「名字の言」について


 【名字の言】

「名字の言」は聖教新聞のコラムです。

人間が生きる社会の本質を、生命の哲学に基づいて見極めていくための、珠玉の言葉が散りばめられてある「名字の言」。

「名字の言」は人生を確かに生きる幸せのひとしずくを心から生命に響かてくれる人生のエッセンスです。

仏法の視点から、さまざまな社会事象の本質を見極めていく、聖教新聞の代表的なコラム「名字の言」。「名字の言」は、聖教新聞のTOPページに長期に渡り掲載されているコラムです。

「聖教新聞」が創刊された1951年(昭和26年)の翌年から『名字の言』の連載は始まりました。

タイトルの「名字」は、法華経を修行する人の位を、6つに分けた中の一つ「名字即(みょうじそく)」を意味します。

「名字即」とは、仏法を学び、信仰に励む法華経の修行者のことです。

確かな哲学を求め、人生を生き抜く為に前向きに生きる人のもこの「名字即」の位に位置するのです。

この「名字即」を、私たちが自覚し、生命の底から目覚めることによって、私たちの中に、本来、誰もがあわせ持つ仏の生命、境涯を開いてゆくことが出来るのです。

『名字の言』のタイトルには、「妙法」という「日蓮大聖人」の仏法哲学を根本に、世の中の、様々な事象と、人間の幸福の本質を明らかにして行こうとする意義が込められています。

私にとって『名字の言』は、このブログのタイトルである生命の絶対的な幸福へ近づける『ひとしずく』のヒントを感じることの出来る人生を生きる為のエッセンスです。


人間の機関紙である「聖教新聞」の中にちりばめられた人生を前向きに生きる、全てを前向きに変えることが出来る、力強い言葉の数々。生きた言葉が、自身の心を動かし、自身を変えることの出来る生命に届く。

「聖教新聞」は、人間が、より人間らしく生きるための、生命に配達される新聞です。

毎朝の『名字の言』の記事は、今日一日の元気の源になるはずです。

いつも、新鮮な情報で、心の気づきと生きる力を届けてくれます。人間の機関紙「聖教新聞」は、インターネットの公式サイトSEIKYO online 聖教新聞社(創価学会の機関紙)からも配信されています。

現在、「名字の言」の転載は行っておりません(2010/02)。

聖教新聞のホームページよりご覧くださいませ。



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ただ今臨終:一味違う人生の醍醐味っていうのを楽しむ


秋のシーズンは、「味覚の秋」とも言われます。

美味しい物には、美味しいわけがある。

なんで、あんな渋い柿が、甘くなるのか。

昨日、その地方の美味しい特産物をつかって料理を作る番組があった。

渋柿を干すと渋みが抜けて、甘くなる。

甘い柿を干しても、更に美味しい柿になるわけではない。

美味しいものって、簡単なようなで簡単に作れない。

味わい深い美味しさって言うのは、一言で言えば「うまい!」なんだけど、その言葉の中には、たくさんの美味しさを表現する言葉が、隠されている。

人間の味っていうのも、人間社会の中で生きてゆく人生を重ねるごとに、酸いも甘いも、苦いもしょっぱいも味という味を全部体験して来た人は、やっぱり一味違う。

私達の哲学は、一味違う人生の醍醐味っていうのを楽しむために、苦労を苦労と厭わずに現実を生きている今というこの瞬間を、一生懸命に生きる哲学。

「ただ今臨終」の精神。

【名字の言】:2011年 11月6日(日)

 「柿むく手 母のごとくに 柿をむく」(西東三鬼)。たわわに実った秋の味覚に、母と過ごした郷里を思い出す人も多かろう。

渋柿は渋味が強く、とても食べられない。タンニンと呼ばれる成分のためだ。だが柿を日光に触れさせたり、ヘタの部分を焼酎につけて寝かすことで、タンニンの渋味が抑えられ、おいしく味わうことができる。「渋味」を「甘味」に――「苦」を「楽」に転じゆく人生のドラマに重ねたくもなる。

岩手・釜石市に“地域のお母さん”と親われる友がいる。89歳。これまで実った弘教は100世帯を超える。米も買えないほどの経済苦、長女の末期がんも、全て信心根本に乗り越えてきた。だが今回の津波は、自宅も、50年以上経営してきた飲食店も一瞬で奪った。

それでも婦人はほほ笑む。「苦労したから強くなれたし、折伏もできた。幸せですよ。信心のおかげ。次の目標? 震災を乗り越えて、信心の力を証明すること」。仮設住宅に住みながら、訪れる友に仏法を語る日々だ。

「苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ」(御書1143ページ)。苦も楽も味わってこそ、人の喜び悲しみが分かる。信仰の偉大さは、そこにある。「渋」が「甘」に変わる日が必ず来る。(之)




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信仰とは、慰めの道具ではない



『信仰とは、慰めの道具ではない。現実生活で勝つためにある。

「信心即生活」に日蓮仏法の真髄がある』



宗教は、わたしの信仰の道具であってよい。

しかし、宗教は、信仰者の信心、信仰心を道具にしてはいけない。

「女心と秋の空」

「秋に三日の晴れ間無し」

なんてことを言う。

「秋ナスは嫁に食わすな」

そんなことは関係ナスか…

ここ数日、日中の気温が高くなった。

でも、朝晩の気温は、すっかりと低くなった。

こんな気温の差がある時には、体調も崩しやすい。

風邪などひかぬ様にせねば・・・。

桜梅桃李。

今を生きる。


今日の【名字の言】:2011年 10月13日(木)

体調を崩しやすい季節の変わり目。体が熱っぽかったり、だるさを感じたりしたら、早めに具体的な処置を施し、万全を期したい。

誰もが無縁であることを願う「痛み」「発熱」「疲労」にも意味がある。これらは体が異常を感知して警告を発し、防御を指令するメカニズムだ。この「3大生体アラーム」が働くおかげで、大事に至らず健康を管理することができる。

仕事をはじめ、生活上の小さなトラブルやミスも、一種の「アラーム」と捉えることができよう。それは大きなトラブルの前兆である場合がある。「さきざきよりも百千万億倍・御用心あるべし」(御書1169ページ)と。あいまいなまま放置せず、原因を突き止め、再発防止策を取ることで、未来に待ち構える“落とし穴”を埋めることができる。

完璧な人間などいない。身体の変調も、仕事や日常生活での失敗も、万人につきもの。肝心なのは、それを自身への戒めとし、向上への糧とする“心のアンテナ”を張っているかどうか。

「智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり」(同1466ページ)。信仰とは、慰めの道具ではない。現実生活で勝つためにある。「信心即生活」に日蓮仏法の真髄がある。 (明)




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人間の世界に平和はあるのか?


「継続は力なり」ともいいます。

これほどまで長く新聞小説『人間革命』『新・人間革命』の連載記録を更新し続けてこられた原点は何なのかということが、理解できるような気がします。

人生の大偉業である人間革命とは?

その目的とは?

それは、どこまでも、たった、ひとりの中に存在する。

人間の世界の平和の実現。

それは可能か不可能かを問う人間には、絶対に不可能なことなのだ。

一人ひとり。

不可能を可能にするための哲学を、毎日、毎日、己が生きる上での現実である、今というこの瞬間に、刻み続けること以外ありえない。

道は開かれるのか?

道は閉ざされるのか?


開くのも、閉ざすのも、すべては、一人ひとりの人間の現実を生きる姿によって決まる。


2011年 7月4日:今日の【名字の言】

 山岡荘八氏の『徳川家康』は、長く新聞小説の連載回数日本一であった(4725回)。その記録を更新しているのが、池田名誉会長の『人間革命』『新・人間革命』。6月27日で計6182回となった。

新聞連載という激務と格闘し、多くの読者に愛されてきた二人には、いくつかの接点がある。名誉会長が編集に携わった雑誌『少年日本』。21歳の若き編集長の熱意に応じて、山岡氏は創刊号に「紅顔三剣士」を綴った。かつて本紙にも「高杉晋作」を連載している。

『徳川家康』(講談社)の第1巻のあとがき(昭和28年)に、注目すべき山岡氏の言葉があった。戦争の悲惨さを目の当たりにした氏は問いを投げかける。「人間の世界に、果して、万人の求めてやまない平和があり得るや否や」。

そして、その問いに自ら答えた。「新しい哲学によって人間革命がなしとげられ、その革命された人間によって社会や政治や経済が、改められたときにはじめて原子科学は『平和』な次代の人類の文化財に変ってゆく」。

人間革命こそ平和社会への根本の道――この時すでに名誉会長は、そのための行動を開始していた。平和と幸福を育む確かな民衆運動が大河のように広がっていった。壮大なる師の足跡に感謝し、後に続きたい。(和)


【聖教新聞】今日の「名字の言」より転載いたしました。



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未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ


2009年08月30日:今日の「名字の言」

大変だと思ったことが、後から振り返ればたいしたことでない場合がある。反対に過去を振り返った時、その時は気付かなかった重大な変化を発見することがある――。この「時間の遠近法」を用いて研究を進めたのが、歴史学者のトインビー博士だ。

博士は“未来の歴史家が現代をどう位置づけるか”という観点に立って考察した(『試練に立つ文明』社会思想社)。今日という日が、どれほど大切な日であるか。それは“未来の視点”から眺めるとより鮮明になるものだ。

仏典には「未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(御書231ページ)と。未来を開く「今」の重要性を強調している。

かつて池田名誉会長は、「今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり」(同1451ページ)の御聖訓を拝して語った。「『今この時』に、死力を尽くして悔いなく戦い切ることだ。その名が、後世に『広宣流布の闘士の鑑』として輝いていくのである」と。

今日を悔いなく戦い切る。今できることはすべて成し遂げる。「私はやり切った!」と、すがすがしく大満足の万歳を叫べる人こそが人生の勝利者だ。私たちは歴史の傍観者であるよりも、時々刻々、自らの手で時代を創造していく「開拓者」でありたい。(糀)



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高い目標を達成するには、自身の境涯を高めるしかない



「人生の総仕上げ」という時に、その総仕上げをする為の正しい基礎と力となる確かな哲学が備わっていなければ、悲しいかな、己の集大成という満足に生き切ることの出来る報恩感謝の人生を残すことは難しいであろう。

未熟な人間の生きることの苦難を乗り越える過程は、集大成に近づくことが可能になる生命を創ることが出来る。

確実に死に向かう人間の最終章で、後悔、醜態をさらす人生は歩みたくないものだ。

この世は、一回きり。この世を満足に生きた完全燃焼の笑顔で死にたい。

この世の現実の垢を溜め込んで、全てに打ちのめされてクタクタになった壮年達よ。

ただの「おっさん」にならないで!

「壮年部の日」は、人生の最終章のスパートをきれるパワーと、心と生命の中に「青年」を取り戻す日。

2009年08月24日:今日の「名字の言」

仙台市の晩翠草堂を訪ねた。詩人・土井晩翠(どい ばんすい)が晩年を過ごした建物で、現在は資料館になっている。晩翠が生前使用したベッドも現存。枕元の高さに目線を置くと、窓の外に、緑の庭が見えた。

「晩翠」とは、冬枯れの時、なお草木が緑色であるとの意(広辞苑)。晩翠の筆名も「冬になっても木々の緑は変わらず、その成熟はじっくりと訪れる」との意味の漢詩の一節に由来する。冬に耐え、じっくり成熟する――東北の壮年部員の姿を思い起こした。

「人の役に立つ研究者になりたい」と20歳で入会。大学教員になるも研究成果が出ない。それでも諦めることなく、信心根本に精進を重ねた。苦節の末、博士号を取得。国立大学の教授に。近年、開発した新技術を世界が注目するまでに。人生の冬を勝ち越え、見事な勝利の花を開かせた。

振り返ってみると、「苦しいときこそ、学会活動に励んだ」という。高い目標を達成するには、自身の境涯を高めるしかない。これが学術者である彼の信念でもあったからだ。

きょう24日は「壮年部の日」。人生も広宣流布の闘争も、総仕上げが最も大事だ。豊富な経験と熟成した人格。壮年部の友ならではの力闘を期待したい。壮年こそ広宣流布の勝敗を決する最終ランナーだ!(城)

※記事内の太字は当方の判断で修飾されたものであり原文にはありません。





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絶対的な自己の確立:付和雷同の世相に流されない生命(自己)


民衆一人一人が力を持つ民衆主役

進取の気性

平等・公平を基本に、民衆と同じ目線に立つことの出来る人間とその社会が、世の中の繁栄を築いてゆける理想。

その理想を実現するために、社会の発展を左右するのは、一人ひとりの世の中を見極めていく、付和雷同の世相に流されない主体性。

そこに求められているは、その力を養う為の確かなものを求める心。

常に、人間としての学びと、気づける習慣を養うための謙虚な、勇気ある行動力を持つ者。

「進取の気性」。


2009年8月23日:今日の「名字の言」

戦国時代。堺は、世界的都市として、見事な発展を遂げていた。町を訪れた外国人宣教師は「堺の町より安全なる所なし」「町は甚だ堅固」「此町は(イタリアの)ベニス市の如し」と絶賛した。

