己の生命の中に存在する。宝は、創価学会と言う団体にあるのではなく、信仰者の一人一人の中に目に見えない最高の宝として絶対的に存在する。

しかし、ネットの安易な信仰活動の世界では、外部の創価を毛嫌いしている人たちが創価を攻撃し、創価学会を潰すのではなく、その内部から出てくる愚かな信仰者の獅子身中の虫によって、時代を察知できぬ変化の結末が、創価の崩壊につながる可能性を秘めていると言うことを否定することは、出来ません。

それは、リアルな現実よりも、更にリアルなのかもしれません。

 サイト運営者 2011/3/6  


創価 | [2011-03-06(Sun)] | Trackback:(1) | Comments:(1) |-

創価という団体の為に私は存在しない

創価は一人ひとりの人間のためにのみ存在する

わたしは、「ブログ村の創価カテゴリー」と言うところが大嫌いと、先日の記事で書いた。


確かな哲学によって現実を生きる同志達。

その闘う相手とは?

それは、創価学会の同志との戦いである。

勿論、己との闘いを全ての前提とする。

その己の闘いとは何か?

自己改革。

それは、己の生命に宿された宿命を転換する事。

一人ひとりの人間革命のための現実の闘いに他ならない。

その前提において、一人ひとりが己との闘いに勝つための集団である創価学会員。

その創価学会員であるならば、何を言われようと、なにも恐れる事はなく、言い訳をする事もなく、全てを己の生きる為の力に変えることが出来るはず。

創価学会員が闘う相手とは誰か?

それは、世間を非難する前に、己を非難せよ!

そして、その非難する者達の一人ひとりの集まりである創価学会員同士を非難しあえ!

互いが究極の仏道修行者であるという認識を持つもであるならば、現実の全てを受け入れるだけの心を持て。

生きることにたいして、言い訳や嘘や見栄は、妙法を信仰する信仰者である一人ひとりの信仰心を高めようとするものである人間にとっては、何の意味も無い。

だから、創価学会員の人達に対して、厳しい。

あえて、非難めいた記事を書く。

批判であるとか、誤解であるとか、言い訳をせずとも、この記事を読まれた方が、どのように感じるかは、その人間の現在の姿を心というものを通して映しだす。

その心で感じた姿を己の信仰心によって確認する。

感情的な心から、冷静な心になって理性的な心で、受け止める。

信仰とは、相手を見ることによって、己の心のスクリーンの精度を更にアップさせることにある。

心の器。

感情から理性で生きる。

今という現実を。

一人ひとりの人間。

その集まりが創価学会。

だから、今、私がその創価学会員がいる創価学会に対して、「心に思う事」は何を書いても良いと感じる。

それは内部の揉め事でも、言い争いでもなんでもない。

また、組織の発展を阻止する妨害でもない。

それらのとらえ方の全てに確かな哲学が、一人ひとりに確かめられており、試される。

全ては、己自身の原因と結果を受け取る事につながる。

それが一人ひとりの人間のためにある創価という宗教団体と認識している。

どこまでも一人ひとりのためにのみある。

創価は、一人ひとりの人間のためにのみ存在する。

創価学会という団体のために、私は存在していない。

汚い、馬鹿で愚かな人間社会。

創価はその縮図としても存在するのだ。

切磋琢磨できる最高の場所。

そこに確かな哲学を己の心の奥深くに刻む「勇気」と「覚悟」があれば・・・。

過酷な試練の場。

それが、生々しい現実を人間の姿で生きるこの世。

生きること。

☆確かな哲学・賢者の石
【名字の言】人生を確かに生きるひとしずく

創価 | [2010-07-29(Thu)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

恥さらしな創価を見たいならブログ村の創価カテゴリー

ネット上におけるサイトには、いろんな場所がある。

個人でブログを開設している人たちなどは、共通する話題やテーマの存在するコミュニティーに参加することによって、ネット上において情報を得たり、参加する人たちとコミュニケーションをはかることが出来る。

また、そのようなサイトに参加したり、リンク、登録する事で、ブログの知名度や価値を上げる事に貢献する事にも繋がり、ひいては、ブログを所有している人が最も望むものとされるアクセスを計画的に集める事も可能となる。

よく見かけるサイトでは、●●万アクセス達成!ありがとうございます。

なんて、報告をして、ブログを運営してきてよかった~~。

何ていう自己満足的な報告を自慢げに語っているブログや、一々、事細かに、グーグルやヤフーといった検索エンジンの順位情報なども話題にして、ブログを1つの自己顕示の方法として、楽しんでいる人も居る。

