父へ:「たくさん泣いたよ」


父へ。


たくさんの悲しみをありがとう。


たくさん泣いたね。


泣いた。


悲しみよ。


いつか、また、悲しみは必ずやってくる。


あなたが亡くなってから、もうすぐ2年。


3回忌だ。


5月23日。


二年。


やっと2年。

もう、2年。


いつもあなたに対する感謝の思いを忘れない。


忘れないよ。


泣いた分だけ強くなった。


悲しみを経験した分だけ、幸せの形を知ることが出来た。



あなたのおかげ。


おとうちゃん。


元気?





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【父の一周忌】:私らしさの最上級を生きる「桜梅桃李」

お陰様で、父の祥月命日である一周忌を無事に終えることができた。




今日も一日、わたしのなかには、父の存在がある。




その日、お墓参り行ったときに、父が出迎えてくれた。





父の墓石にいた小さなアマガエル。




こんなところにアマガエル?




まあ、いてもおかしくなない。




しばらくして、そのアマガエルは、父の墓石に刻まれた文字のへこみのある場所に動き始めた。





そこには、家名の文字の下に、桜梅桃李と刻まれている。




その小さなカエルは、桜梅桃李の「李」の文字の凹みの中に入り、顔をこちらに向けてしばらくじっとしていた。




お墓に家族みんなが手を合わせている間、そのカエルは、あたし達をじっと見ていた。




しばらくするとそのカエルは、墓石から姿を消した。




父だ、



父が、姿を変えて挨拶をしに来たんだ。





桜、梅、桃、



そして、父は、「李」の文字に。




桜梅桃李、この4つも文字の意味にあるように、あなたらしく一生懸命生きた父。





お父ちゃんが亡くなって一年だね。





ありがとう。




あたしは、これからもいつもお父ちゃんに元気な姿を報告できるように頑張るから、いつも見ててね。




わたしらしさの最上級を生きる「桜梅桃李」




生きるよ!



きっと。




いつも応援してくれてありがとう!













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父との約束「桜梅桃李」を生きる


お彼岸に、父のお墓詣り行った。

もう、すぐ父の一周忌。

会合の席上、信仰体験をお願いされた。

かと言って特別な信仰体験というものはない。

でも、父が亡くなって、そろそろ一周忌を迎えるにあたり、これまでを振り返るとても良い機会だと思い、快く承諾させて頂きました。

その内容をメモとしてのこしておきたいと思います。

【父との約束「桜梅桃李」を生きる】

梅、桃の花が咲き、桜も開花し始めた。

満開の桜もすぐ。

「桜梅桃李」

桜(さくら)、梅(うめ)、桃(もも)、李(すもも)の4つの文字を合わせた言葉。

それぞれの花を咲かせる絶対的な個性を意味する言葉。

それは、どんな人にもその人でなければ、発揮できない素晴らしい個性と役割、使命があるということを例えたもの。

この言葉は、今は亡き、父の遺言であり、父と私の約束。

先日の聖教新聞、「随筆 我らの勝利の大道(だいどう)」に掲載されていた「前進!希望の春へ」

から内容の一部を抜粋。


一切の勝利は祈りから。

南無妙法蓮華経と唱うるものは、「我が身宝塔にして我が身又、多宝塔如来(たほうにょうらい)なり」

人間は誰しも、「自分」から逃げるわけにはいかない。

どこまで行っても、自分は自分である。

この自らの生命をそのまま磨いて、最も荘厳な宝塔と輝かせ、最も尊極なる仏の力を湧現していけるのが、妙法の題目の音声(おんじょう)である。

人生の険しい道を勝ち進んでいく為には、いかなる困難にも負けない自身へ、強く成長し、境涯を広々と開いていく以外にない。

そして勇気を、知恵を湧き出だして誠実に行動することだ。

人間革命とは、自分のいる「その場所」から始まる。



と書かれていた。

御書に曰く、

「此の御本尊、全く余所に求むる事なかれ」

「南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」とある。

人間の最高の生命を引き出せる究極の哲学である妙法。

父との約束である「桜梅桃李」を「私自身のままで」最高に生き切ることの出来る信仰。

「願兼於業」

自ら望んで生まれてきた。

「衆生所有楽」

私は楽しむためにこの世に生まれてきた。

この姿と生命を望んで生まれてきたのだ。

妙法を根底にした人間革命の思想。

仏法を根幹とする妙法哲学によって得た信心。

現在の私が「今を生きる」ための根本にあるものは、この妙法哲学であり、南無妙法蓮華経の題目。

過去の数年間、生きることの全てにおいて、とても苦しく人生のどん底にあった。

しかし、どん底で、自らの信仰に目覚めることが出来た。

そして、今、生きることの全てが苦しかった肉体と精神の「死の淵」、そのどん底から這い上がり、2度目の人生を与えられたという思いで生きている。

「人生の病根は傲の一字」という言葉。

傲とは、「傲慢」。

大切な人への「報恩と感謝」を忘れ、謙虚さを失った人間の「傲慢さ」こそ人生を破壊に導く病の根源。

苦しかった私の過去の「生と死」のどん底で、知った自身の中の病根。

それが傲慢である。

自身の宿業の深さを痛感する日々に、現実を生きている自分は、今どこにあるのかということをを問い続けてきた。

そして、生きることのどん底で見つけた確かな灯り。

創価によって授かったこの信仰を、人生のどん底で、やっと自らの信心として、そのあかりを生命に灯すことが出来た。

まだ、まだ、毎日の現実は、厳しく乗り越えなけれならないハードルだらけの生活である。

しかし、自身の境涯革命の為に、妙法という確かな哲学に基づき、現実を生きることの毎日でもある。

父は、昨年5月、享年80歳で亡くなった。

間もなく父の一周忌を迎えようとしている。

父は、まじめで、口数が少なく、おとなしい人でしたが、人前ではいつもにこやかで笑顔を絶やさない人でだった。

父の好きな言葉であった「桜梅桃李」は、私が「今を生きる」父との約束であり、誓いでもある。

晩年、亡くなるまでの父の信仰者として姿は、とても立派だった。

父に信仰の上で私が、意見をした時に、父は、絶対に「学会」から離れてはこの信心はないんだよということを常々語っていた。

聖教新聞の毎日読了を始め、御書の3度の全編読破、組織においてはブロック長をつとめ、学会活動に熱心に取り組み、地域活動へも積極的に参加していました。

父が二度目の脳溢血で倒れたのは、去年の新年が明けて間もない1月14日だった。

一度目の脳溢血では、後遺症も無く完治することが出来た。

しかし、1年半年後、再び、脳溢血で倒れた。

今度は、脳幹部からの出血によるものでとても重篤なものだった。

自力での呼吸もままならない意識不明の状態。

どうして?

どうして?

なぜ?