その繁栄の因は何か? 強大な権力を持つ領主ではなく、町人たちが合議で町を運営していたから。いわば、民衆を基盤としたからこそ堺の繁栄はあったのだ。

だが黄金の日々は、長くは続かなかった。織田信長は重税を課し、豊臣秀吉は町にめぐらされた壕を埋め、合戦の際に放たれた火によって、町は焼き尽くされてしまった。

堺市は現在、大阪府で2番目の政令指定都市となっている。堺空襲など大きな惨禍にも見舞われたが、不死鳥のように蘇ってきた。町の発展の原動力は、今も民衆のエネルギーであり自治の精神、進取の気性であろう。広布の戦いにあってもそれは変わらない。関西広布史の中にあって、新時代はいつも堺から開かれてきた。

御書には「当世は世みだれて民の力よわし」(1595ページ)と。「民の力」を強めていく行動こそ、日蓮仏法の命脈である。その精神を継ぎ、今こそ我ら創価の連帯で、民衆一人一人が力を持つ民衆主役の時代を築きたい。そこに、それぞれの地域の偉大な発展もある。(立)





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アリとキリギリス怠け者の明日があるさという楽観主義


夏休みの宿題といえば、長い40日間の休みも終わってみれば、あっという間。

学校から出された宿題も、明日やれば大丈夫。

まだ、大丈夫。残りの1週間で全部出来る。

なんて思いながら、気がついてみれば、3日前に「半泣き」状態になりながらため込んだ宿題を必至でやった記憶が蘇ります。

まるでイソップ物語の「アリとキリギリス」。

今日やることを、明日に持ち越さない。今日出来ることは今日実行する。

今日、すべきことが出来ない者に、明日すべきことが出来るはずが無い。

「明日があるさ」という怠け者の「楽観主義」を名乗る人間に、「明日」は、やって来ない。

「明日」を創るのは、「今」、この瞬間。


2009年8月11日:今日の「名字の言」

子どもたちの遊ぶ元気な声が、窓の外から聞こえてくる。夏休みも真っ盛りだ。夏休みと言えば、小学生のころの日記の宿題を思い出す。毎日の出来事を記していく作業は大変だったが、当時の日記を押し入れから引っ張り出してみると、楽しかった思い出がよみがえってくる。

大分のある支部には、有志が20年前から一日も欠かさず、リレーで綴ってきたノートがある。その日の担当者が、地域の発展と友の幸福を真剣に祈る。そして、活動の模様や決意をノートに書き、翌日の担当者に渡す。まさに“広布の日記”だ。

現在、21冊目。そこには、弘教が実った感想や、池田名誉会長を大分に迎えたうれしさなど、同志の黄金の思い出が記されている。読み返してみて、師と共に広布の拡大にまい進する日々が、どれほど幸せで充実した歴史か、あらためて感じた。

御聖訓には、「須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき」(御書467ページ)と。妙法を唱え、弘める実践こそ、人生最高の思い出であると断言されている。

暑さにも負けず、大いなる勝利に向かって、日々、地道に対話を広げる創価の友。その一日一日、一瞬一瞬の積み重ねが、後世に誇る偉大な歴史となる。(正)




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確かな哲学によって不動の生命を創る


人間が生きることにおいて、危機に直面した時に、「君子もむろん窮することはある。しかし小人は窮すると乱れるものだ。君子は乱れない」という。

不動の生命で、精神と心を律することの出来る哲学。

心の迷いを迷いのない生命で律する妙法。

妙法。

桜梅桃李の人生。

今を生きる。


2009年8月7日:今日の「名字の言」

孔子の亡命の旅は、14年の長きにわたる。陳と蔡の国境付近で、一行は餓死の危難に見舞われた。弟子の一人、子路は、なかば憤りつつ、師に尋ねた。「君子も窮することがありますか」。

師は毅然として答えた。「君子固より窮す、小人窮すれば斯に濫る」(=君子もむろん窮することはある。しかし小人は窮すると乱れるものだ。君子は乱れない)。

そのときの情景を、井上靖の作品『孔子』は、こう描く。――大きな感動が弟子を包んだ。もうこれでいい、かくも毅然たる師の言葉を聞いた以上は、飢えてもかまわない。そもそも栄誉栄達が何であろう。師と共に耐え抜いた日々を持てたこと、それこそが最高の喜びなのだ

後年、孔子は語っている。「我に陳・蔡に従える者は、皆門に及ばざるなり」(=私に従って陳・蔡の危難にあった弟子は皆、出世の機会を逃してしまったね)と。弟子を思う師の心が、熱く伝わってくる。
このころ(前6~4世紀)、世界にはソクラテスやブッダも生まれ出た。哲学者・ヤスパースが「枢軸時代」と呼んだゆえんである。まさに、人類史に「師弟」という、新しい人間関係が誕生した世紀であった。