それは、それでいことだね。

そこで、共通の話題やテーマに沿ったブログが集まるサイトの中に、ブログランキングと言うものがある。

しかし、私は、そこにある、宗教や思想・哲学を語るランキングサイトが大嫌い。

そんな大嫌いなサイトと書きながら、自分もそのブログランキングに登録している。

言ってみれば、被リンク稼ぎ。

単なる、ブログを宣伝するための手法。

しかし、そのブログランキングサイト自体に興味があるわけではない。

ただ、検索エンジンに対する地味なSEO対策のひとつ。

ブログには、人それぞれ、テーマや、記事を書く上でのポリシー、また、ブログを運営する上での目的など色々あるはず。

だから、人それぞれ。

しかし、事それが、宗教を語ったり、その宗教の中の創価学会などといった信仰に関わるタイトルを冠にしたブログなどを見ると時として、吐き気を催すような気持ち襲われるほど、気分が悪くなるときがある。

信仰において語るブログを持ちながら、人間社会の中で、俗物的なことにこだわりながら、人と比べる事を否定するためにあるはずの信仰なのに、人と比べる事を前提である場所を意識しながら、表向きには隠しつつ、語っている姿。

見栄と傲慢と自己顕示、単なる自己満足であり、他人との要らぬ競争を意識したエゴ丸出し。

信仰と言うものを、知らずに捻じ曲げておきながら、「純粋な信仰とは何か?」なんて事を偉そうに語る姿。

そこに、何も矛盾を感じる事の無い姿。

これが正しい信仰者なのかという疑問。

しかし、疑問を疑問と感じる事無く、語る姿はどこまでも宗教の操り人形として、「信仰と信仰心とは?」というという己自身に問う事の出来ない信仰者としての浅さを痛感する。

要するに与えられた宗教を単に鵜呑みするだけの傀儡となって、己の現実を生きる為の行動全てが確かな哲学に基づいているのかどうかを己の信心に体得できぬものの哀れさとなって感じるのかもしれない。

ブログランキングサイトの中でも、もっとも知名度の高いサイトとして知られている「ブログ村」。

このブログ村のサイトの中でも「創価カテゴリー」。

そんなカテゴリーランキングをつくる奴もアホだと思うけど。

その中に参加している人間もアホと言えばアホだよね。

見てご覧。

これが創価学会の姿だよね。

恥さらし。

※この記事は、自由な思想と信条に基づき己の信仰心に基づいているものです。ネット上において自称、学会員と称する方の悪意のある書き込みはお断りします。

創価 | [2010-07-24(Sat)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

ネットで与えられた宗教を語るペテン師達

肉体と精神で現実を生きる人間

現実とは、どこまでも、恐ろしく巧妙に、ありとあらゆる見えるもの、見えないモノのの姿・形を変え、そして、見えるもの、見えないもの姿と形を借り、己と言う人間の「今」を潰しにかかる。

時には、時間と言う鎖につながれた奴隷としての環境を与えられ、その中で、ほだされ、誘惑に駆られ、ことごとく、己の人間の中の善なる変化を阻止しようとする。

肉体と精神を宿す人間。

精神のみでは生きられない人間。

肉体のみでは生きられない人間。

肉体と精神で現実を生きる人間。

ネットは、嘘だらけの世界。

言葉の世界は嘘だらけ。

嘘と思えば、それは嘘になる。

本当と思っても、そこには本当は無い。

ネットの世界で人間は生きることは出来ない。

当たり前だけどね。

でも、ネットの世界の延長が、現実と勘違いしている輩も多いけどね。

そんなネットの世界で、与えられた宗教を語る者の嘘。

当たり前だよね。

現実の世界さえ、見抜くことが出来ない人間が、ネットでは、世の中全てお見通しのような事を、借りた言葉や、盗んできた言葉を、自分の言葉として偉そうに、与えられた宗教を語るような輩がわんさかいるネット。

ネットで自分のものでは無い与えられた宗教を語るもの達が、幸福を運ぶテンシ(天使)ではなく、ペテンシ(師)達の予備軍に思えて仕方がないよ。

己の中にある信仰心と現実を生きる為の哲学を語って欲しいものだ。

悲しいねえ。

☆確かな哲学・賢者の石
【名字の言】人生を確かに生きるひとしずく

創価 | [2010-06-30(Wed)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

創価の座談会の現実を憂う

お久しぶり

創価の座談会の会合と言うところに集まる学会員というのは、「うなずきマン」ばかりなのだろうか?

互いの同志の発言を戒めあう、互いを高めるための信心による信仰心を高めるための信仰者の集まりと言う意識はそこにないのだろうか?

そのような会合に腹立たしさを感じる者は、一人もいないのであろうか?

学会と言うところは、優しく人を包み込む団体ではないのか?