その時、頭の中で湧いてくるのはその言葉ばかり。

その日を境に父の2度目の闘病生活が始まった。

脳溢血で倒れた父の131日間の闘病生活は、最後の最後まであきらめずに、懸命に自分の命を懸けて戦い抜いた131日間。

父にとってどんなに辛くて苦しい戦いであったろう。

そして、父と私たち家族にとってのひとりひとりの信仰をかけた信心の闘い。

父が懸命に病と闘っている姿から、精一杯「今の私にできる」ことを祈る。

毎日、病室に通い、父の奇跡を信じた。

懸命に命を懸けて戦っているその生命力を信じた。

父の姿から今を懸命に生きる事に対する勇気をもらい続けた。

父は、最後の最後まで戦い抜いた。

脳幹出血という無意識の中で、父の自らの命をかけた131日間の戦いに、信仰者のして生き様、証を見ることがでた。

臨終の日、父の危篤の知らせを受けたその時。

病院に先に駆けつけた姉から、なんども私の携帯に連絡が入った。

わたしが、仕事場から父の病室にかけつけるまでの間、、2度、呼吸が止まったと後で母から聞いた。

しかし、不思議にそのあとまた、呼吸が戻ったという。

わたしは、ただ必死で病院へ向かいました。

危篤の知らせを受けて、私が病室に駆けつけるまで父は最後の命の炎を燃やし続けてくれた。

そして、病院へ駆けつけたその直後 父は息を引き取った。

「父は私が来るのを待って入れくれたのだ」とそう感じた。

静かに息を引き取った父の顔は、とても安らかだった。

131日間を命を燃やし続け懸命の戦い抜いた父。

にこやかな笑顔を見せる父の遺影は、とても誇らしげに映り、残された私たち家族に、毎日「頑張れよ」のエールと勇気を与えてくれる。

今、信仰者として強く生き切った、父を誇らしく感じる。

亡き父への「報恩と感謝」を忘れず、残され家族が力を合わせて生きていくことを誓う。


祈り

それは、あきらめない勇気だ。

自分には無理だと、うなだれる惰弱さを叩き出す戦いだ!

現状は変えられる!

必ず!

確信の命の底に刻む作業だ。


祈り

それは恐怖の破壊なのだ。

悲哀の追放なのだ。

運命のシナリオを書きかえる革命なのだ。

自らを信じよ!

卑下するなかれ!

卑下は仏法への違背だ。

胸中の仏界への冒涜だからだ。

祈り。

それは、我が生命のギアを大宇宙の回転に噛み合わせる挑戦だ。

宇宙に包み込まれていた自分が、宇宙を包み返し、全宇宙を味方にして、幸福へ幸福へと回転し始める逆転のドラマなのだ。




真剣な祈りとは、一念であり執念。

現実をあきらめない勇気だと感じる。

私の中の不可能を可能にすることが出来る仏の生命がある。

今を生きることの全てがこの妙法にある。

全ては、題目にあるのだというのが、私が私らしく、父との約束である「桜梅桃李」を生きるための根本。

父のお墓は、交野にある関西創価学園の麓にある。

父が眠るその墓石には、「桜梅桃李」の4文字が刻まれている。

自分らしさの最上級を生きるための私と父との約束。

「桜梅桃李」

所願満足の人生の為に、感謝と報恩を忘れずに「今を生きる」ことを実践していきたいと思う。



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一年前の今日、1月14日に父は脳幹出血で倒れた


一年前の今日、父が2度目の病に倒れた日。

1月14日。

去年のその日は、土曜日だった。

真冬の寒いの午後、父は自宅から近くのカラオケ喫茶に行った。

父は、カラオケが大好き。

歌を歌うことが大好きだった。

しかし、その日が父が歌を歌う最後の日になった。

もう、一年が経つんだね。

あの時以来、父と話すことはできなくなった。

脳幹出血で意識不明の状態。

意識は戻ることなく、父は、100日を超える闘病の末、帰らぬ人となった。

もう、一年。

一年。

お父ちゃん。

新年が明けたよ。

お墓もできた。

今を生きているよ。

色々あるよ。

一つの悩みや苦しみを越えたと思ったら、また、次の悩みがやってくる。

しんどいなんて言ってたら、すぐに置いてけぼり。

・・・・。

何が置いてけぼりなのかはわからないけどね。

なんでだろう。

大切な物が置いてけぼりにされる。

始まるよ。

また、始まる。

毎日が始まりなんだ。

昨日よりも今日、今日よりも明日。

毎日、約束するよ。

毎日、誓うよ。

毎日、勇気が必要なんだ。

勇気が無ければ約束を果たせない。

勇気が無ければ誓いを実行できない。

忘れるな!

決して忘れるな!

大事なこと。

大切なもの。


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【父へ】:大切な宝、そして私の誇り

父が亡くなるまでの数年間、父の姿は変わって行った。


父の中の変化。


わたしにこれからの人生を生きるという大切なことを教えてくれた。


我が身をもって。


桜梅桃李の人生。


父らしい人生。


父が生きようとする炎は、最後の最後まで燃え続けた。


父が与えられた宗教と信仰によって、自らの心と我が身の生命に刻み続けた信心。


己を生きる力。


己を信じる力。


己を生き切切る勇気。


父の姿が変わったように見えたのは、私の姿自身が変わったのかもしれない。


父自身の「今」を最高に生きたその姿を映し出す私の心。


その心のスクリーンに映し出す映像は、相手の心を映し出すとともに、私の心の変化に基づいて映し出されてもいる。


互いが互いを高めあう信仰。


一人ひとりの確かな哲学に基づく信心。


己を信じる力。


私の中に、大切なものを大切な物として観ることの出来る心。


人間の中の大切なものに、心の目を向けることの出来る精神。


わたしが、これからを生きていく未来にとってかけがえのない宝。


そして誇り。


わたしが自慢できること。


私の誇り。


お父ちゃん、大切な宝をありがとう。


最高の宝物だよ。


これからを生きてく。


父が生きた証。


私のこれからの生き様。


見ててね。



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【優しは力なり 】やさしくなれる自信

父は、いつもわたしの中にいる。

笑顔の父。

父は、いつも私の心の中にいる。

父の笑顔。

でも、会いたい。

父ともう一度、話をしたい。

そう思うと、悲しくなって涙が出てくる。

父は、やっぱり死んだのだ。

生きて話ができることは、もうない。


父は、死んだ。

でも、父は生きている。

わたしが生きている限り、ずっと生きている。

わたしの中で父は生きている。


さみしいよ。


人のために灯をともせば、我がまへあきらかなるがごとし


父のお蔭で優しくなれるような気がする。

本当の勇気を教えてくれた。


大切にして生きていくよ。


ありがとう。




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私の変わり方:報恩と感謝「おとうちゃん、ありがとう」

父の49日の法要もお陰様でなんとか無事済ませることが出来た。



「お父ちゃん、少しは役目を果たすことができたかな?」




毎日、お父ちゃんに励ましと勇気を貰っている。



これまで家族の中で何一つ役目を果たすことが出来なかったわたし。




これもお父ちゃんのお蔭だね。



今日からまた新しい一日が始まる。



変わらないといけないね。




もっと変わりたい。



変わり続けていきたい。



昨日から今日。


そして、今日から明日へ。



この先、幾つになっても、どんなにヨボヨボになっても。




今を生きる。


今を生きているこの瞬間を大切にしたい。



生きていられる間。




未来を変えることが出来るのは、今というこの瞬間しかない。



限られた時間とこの空間。



人間が生きること。



わたしを生きること。



わたし自身を生きること。



わたしが生きている理由。




私は、変わりたい。



2度目の人生。



父と一緒に生きてゆきたい。




わたしの中に大きな宝が出来た。



私の中から力が湧いてくる勇気の源泉。



私って何なんだろう?




昨日のわたし。



今日のわたし。



明日のわたし。





父は死んだ。



でも、父は生きている。



父に対する感謝と報恩。



その思い。



その証。



きっと必ず。



過去を傲慢に生きてきたわたし。




今、私という人間は、生きているというだけで丸儲けなんだ。





謙虚に生きる。



お父ちゃん、ありがとうね。





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七月七日「七夕の日」:七七日(ななのか)の49日法要、父が天の川を渡る日

7月7日、七夕の日、父は天の川を渡った。


49日(忌明け)の法要を無事終えた。


満中陰。


父は、仏様になった・・・・。




母は、仏式という昔ながらの形式にこだわった。


父が亡くなり、初七日から七日七日と、六七日までを家族で供養を行い、7月7日(土)に49日の法要をとり行うことになった。


父は亡くなった瞬間から成仏していると思った。



というか、信じてる。


いや、父の131日の闘病の間、既に成仏していたのかもしれない。



わたしにとっては、初七日の法要や、49日、100日といった法要は、亡くなった父に対する供養という意味においては、あまり重要なことではない。


毎日、毎日、父の亡くなった後も私の心の中で生き続けているし、今を生きるわたしをいつでも、どこでも励ましてくれている。



49日の法要は、月が、3か月にまたがると身内に不幸が続くなどどと言って良くないとされる。


父は、5月23日に亡くなった。


49日の法要は、7月7日とした。



5月、6月、7月と3か月にまたがる。




そんなときには、35日を忌明け法要とすることが多いらしい。



でも、わたしは、そんな語呂合わせにちかい迷信など、気にしない。





亡くなった父を見送る儀式というのは、故人の思いや遺志が最も尊重されるべき。




母は、そんな父の思いをくみ取ってくれているのだろうか。




時々、母の気持ちがわからなくなる時がある。




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はじめての喪主:父は月に行った

父が亡くなって、もう、すでに10日が過ぎた。


喪主として、父を見送ることになった。



お父ちゃん、わたしは、出来たかな?



お父ちゃんの力で、家族を代表して、なんとか役目を果たせたような気もする。



ありがとう。



おとうちゃん。




たくさん、書きたいことが山ほどあるけど、今を生きているからね。



みんなお父ちゃんのお蔭だよ。



みんながお父ちゃんのことを心から見送ってくれた。





素晴らしいお葬式だった。




お父ちゃんは、月に行った。



今、どこにいる?



そばにいてる?



ずっと、いつまでもそばにいてね。



力になってね。



話したい。



夢に出てきてよ。



わたしに言葉をかけてよ。




今、ゆっくりと私たちのことを見てくれているんでしょ?



まだ、もう少し、私達家族のそばにいてね。







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わたしの信仰に「もういいよ」は無い:「昨日から今日、今日から明日へ!」

わたしの生き方の哲学に、



「十分頑張ったよ、もういいよ。」



は無い。



「お父ちゃん、頑張ってるね!」




「昨日も頑張ってたね!」



「今日もがんばってるね!」




「最後の最後まで、頑張るんだね!」




脳溢血で倒れた父。



病床で意識の無いまま眠り続ける父。




お父ちゃん!



絶対に、わたしは、「もういいよ」なんて言わない。



思わない。




父が、今懸命に生きようとしている。




父が、父の奇跡を起こそうとして、必死に今、自分自身と闘っている。




お父ちゃんが生きようとしている姿。




今、世界中の誰よりも一生懸命に生きている。




ありがとう!




今を生きる事からあきらめないのが、わたしの哲学。



そして、



今を生きようとすることから絶対に逃げないのが、あなたの哲学。




今、その現実をあなたの懸命に生きる姿を通して、私自身の生命に刻む。



わたしの精神に刻む。



わたしの心に刻む。




父という人間。



父の生き様。





意識の無いまま語らぬ父と、対話する。





最後の最後のまで明かりを灯し続ける父の哲学。



父の大きな、大きな仕事。



人生の大仕事の最中。



今を生きることの姿を懸命に教えてくれている父の大きな仕事。



毎日、毎日、本当に頑張っているお父ちゃん!




こんなに父が頑張っている。



最後の最後まで、決して命を諦めない。



今を懸命に最高に生きている。



これは、あなたが望んだ大きな大きな使命。



何も語らない父の姿から、こんなにも生きることの勇気を感じ取ることが出来る。



父のことを支えてくださる病院の主治医の先生も、一生懸命に看護と介護をしてくださる看護師さん達もみんなお父ちゃんの頑張りを褒めてくださっている。


父は偉い人。



この世の中で今を一生懸命に生きている絶対的に偉い人。




絶対的な父の姿。



その姿から自分は幸せを感じ取ることができる。



父というあなたのお蔭で幸せを感じることが出来る。



お父ちゃん、ありがとうね。



本当にありがとう。



お父ちゃん、今、最高に輝いているよ。





祈り。


祈りとは?



奇跡。


奇跡とは?



父自身の「祈り」と「誓い」を、今こうして命の限り懸命に生き続けている父の姿から感じ取ることが出来る。



ありがたい。




わたしの信仰はありがたい。





わたし自身の中にある信仰と宗教と哲学。





確かな哲学を築き上げるための信仰と宗教は私自身の中にある。




だから、わたしも祈る。



そして、父に誓う。



父に負けない。


父に恥ずかしくない自分であるように。




祈りとは、誓い。



わたしが私であることを生きるための勇気の源泉だ。



父に対して、今出来る事は何?




父に対して出来る事なんて何もない。




ただ、感謝のみ。




今、父は、父自身を生きている。



命の炎を最後の最後まで燃やし続けている。



父の偉大な生命力。



父の信仰と哲学。



今を生きる父の生き様。




父の「仏(最高)」の生命。




父の姿を見つめ続ける。




毎日、毎日、見つめ続ける。



今、きっと誰よりも一生懸命に生きているから。




わたしの中の父に対する過去のわだかまりの全てが消え去ろうとしていることに気が付いた。



わたしの中の父に対する過去の重荷。



父のことを許せなかった。



父の生き方の弱さを責め続けた。



「ごめんね。」




「本当に、ごめんね。」




父は、いつも心の底で、詫びていたんだね。




お父ちゃん、



もう一度、話がしたいよ。



もう一度、話したい。



お父ちゃんと、話がしたい。




二人で笑ってあの時のこと、あんなこともあった、こんなこともあった。



話したい。




だから、あなたの奇跡を信じてる。



父自身の奇跡をどこまでもあきらめない。



最後の最後まで信じてる。




あなたを信じるということをどこまでも決してあきらめないわたしの信仰と哲学。




わたしの境涯革命。



互いにあきらめない。



お父ちゃんとわたし。




あきらめないのが、おとうちゃんとわたしの生き方の哲学。



今を生きる。



おとうちゃん、カッコイイよ!









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ひとりひとり、己を信じきることの出来る最高の生命(仏)に灯りを灯す信仰

私が、わたしであるための、



私が、わたしらしく生きるための、



より、正しい信仰とは?



より、高い哲学とは?



より、強い宗教とは?




神や仏は、人間の外に求めるものではない。



仏や神と呼ぶに相応しい究極の領域とは、人間自身の中にある。



己自身そのもの。



一人ひとりの人間の中に誰にでもある。



人間が人間らしく、わたしが私らしく、現実を生きることのできる信仰。



宗教。



より正しい、より最高の信仰と宗教と哲学を求める。




人間の中の好奇心。



人間の中の探究心。



人間が生きる究極の果てとは?