人を優しく包み込むという事は、信心でとらえるならば、そこには厳しさというものが無ければならない。

その厳しさを感じる事の無い、イエスマンばかりの創価のその根本思想に基づいた、一人ひとりの信仰心に訴えかける一人ひとりの信仰心を感じ取ることの出来る会合へと高めようとする姿勢を感じる事が出来ないなのは、私に問題があるのかもしれない。

しかし、その感じる事が、冷静な心で感じ取る事の出来る信仰心に基づくものであるとするならば、学会の座談会の質の低下と言うものを憂う。

その質の低下という下品な信仰者としてあるまじき、差別的な言葉を吐かねばならない学会の中の組織に感じる惰性を責めなければならない。

いつの間に、座談会と言うところは、政治ばかりを語る場所になってしまったのだろう。その政治を語る姿に、信心と言う言葉が一言も出ないという事は、座談会で発言するその語る人間の創価の中にあるものは何なのだろう。

自分と同じ創価の人間を見て感じる、己の中に映し出される創価の姿は、その本質を忘れ去られ、失いつつある単なる文化団体もしくは、政治団体を応援するための母体組織へとその中身を替えつつあるのだろうか?

そんな事を感じる座談会では、今期の選挙は公明。

それしか、私の頭には残らなかった。

そして、幹部の惰性に満ちた、信仰心からずれたところから発せられる心で語る、座談会の中央に座る姿。

そこに感じるのは、一人ひとりが、平等という開かれた空気と自由な発言が許されるような環境を、感じ取る事ができない。

なぜに、こんなに窮屈な思い出で、この座談会という、一人ひとりの存在に光を当てなければならないところから程遠い場所に、嫌な思いを募らせて座っていなければならないのだろう。


所詮、行きたくなければ座談会には、来ないでください。信仰の場所でありながら生きたい人だけが集まるサークル活動のような場所なのかしらん。

個人の発言において、庶民のための創価といいながら、その内容は、人を、お金と住むところで、区別しようとする人間として、最低な発言をしながら、その発言を戒めようともしない。

それどころか、みな、うん、うん、うなづくだけ。

「あ~、そうですか。」「あ~、そうですか。」

あー、そうですかじゃあないだろ!

相手の中にある、その汚い生命を見抜けないようなていたらくな幹部では、その中にある信仰心は一体どんなものなのかを見抜くのには十分すぎる。

組織が崩壊するのは、組織の最も裾野である座談会が、互いの信心を高める場所から遠ざかるような人間同士ばかりが集まる事によって、やがては、突然のように脆くも全てが崩壊の一途を辿るように思えてならない。

その現実を見て、私に、今、出来ることを探す。

【名字の言】人生を確かに生きるひとしずく

創価 | [2010-04-17(Sat)] | Trackback:(0) | Comments:(2) |-

私の大切な創価の二つの宝


自らの運命は自らの手によって開く」と言う私の思い。

当然、ブログにその思いを記事にして書くということでその運命が開けるというわけではありません。

私のような未熟で鈍感な人間に必要な事は、言葉の世界に深く浸る事で、いくらか人間の心を理解する事が出来るようになっても、己自身の人間を変えるためには、何一つ足りません。

それは、人間として、この五体を使って現実の中で、生きることによって、「自らの運命は自らの手によって開く」事の出来る哲学として成立するからです。

どこまでも見える世界で生身の人間達の現実社会を生きるということなしありえない。

言葉と言葉だけの観念の世界を、ほんの少しの心で行き交うことができても、その先に進む「勇気」がなければ、このブログの記事の発するところの根本である妙法哲学の本質を、己自身の生命に刻み、現実の世界で、実証を示し、その哲学の正しさを身を持って証明する事は出来ません。

所詮、ネットはネットです。

大切な事は、現実という、人間の姿を見えるもの姿かたち、あるもの全部をこの世で使い切る闘いこそが、この哲学に求められている事。

正しいと信じ、確信した、その正しさを身をもって証明してこられた人。

その事実としての結果として存在する創価の勝ち誇る姿。

それは、自らの生命で勝ち取ってきた、一人ひとりの勝利の証なのだ。

「突き抜ける」己の中の「信仰心」を知りたい、感じたい!

己の「生命」で!

そのために、求められる最高で最強の哲学を与えてくれた大切な恩人。

私の最大、最高の「報恩感謝」の証を示すものは、自らの「変化」以外のなにものでもない。

己の中の信仰心に対する迷いは、何一つ無い。

現実を生きるとは、この体を、己の哲学に馳せた強い信念で、一念と執念によって、現実を生きる為の【勇気】に変え、人間社会の中で自らの「肉体と精神」を通して、心から「生命」に刻むことなのだ。

現実を生きるということ無しに、ネットで語ることの出来ない「信仰」とは、この『創価の哲学』に他なりません。

その互いの信仰者として、受持した妙法の宝の、最高の価値を知らしめてくれる創価の一人ひとり。

己の「今」を知る。

私の大切な、「創価」の二つの「宝」。

守るのは、きっと、わたし。

妙法。

桜梅桃李に今を生きる。

サイト運営者:【バン】(2010/3/31)



創価 | [2010-03-31(Wed)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

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