拡大する宇宙のエネルギー。


収束しようとするエネルギー。




今を生きること。




今があるということは、生きているということ。



人間生きているだけで丸儲け。



己の生き様を残す。



残せるのは今。




確かなものは、「今」というこの瞬間しかない。



ただ、生きることにのみに生きる。



今を生きるということの意味。



今を生きるということの価値。




その価値を求める先に、やってくる人間の死。



生と死。



己のなかの最高の生命に明かりを灯すことの出来る信仰とは。




より、正しい宗教とは、己自身を絶対的に高め、どこまでも己自身を信じきることができる。




己の中の最高の生命(仏)に灯りを灯すことが出来る。




わたし自身を生きることの出来る最高の哲学。















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「やることがたくさんある」ということは有難いことだ

一日、やることだらけ。


やらなければならないことばかりだ。


やりたいことが無かった人生。


でも、今、やらなければならないことが、たくさんある。


お陰様で。



やらなければならないことがあるというのは、自分に今、こんなにたくさん出来る事があるということだ。



出来るはずのことが山ほどある。



山ほどある、その山を越えられる。



お楽しみ♪




有難いことだ。



一日、24時間。



限られた時間。



その時間を大切にしたい。



生きるということの為の時間。



「今を生きる」ということだ。



わたしには、こんなに出来る事がある。



これからを生きることの為の今。




今が楽しい。




さあ、これからのわたしの人生がどうなるのか。



その楽しみの為に、今をとことん楽しも!



辛いことに慣れっこになってきた。


苦しいことにも慣れてきた。


悩むことにも慣れてきた。



「当たって砕けろ!」じゃあ無くて、



「当たって砕ける」のが、わたしの哲学。



何かにすがる、お願いする「他力本願」なんて、大嫌いなんだ!



真っ平なんだ!





わたしは、私。



私以外の人間になることなんてできない。




結構、わたし、がんばれるし。



父のことでも泣かなくなった。



泣いても現実は変わらない。



父は、父の命を懸命に自らの生命力で繋いでいる。



お父ちゃん!



お父ちゃんが、わたしに、「今!頑張れよって!」て教えてくれている。



病室に毎日通うことも、当たり前になってきた。



父に対する感謝は、日を増すごとに強くなってくる。



見えなかった父の大きさ。



意識の無いまま、懸命に生きている。



命。


生命。


生きる事。


ただ、今を生きることに尽きる。



だから、生きるよ。



お父ちゃんと一緒に生きて行くよ!




一日、一日、今を後悔の無いように、完全燃焼して生きていきたい。



お父ちゃん!



毎日、わたしを応援してくれてありがとうね!






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「奇跡」とは、起きるから「奇跡」と呼ぶ

言葉は、人間に不可能を可能にする力を与えることができる。


言葉自身に、価値があるわけではない。


言葉自身に、力があるわけではない。



言葉に価値と力を付け足すのは人間。



受け取る人間の中に、その言葉の持つ本質を引き出す力がある。


受け取る人間の中。




奇跡とは、起きるから奇跡という


これって、テレビドラマ「家政婦のミタ」の中の台詞だった。



奇跡とは、普通は絶対に起きない出来事が、そうなってほしいと願う人間の強い意志で起こる。奇跡は、起きるから奇跡と言います。自分には無理だとあきらめている人には、絶対に起こせません


こんな台詞。



たかが台詞、されど台詞。


わたしには、「されど台詞」なんだ!



奇跡という言葉。



奇跡という言葉がある以上、奇跡とは起こるものなのだ。




奇跡は起こらないから奇跡と呼ぶという人間もいるだろう。



そんな人間には、己の中の不可能の壁を打ち破るための限界を超える奇跡は、当然のことながら、絶対に起こることは無い。



奇跡は、起こるべくして起こる。



奇跡とは、偶然でも棚ボタでもなんでもない。


奇跡とは、必然的になせる業なのだ。



成功(天才)は、1パーセントの閃きと99パーセントの汗



99%助からないと言われても、残りの1%の奇跡を起こすために、決してあきらめない努力を続ける事。



不可能を可能にする努力をあきらめない所には、たとえその扉が閉じられようとも、扉が閉じられた瞬間に、次の不可能を可能にする扉を開くこと出来る。



わたしの父は、この世でたった一人。


今、わたしの中で奇跡を起こせる瞬間。



諦めない。



奇跡が起きることを信じるんじゃあない!



奇跡は、自らの力で起こすもの。


現実を真正面から受け止め、あきらめない気持ちと勇気をどこまでも持ち続け、絶対に逃げないと誓った私自身の力をどこまでも信じる。



わたしの中の不可能を可能にする奇跡。



わたしの境涯革命。



私という人間を変える事は、決して不可能なことではない。




懸命に自分の命と闘っている父。



わたしは、今、何が出来るのか?



わたしに与えられた使命。



果たさんかな。


意識不明の父。


父の奇跡を起こすのは父自身。



父とわたしの大切な時間。



互いの奇跡。



わたしの奇跡と父の奇跡。



セレンディピティは、偶然では無く必然的な努力の結果


「セレンディピティ」の獲得とは、常に、努力を怠らない中で、教わるものではなく、己の中からの「気付き」、「気がつくという力」である。




自らの幸福は、自らの力と勇気で勝ち取るもの。



お父ちゃん!


互いの奇跡を、互いに信じようね。


毎日、父の姿を焼き付け、心のスクリーンに刻む。


あなたは、あなたの奇跡を決してあきらめていない。



わたしは、わたしの中の不可能の可能にすることのできる奇跡をどこまでも信じる。



『人間万事塞翁が馬』


『生きているだけで丸儲け』



父の今の姿が、奇跡なのかもしれない。



こうして2度目の人生を生きているわたしの今の姿が奇跡なのかもしれない。




気が付く力「セレンディピティ」



人間の不可能の可能性にどこまでも挑戦する哲学。




賢者の石。

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毎日、今こそが自分との闘いだねっ!お父ちゃん 

なんだか私は、しばらくの間にとても弱くなっていたよう。


辛いことから逃げないという思い。


辛いと思うから辛いんだ。


でも、そう思えば尚更、現実がしんどくなる。


何だろう?


どうして、こうなるんだろう?


どうして、こうなったんだろう?


わたしの人間として弱さ。


持って生まれた生命の傾向性。


自分という人間を変えるということは、無理なことなんだろう。


わたしは、自分がまた、昔のような自分に戻らされてしまうのだろう。


現実というものの恐ろしさ。


立ち向かうということに対する気持ちさえ失われていく。



心がどんどん消耗していくんだね。


心に灯された火がだんだん弱くなっていく。


体が辛い。


心も辛い。


辛いことに感謝。


でも、辛いことはもう嫌だ。


辛いことから逃げたい。


逃げたくない。


そんな葛藤。


でも、逃げている。



意識するとしないとに関わらず逃げている。



わたしは、病気に逃げているのだろうか?


自問自答するしかない。


自分で答えを出すんだ!


前へ進むために。


自分という人間の弱さと立ち向かうために。


逃げないことが私の哲学なんだ。


それこそが、私の「今を生きる」という価値を創り出す。



これが、私の中の創価。


マイ創価。

わたしの創価な生き方。



それは、現実を見つめて生きる今というこの瞬間にしか存在しない。



わたしは、きっと戻れる!


確かな哲学の証をわたし自身で証明する。

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病気の一歩手前「いかなる病、障りをなすべきや」の信仰を忘れるな!

「今を生きる」事。

わたしにとって、現実における課題。

いつの間にか、現実からいきることに遠ざかっていた。


いつの間にか、「今を生きる」ということから遠ざかっていた。


逃げていた。


一体なんだろう?


体も心もだんだんばらばらになっていく。


今、自分はどこにいるのだろう?

自分という存在が、自分の中から逃げていく。


私という人間がいるのに、この私の中には、私がいない。


私らしさがどこかに逃げて行った。


今の自分は、何かにただ操られて生きているだけだ。


自分でない自分が、今こうして日記を書いている。


私は、病気になった?


これは精神的な病?


うつ病?


自分を生きている実感が無い。


何でこんなに現実は、思い通りにいかないのだろう?


一日、一日、辛抱して耐えてきた感情が、一気に雪崩の如くに吐き出される。


自分でもどうしようもないほど、情けないけど止めることが出来ない。


そして、自己嫌悪に陥る。


私に今求められている謙虚さはどこにいった?


傲慢なエゴが通用するなんて思ったら大間違い。



疲れのせいで風邪をひいた。


一週間ほど熱と頭痛に悩まされた。


病気って言うのは、精神までも蝕んでいくものなのだと分かった。


今こそ、私の哲学の最高の宝を必要としているときなのに、そのことにさえ気が付くことできないほど、体と精神はボロボロって言う感じ。


情けないという思いがあるけど、心が前に進めない。


心の先が、私の確かな哲学を呼び覚ます生命につながる扉を開けようとしない。


扉が重たいのか、それとも、心が弱っているのか。


心が病んでいるんだね。



「いかなる病、障りをなすべきや」の信仰なのに・・・。


今、必要なものは、何?



わかっているよ!


はやく、戻りたい!


早く抜け出したい!


こんなはずじゃアないんだ!


今のわたしを、わたしの生命の鏡で映し出すことが出来ない。


私の哲学はどこに行った?





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「謝らない、申し訳ないと思わない」父の闘病記録:入院から50日

2012年3月3日:土曜日


父の病気の為に、わたしは、姉がオーストラリアの家族のもとへ帰って行った後も、毎日、毎日、通い続ける。



自らの意志で通い続けてきた。


「父が今頑張っているから、わたしも頑張ろう。」


「父を応援したい。」


それが、今、

わたしの心の中には、


「行かなければならない」という思いに変わっている。


「行きたい」という思いから、


「行くんだ」という思い、


そして、


「いかなければならない」



毎日続けていることを途切れさせることが、怖い。



「今日は、父のところへ行きたくない。」


「休みたい」



「今日、父の病院へ行かない」ということが、とても後ろめたいことに感じる。


なんで?


自分の心に強いストレスを感じる。



自分は今、なんのために一日、一日があるのだろう。


自分を失いそうになっているのだろうか?


自分に楽をさせてあげることに対する罪悪感。


父の付添い、見舞いに行かないということは、弱い自分に負けているのだろうか?



いや違う。


今日は、父の見舞いには、行きたくない。


合いに行きたいわけじゃあない。


でも、もう行きたくないんだ。


だからといって、誰にも、何に対しても、もう、


「ごめんね。」なんて思わない。


思いたくない。


「申し訳ない」なんて思わない。



おとうちゃん、分かってくれるよね。


いつも、そばにいるよ。


おとうちゃんは、わたしの心の中にいる。


だから、そばにいなくても良いよね。


自分が自分である時間を頂戴ね。


・・・・。


だから、謝らないよ。



今日は、朝だけ。

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父の闘病記録:入院から49日『お父ちゃん、弱いわたしでごめんね』

2012年3月2日:金曜日

父が、脳幹部による脳溢血で倒れたのは、今年、1月14日の土曜日のことだった。


今日は、3月2日。

暦の上では、立春を過ぎ、現実の日常も雪から雨に変わり、一日、一日、ほんの少しずつ春がやってくる気配を確かに感じることが出来る。


でも、桜の枝の蕾は、まだ、硬そうに見える。


父は病室で眠ったままの状態。


今日も意識は、戻らない。


1月、2月、そして、3月。


倒れた直後に、緊急入院してから50日近くなる。


父の病気との闘い。


それは、私達家族の戦いでもある。


倒れて以来、毎日、病院へ通う。


父が寝ている病院の7階の個室の窓から眺める外の風景にもすっかり慣れっこになった。


1日、24時間、やむことなく父の看護や介護をしていただく看護師さんや医師の方とともそれなりに馴染んでくる。


今、心拍数、血圧、酸素濃度、酸素の摂取率、呼吸数などを管理したモニターに映し出される数字は、一進一退を繰り返している。


気になることは、

酸素濃度が、3から5へ移行したこと。


血圧をあげる薬の量が、これまで6から7、7から8へ、そして、現在は、8から9へと少しずつ増やされていること。


少し前に、血圧が下がり容体が急変、仕事中だった、私の携帯に病院からすぐに来るように緊急時を知らせる電話があった。


なんとか持ち直したものの、その時以来、血圧を上げるための薬を点滴し続けている。


最近は、呼吸が止まる無呼吸の状態も以前に比べて多く、呼吸自体が浅いということ。



毎日、毎日、父の元へ通う。


父が入院した当初。


そして、入院から50日近く経過した今。


父の状況は、日を重ねるごとにしんどくなっている。


私も、毎日、毎日、病院へ通うことに慣れてきたというところを既に、通り越したところにいるようだ。


現実から逃げようとする弱い自分がそこにいる。


もう、一日、一日が辛くなってきた。


「なんで・・・」という気持ちが、疑問が、怒りが、知らぬ間に浮き上がってきて、今の私の心の中のなかで葛藤する。


葛藤しなければならない程度の私の弱い心。


わたしは、弱い。


今、苦しいから、この苦しみを誰かわかってほしい。



看護師さんの話では、近日の内、個室から相部屋の転室がある旨の話を受けた。


ただ、その話を「そうですか。 よろしくお願いします。」


としか答えることが出来なかった。


でも、そこには、たくさんの意味が含まれていることは、百も承知だ。



・・・・。


これから先、わたしは、どんな選択をすればいいのだろう。


迷いと苦しみのなかでの選択。


お父ちゃんをあきらめたくはない。


お父ちゃん答えてよ!


頑張っているんだよね。



そう、信じているからわたしもどこまでも、父の為に今、してあげられる最高のことをしたい。


親孝行できるのは、今しかないものね。



でもね。


わたしは、情けないくらい弱いんだよね。


ごめんね。





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辛いことは「辛い!」と言え!しんどいことは「しんどい!」と言え

なんでこんなに頑張らなくてはいけないの?


今、とても辛いのに「もう、これ以上辛くてできない!」といったらいけないの?


今、こんなに体も心もしんどいのに、「もう、これ以上しんどくてやれないよ!」って弱音を履いたらいけないの?


「わたしを殺す気?」って心の中で叫びたくなる時がある。


自分が今、一番何をすべきなのか、その優先順位がわからなくなる。


しかし、時間は過ぎていく。


しなければならいとい気持ちが先走りする。


心の中では、今するべきこと、そして、今現実の困難な悩みと先の見えない不安とやるべきことだらけで、やれないことのストレスなどが、入り乱れ、逡巡する。


今この現実を乗り越えなければならない。


気持ちは、焦る。


自分が今なすべきことを最優先させたいけど、今は、そんな場合ではないというもう一人の自分がいる。


今、すべきことに迷っては、躊躇する。

迷って、躊躇しながらでも、兎に角、目の前の山ほどあるなすべきことを片づけていかなければならない。



こんな時だからこそ、明るくならなければならない。



でも、あまりの現実の辛さに耐えられず、精神的に追い詰められ、無口になってしまい、涙が出てくる。


生きること。


それでも生きることを選択したわたし。


これが、生きる事なんだと納得しなければならない。


わたしが確かに生きている証なんだ。


時々、自分がうつ病にでもなるのではないかという不安。


そんなに今、自分は追い詰められているのだろうか?


人間というものは弱い。


いえ、私という人間が弱いのだろうか?


今の私。


父よ。


私は、今というこの現実をどこまで真正面から対峙して、自分らしく、頑張ることなく、確かな哲学に基づいて受け入れ、生きていけると思う?


おとうちゃん。

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頑張らなくていい、自分に「らしさ」を加える自己確立の哲学

わたしの姉は、いつも頑張る人。


現実を確かに生きることの出来る人。


わたしには、いつも姉が、毎日、毎日、今という瞬間を一生懸命に頑張って生きているように映る。


でも、姉は、

「私の性分なのよ」

と答える。


わたしには、その持って生まれた性格が羨ましい。


母の外交的なところと生き方の強さ、父の優しくて真面目さ。


父と母の良いところばかり。




その点、わたしは、


母の見栄っ張りでよく嘘をつくところ、父の気の弱さと内向的なところ。


父と母の悪いところばかり。



なんで、同じきょうだいでこんなに違うんだろうって思うことがあった。



「自分とはなんだろう?」


わたしの人生の大半は、こんなことを問い続ける人生でもあった。



こんなわたしは、姉と比較して、常に人生において現実を生きる上でのハンディキャップを感じてきた。


それは、私自身を否定する人生でもあった。


『コンプレックス』という言葉が、そのままわたし自身といっていいくらい。



桜梅桃李。


父は、いつもこの言葉が好きだった。


私を生きることの最上級な生き方。


わたし自身を生きる人生。


オンリーワン。



現実を生きることに対して心に感じるハンディーキャップ。


コンプレックス。


それらを克服するために回り道をしてきた人生。



もう、頑張ることから解放されたい。



頑張らなくていいんだよ。


姉の姿は、毎日を懸命に生きて頑張っている姿に映る。



でも、これが当たり前の姿なんだ。


頑張ろうとしなくていい。


頑張ることが当たり前なんだ。



だから、頑張ることは、頑張る事じゃあない。



「頑張ること」とは、


自分が現実を生きることに対して、大切な「らしさ」を味付けをすることなんだ。




「自分らしく生きる」ことの最上級を『桜梅桃李』と呼ぶ。




一人の人間が現実を確かに生きる自己確立の哲学。



『桜梅桃李』


父の大好きな言葉。


あなたは、今、「あなたらしい」生き方の最上級を懸命に闘っている。



わたしは、「あなたらしさ」の今というこの瞬間を心に刻む。


ありがとう。


おとうちゃん。



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【本因妙】:姉への感謝、家族の有難さを痛感した日

「私には、もうなんの後悔もないよ」


「精いっぱいお父ちゃんが、頑張っている姿を確かめることが出来たからね」


そう言って、わたしの姉は、自分の家族が暮らすオーストラリアへ向けて発った。


父が脳溢血で倒れて、すぐにアメリカから急遽、駆けつけてくれた。


アメリカには、オーストラリアから旅立ち、そこを働く地として選んだ自分の息子が暮らしている。


約3週間の予定で、子供の世話や働いている職場や旅行を楽しむはずだった。


しかし、アメリカでの姉と息子の親子の水入らずの3週間の予定の滞在も父が脳溢血で倒れたことによって、たった一日で帰らなければならなくなった。


そんな姉に対して、わたしは、申し訳ないと思った。


これまでの姉の苦労。


息子の念願がかなって夢のような企業へ就職できたこと。


その恩返しで、アメリカへ呼んでくれた子供。


3週間の姉にとって夢のような日々は、たった一日で終わってしまった。


でも、姉はそんなことに対する思いは、おくびにも出さない。


父に付添う姉の毎日の日々に変わった。


やること、出来る事は全部やった。


父の意識は戻らないまま。


わたしと姉は、父の病室で二人、たくさん話をした。


そして、泣いた。


姉に対する恩。


父に対する恩。


家族というものに対する有難さ。


最高の感謝。


それもこれも父が脳溢血で倒れたおかげ。


姉は、なんどもなんども眠ったままの父にいった。


「おとうちゃん、ありがとうね。」


「毎日、毎日、頑張ってくれてるね。」


「お父ちゃん!、おとうちゃん!」


なんどもなんども耳元で声をかけた。


「おとうちゃん、もっと、もっと、話したかったね。」


今年、5月には、オーストラリアから日本に帰ってきて、お父ちゃんたちのそばで暮らはずだった。



そして、一昨日、もう一人の子供であるオーストラリアで暮らす娘の大学の卒業式へ出席するために、帰っていった。


帰る日の前日、父の寝ている病室で、姉は、私に、


「精いっぱいのことはしたから、後悔はないよ」


「あとは、お父ちゃんの生命力を信じるだけだね」


そう、明るく力強く言った。


わたしは、ただ、ただ、姉に感謝の気持ちでいっぱいになった。


こんなに凄い姉が家族として側にいてくれたこと。


わたしは、本当に幸せだ。


お姉ちゃん、ありがとう・・・。


感謝の涙でいっぱいになった。


父は、今も毎日、自分の命と懸命に闘っている。


だから、私も負けない。


本因妙。








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こうなるように人生はできている:『人間万事塞翁が馬』

未明の早朝、救急車のサイレンの音が、だんだん近づいてきて止んだ。


しばらく音は、止まったままだ。


今、誰かが、救急車を必要としている。





あの時。


1月14日の土曜日。


父も同じように救急車で運ばれた。


脳溢血。


それ以来、父の時間は止まったまま。


それでも、前に進むしかない。


眠ったままの父の姿。


いや、父の時間は止まってなんていない。


今、止まった時間を進ませようとして必死で闘っているんだ。


懸命に闘っている。


父は、今、一生懸命に闘っている。


一生懸命に自分の命を繋ごうとして、呼吸をしている。


「お父ちゃん、苦しいね。」


「お父ちゃん、今、何が出来る?」


「今日もみんなが、お父ちゃんを応援してくれているよ。」



時々、お父ちゃんに対して、申し訳ない思いでいっぱいになる。


あの時、もっと、父にやさしくしてあげればよかった。


父を理解したいがために、父に強く言いすぎて、きっとお父ちゃんを苦しめたことだろうね。


父に、私をもっと理解してほしいがために、父と喧嘩したことを許してね。


ごめんね。


わたしは、もっと、もっと、あなたと話がしたかった。


あなたと、わたしが生きてきた過去をすべて清算して、和解したかった。


そして、わたしは父によって、救われたかった。



でも、今、こうして眠ったままの父と病室で心行くまで話ができる。



『人間万事塞翁が馬』


人生は、すべてこうなるようにできているんだね。



こうなったのも全部誰のせいでもない。


お父ちゃんは、きっと、わたしのことを許してくれるよね。


毎日、毎日、私は、お父ちゃんのお蔭で、成長させていただいている。


眠ったままの父。


今、真剣勝負なんだ。


奇跡が起きる事なんて、もう、考えたりしない。


奇跡を起こすことなんてことも考えない。


1日、1日、真剣勝負の闘い。


その結果を信じることだけ。


「お父ちゃん!


「今日も、頑張るからね!」


「ありがとうね」




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絶対に、あきらめないよ!

いつも帰る実家には、今、父の姿は無い。


いつもは、父が居るのに居ないみたいな、全く存在感の無い父。


とっても無口な父。


いつも本ばかり読んで、母から面倒くさそうに扱われていたけど・・・。


でも、あれで結構、仲良かったよね。



さっき、ネットでスカイプをしたけど、カメラに映る向こうに、父の姿が無いのが、やっぱり不思議に映った。


なんで、折角、元気になったはずの父が、居ないんだろう。


全く気の利いた言葉一つ言うことのない、無口で存在感の薄い父。



それなのに、そのフレームの中に居なければならない父。


今、居てほしい。


元気な姿でいてほしい。


父と母が、揃っていてほしい・・・。



そうか。


でも、やっぱり、父は、今、意識の無いまま、病院のベットに居るんだ。




昨日、口から酸素を送る管が外された。


今は、チューブで鼻から酸素を取り入れている。


お父ちゃん、今日も頑張っているね。


自分で呼吸することが少し難しくなった。



昨日は、しんどかっただろうね。



でも、頑張ってくれたんだね。



毎日、お父ちゃんのところへ通うよ。



お父ちゃんが、病室のベットで懸命に、「命」と闘っている。


自分自身と闘っている。


そう思うと、私だって、今という現実に負けてなんかいられない。


ありがとうね。


いつも元気をもらっている。


お父ちゃん、ありがとう。


お父ちゃんが、いつか必ず眠りから目を覚ますことをきっと信じてるから。


絶対に、あきらめないよね。


絶対に、あきらめないよ!


おとうちゃん!


今、己の生命に現実を生きるための確かな哲学を更に確立できる。


その瞬間(とき)。



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何も言わない父が、今、わたしに語る現実の姿

いくつになっても、親が生きている限り、私は子供。


わたしは、お父ちゃんの子供。


お父ちゃん。


自分は、いつになったら親より、親らしくなることが出来るんだろうね。


でも、こうしてお父ちゃんと呼んでいる私は、やっぱり、あなたの子供。


こうして病室で意識の無いまま寝ている父。


でも、今、懸命に自分の病と闘っている。


世界の誰よりも、今、一番頑張っているのは、私の父。


お父ちゃん!


何も言わない父。


口からは酸素を取り入れるための管が入っている。


眠ったままの父。


でも、今、父の気持ちが一番よくわかる。


一生懸命に子供の為に、人生を生きてきた父。



何も言わない父なのに、私には、父がこれまで私に言いたかったことがよくわかる。


こんな姿にならなければ、私には、父のことを理解することが出来なかった。


お父ちゃん、本当にごめんね。


親不孝なわたしを許してね。



明日も会いに行くよ。


お父ちゃんを信じているからね。


生きようとして懸命に闘っているお父ちゃんの姿から勇気が湧いてくる。


絶対に、どこまでも、奇跡を起こしてくれることを信じる。


そのために、わたしに出来る事をさせてね。


お父ちゃん。


今、苦しいね。


今、辛いね。


でも、今、生きようとしてくれてるんだね。



頑張っているんだね。


ありがとう。


また、明日。

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優しは力なり:「お父ちゃん、今日も行ってくるからね」

父は、いつも優しかった。

でも、その優しさだけの父が、物足りなかった。

父が嫌いだった。

父に反抗してきた。

父を憎んできた。

父と言い争ってきた。


なんとか父を理解したかった。

なんとか父に理解してもらいたかった。



結局、何もわかっていなかったのは、私自身だったのだ。


父の本当の優しさ。


父の本当の大きさ。


父の深い深い苦しみ。



お父ちゃん。



「優しは力なり」



お父ちゃんの本当の勇気。



わかったよ。


教えてくれてありがとう。



聞いてくれている?



ありがとう。


お父ちゃん、きっと、きっとね。


今日も、頑張っているお父ちゃんのお蔭で頑張れる私。


行ってくるね。




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父よ! お父ちゃん! ありがとう!

今、父は懸命に闘っている。


脳溢血で倒れた父。


折角、元気になったのに。


その矢先に、また、2度目の脳出血。


1月14日の土曜日。

わたしが、しばらく風邪を引いて寝込んでいて、やっと起き上がれるようになった。


そんな昼下がりに、母からの電話が鳴った。



お父ちゃんが、救急車で運ばれた。


すぐさま、私は担ぎ込まれた病院へ車を走らせた。


「また、倒れたのか・・・。」



お父ちゃん! 生きててね。



病院へ少し遅れて駆け付けた。



父は、検査を受けていた。



救急で運ばれた病院の椅子には、母と妹が、心配そうな顔して座っていた。


その日から、父の時間は止まった。



父よ!


父よ!



お父ちゃん!


わたしは、まだ、あなたとたくさん話をしたい。


まだ、まだ、あなたのことをもっと理解したかった。


まだ、まだ、私のことを理解してほしかった。


お父ちゃん!


絶対にこのままいかないで!


今、お父ちゃんにとっての試練。


今、お父ちゃんは、懸命に闘っている。


お父ちゃん!


わたしも負けない!


きっと、お父ちゃんをどこまでも信じるからね。


お父ちゃんの生命力をどこまでもどこまで疑わないからね。


頑張るからね。


毎日、毎日、お父ちゃんが闘っている姿を応援するからね。


今だね。


今しかないね。


もう、泣かないからね。


泣く暇があったら、お父ちゃんに負けないくらい、私も今というこの現実を、どこまでも戦いきるからね。



きっと、きっと。


信じてるよ。


お父ちゃん!




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一日、一日が勝負、負けない勇気

これからの毎日は、一日、一日が勝負。


負けられない。


自分の弱さとの戦い。


一日、一日が勝負。


絶対に、負けないからね。



絶対に、勝とうね。


一緒に、頑張るからね。


父へ。

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創価のだれよりも一番素晴らしいのは、母


今日の【名字の言】をご紹介します。

スロー・リーディングが注目されている。“本をゆっくり読むこと”を指す。速読術のノウハウが語られる風潮の中で、もう一度、読書の原点に立ち返ろうとする試み、とも言えようか。

読む速度によって本の印象は大きく変わる。仕事や研究で、多読・速読を余儀なくされることもある。ゆっくりページを繰ってこそ、気がつく珠玉の言葉もある。暮らしのかたちに合った、多様な読み方があっていい。

まことに至福の読書とは、読むリズムと理解の速度が呼吸・心拍とも連動した「本と心身とのアンサンブル」(山村修『増補 遅読のすすめ』ちくま文庫)に違いない。

私たちは〈身読〉という言葉を知っている。身で読む、すなわち学んだことを実践する、との意味である。日蓮大聖人は「他の人が法華経を読むのは口ばかりで、言葉の上だけでは読んでも、心では読まない。また、心で読んでも身で読まない」(御書1213ページ、通解)と仰せになった。ここには書物にふれることの“究極の輝き”“無限の可能性”がある。

読書の秋――良書をじっくり味わって、人生の糧としたい。本をめぐって語り合えば、人間の輪も大きく広がる。読書とは、孤独な時間ではない。人間世界の最高に尊い営みの一つである。(雄)

2011年 10月27日(木):【名字の言】より転載いたしました。



今日の名字の言いかがでしたか?


わたしの母は、本を読むわけではない。


何かを読まなければ、信仰というのは、深まらないのだろうか?

母は、実践の人。

母は、行動の人。


どんなに学会の書物をたくさん読んだって、どんなに御書の御文をたくさん知っていたって、そんなことなんて、ちっとも偉いなんて思わない。


わたしの母は、大した知識や教養があるわけではない。


しかし、わたしの母、創価の誰よりも偉大な人。


わたしが、私の人生で一番尊敬できる人。


母は、実践の人。

母は、行動の人。


草創期から、母は、創価の為に、彼女の生き方すべてを捧げてきたのだ。


母こそが、創価の功労者なのだ。

無冠の功労者。


だからこそ、母は素晴らしい。


創価の誰よりもすばらしい。


母へ。



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【名字の言】:傷だらけの絆の確かさと深さ知る



 「聖教新聞で文字を学びました」。東京・日野の男子部員が語ってくれた。中学卒業後、職人の道に。転機は24歳。妻に導かれ入会。同志は信心と生活全般のアドバイスをしてくれた。

漢字が苦手。文章が読めない。悩みを吐露すると本紙コラム欄を書き写すように勧められた。毎日、書き写し音読。分からない言葉は辞書を引き、調べた。3年余り続いた挑戦。苦手意識は消え、今では池田名誉会長の書籍を貪り読むまでに。世界観が広がる喜びを知った。

今年6月末、愛妻が急逝。幼い一人娘を案じ、悲しみのどん底に沈んだ。窮状を知った同志が、すぐさま駆けつけた。未明に遠方から来た人も。交わした言葉は覚えていない。ただ明け方まで付き添ってくれた。その最中、名誉会長から愛娘に真心の伝言が届いた。心の暗雲のすき間から、希望が見えた。報恩の行動が、妻への最大の回向と奮起。先日、友人に弘教を実らせた。

作家サン=テグジュペリは言う。「ともに生きた多くの困難な時間、多くの仲たがい、和解、感動、これらの宝物に及ぶものはなにもない」(『人間の大地』山崎庸一郎訳)。

絶望から希望を創り出した蘇生のドラマ。悲しみも喜びも分かち合う同志の絆。それ以上の人生の宝はない。(集)

2011年 10月18日(火):【名字の言】より転載いたしました。




名字の言』いかがでしたか?


本当の人間の絆というのは、優しさだけで結ばれているのじゃあない。

わたしの心の中で常に結ばれている大切な人。

大切な家族。

これまで、互いに傷つけあった。

恨んだ。

憎んだ。

罵り合った。

遠く遠く離れた。

絆。

その糸は、ボロボロでも、決して切れることは無かった。

絆の意図。

目には見えない心の絆の糸は、絶対に切ることはできない。

それは、私の中に確かな絆の存在を証明する確かな証があるから。

傷だらけの絆。

でも、その絆の太さは、この世のどんな太さにも例えることはできない。

深いんだよね。

絆は太さでたとえるもんじゃあないね。

深さだね。

傷だらけの絆のその確かさと深さ知る。

妙法。

桜梅桃李に今を生きる。




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大変な時こそ桜梅桃李を確立する時

ありがとうございます。

生きることも死ぬ事も何も変わらない。

そんな自己確立。病に倒れた父。

そこにいるのは人間。

人間だから病に倒れ、生死の世界をさ迷う。

現実はとても厳しい状況であるけれど無我の境地を獲得するための自己確立に至る仏心を引き出すための試練であり、大きな変化を獲得するためのチャンスなのだとも言える。

私の父にとって大変な時。そして、私と、私の家族にとっても大変な時。

大変という文字は、「大きく変わる」と書きます。

今、私達が、父が脳卒中という病に倒れた事によって大きく変わることの出来る転機を迎えているのだと感じています。

それぞれの自己確立を目指すための信心の道。

私にとって、今というこの大変な時が、大きく変わることの出来る今が一番、大切で大事な時だと感じています。



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近くて遠い人に贈る、報恩感謝の人生:母へ


私のお願いを聞いてくれるのは、私のことを、心から心配してくれるのは、そこに確かな、目に見えない慈悲と信頼があるから。

心の無い、利害関係なんかじゃない。

これまでの私の人生、常に、人の好意を、当たり前のごとく、無にして、踏みにじり、受けた「恩」に対する「感謝」を、置き忘れてきた人生。

己の人生、己の力のみで、生きて来たかのようにお金と物だけで、人生を築きあげようとしてきた、傲慢な人生。

そして、地に落ちた傲慢な人間が、困った時に「助けてくれ!」と泣き叫んでみても、誰が私のことなど、助けてくれようか。

そして、それを逆恨みして、助けてくれない相手を、血も涙も無い、心の無い人間のように、鬼と呼び、人を、社会を、非難し、恨んできた。

愚か者。

愚か者の行き着く先は、地獄。

その地獄は、世の中の現実の「生き地獄」と、己の中の生命の「生き地獄」だ。

この両方の地獄を味わうことになるのだ。

己の中の、地獄を見なければならない、いや、見せられる必然性。

「宿命」「宿業」

「その地獄の決定的なのものは、何か?!」

「死」

この世での「死」である。

生きながらの「死」である。

「死ぬも地獄、生きるもの地獄」というけれど、私には、「死ぬ地獄」の方が、まだ、天国に近いような気がする。

「生きながら地獄」を味わうこと程、地獄の最上級は、無いのかもしれません。

己を助けてくれない人を、社会を、非難し、恨んできた人生。

『あなたに罪はないの?』

「全部、親のせいだ!世の中のせいだ!」

『あなたに罪はないの?』

「一生懸命に、私だって生きてきた。」

『あなたに罪はないの?』

「私の罪なのか?」

そうだ、私の罪なのだ。

大切なのものを『気がつくことの出来なかった」

私の愚か者の、生き方の結果なのだ。

全部、「身から出た錆」なのだ。

原因と結果。

確かな方程式なる、哲学の基に、かすかな「光」が、命に射しだすことによって、少しずつ目覚めさせられた、答えと確信。

その「光」を私に向けてくれたのは、

その「光」を与えてくれたのは、

手を差し伸べてくれたのは、私が、この哲学から、己が逃げる原因になった、最も近くいる人であった。

なんという、「因果の理法」であろう。

結局は、回りまわって、同じところに戻ってきたのだ!

結局は、地獄を見て、尚も、地獄にいる私にとって、また再び、最初の場所に戻ってきたことの意味。

生きて、この哲学を、再び、今度は、命に刻めることの意味。

己の「宿命」「宿業」の深さをまざまざと沁みこませて。

どん底の人生を歩んだものの人生の行き着く先は、「死」か「生」の極限のどちらかの選択。

「天国」と「地獄」のどちらかに突き進む最後の選択。

選択の瞬間、己の地獄で出会った、命の明かりが灯された瞬間。

見えるものを見えるものとして、当たり前にしか生きてこなかった人生。

見えないものの中にこそ、本当の確かさ、温かさと価値と真実がある。

そのことを、ほんの少しの開かれた命で感じ取れたわたしにとって、「生きながらの地獄」の己を、己の生命の力で、この世に明かりを灯し、今を生きる力になっているわけです。

生まれながらに、目に見えないものを、感じ取れ、学べて、確かな人生を生きる知恵に、変えることが出来る人は、幸福かも知れません。

私には、そんな大切な宝を私の中に見つけることが出来なかった。

でも、こうして、私の中にも大切な「宝の原石」が、こんな私にも、あるのだということを確信できる力を与えてくれたのは、

この哲学のお陰であり、この哲学を与え、そして、貫いてきた、最も信仰者として、尊い姿として私に映る、私を守り続けてくれた人。

一番近くにいながら、一番遠かった、その人なのです。

「灯台下暗し」

目の前に転がっている、「宝石の原石」に、気がつけぬ、己のなんと間抜けなこと。

愚か者の人生。

しかし、「最も意味のある人生の一部」であったと、

この世に、2度目のチャンスを与えられたことの感謝と共に、そう、いえる人生でありたい。

今の私には、、確かな方向を指す、灯りがある。

私にとって、全てに報いてゆく、「報恩感謝」の人生の為に。

妙法。

桜梅桃李の人生。

今を生きる。



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