師と共に、歩み、戦う――。そこに人間としての証しと、真実の凱歌がある。(裕)
【聖教新聞】 「名字の言」より





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戦争:人間の愚かさの象徴


人間の愚かさの象徴とは、畜生のごとき生命で対立する人間と人間が殺しあう戦争のことであろう。

その、愚の骨頂ともいうべき発明が、核兵器という存在であろう。人を殺す道具としての核の存在。

人類の未来と地球の存続の平和為に核が利用されるためにの核兵器は必要悪の存在。

その武器を使用する悪魔の領域と神の領域を行き来する人間の魂とは。

人間の中に棲む悪魔を知っている者、核兵器の恐ろしさを身をもって体験した者は、その核兵器の開発、使用する者達に向かって断固宣言しなければならないのだ。

世界の平和を願う全ての団体の一人、ひとりが声を出して、立ち上がらねばらない。


参考:[PDF]原水爆禁止宣言について

2009年8月6日:今日の「名字の言」

原爆投下から64年。核廃絶を願う広島、長崎の心は国際情勢の中で、希望と落胆の間を揺れ動いてきた。

しかし、原爆使用の道義的責任を認め、「核兵器なき世界」を目指すオバマ米大統領の登場で、光が見えてきた。核廃絶こそ現実的選択とする主張は、核保有国でも徐々に広がっている。それでも、広島、長崎に起きた「現実」を直視することには、いまだに根強い抵抗があるようだ。

SGIは今年、被爆者の証言を5カ国語でまとめたDVDを制作し、インターネットで全世界に公開した。証言を聞き、取材経験からも感じることだが、被爆者の方々の思いは、原爆の責任追及より、二度と悲劇を繰り返してはならないという点に向けられてきた。日本人である前に「人間」として、核兵器を拒絶している。

「ノーモア核兵器」の声に浴びせられる、侵略した報いとの“因果応報論”。戦争を終わらせるためだったとの“必要悪論”。それらの壁を乗り越えるには、核兵器を生命の次元から断罪する思想が不可欠だ。まさに戸田第2代会長の原水爆禁止宣言の着眼点である。

現在、全国の被爆者の平均年齢は約76歳。あの惨禍を体験した人々が存命のうちに、廃絶への道を確かにしたい。好機を逃してはならない。(飛)



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この世では問い続けても問わなくても無の世界

人間が、問い続けるということは生きることの本能。

死ぬまでのゴールへ己の足を運ばせてくれる人間に与えられた本能。

人間が、人間らしさのゴールへ進めないのは、この必要な本能を見誤らせ、混乱させ、退化させる社会に同化してしまう弱さと愚かさからだ。

人間というものは己に問い続けぬ限り「無」。

また、問い続けなくても「無」。

結局、この世では、「無」なのだ。

死の流転。生の流転。

人間が、人間らしく最上級に生き、人に近づける方法は、答えの無い現実の世界に答えを求め、「信じること」に足る哲学を己の生命に宿し、更に、問い続けることの先に、死というゴールに辿り着くことに集約される。


2009年8月4日の今日の「名字の言」

宇宙飛行士の若田光一さんが、日本人初となる宇宙での長期滞在を無事終えた。トラブルを乗り越え、実験棟「きぼう」を完成させるなど、日本の宇宙開発に新たな歴史を刻む活躍に心から拍手を送りたい。

若田さんが4カ月半を過ごした国際宇宙ステーションは“ミニ地球”と呼ばれる。太陽エネルギーから電力をつくり、尿や空気中の水蒸気を飲料水に再生。その水を分解して酸素を発生させる一方、吸着剤などを使って二酸化炭素を除いている。

宇宙では、このうちのどれ一つが欠けても、安全に生活できない。宇宙に“ミニ地球”をつくることは、「不可能への挑戦」の連続だったにちがいない。人類初の女性宇宙飛行士、テレシコワさんは「人間は、ひとたび何かを心の底からやりとげようと思い、この夢に向かって全身全霊でぶつかっていけば、必ず実現できる」と述べている。地球の恵みを実現できたのも、同じ夢を追う多くの人々の、あくなき挑戦への情熱があったればこそであろう。

かつて池田名誉会長は、日蓮大聖人の仏法を信ずる人を「生命の宇宙飛行士」と呼んだ。人間の“内なる宇宙”を開拓し、胸中に確かな「きぼう」を築きゆく。このロマンあふれる挑戦こそが、広宣流布の大偉業だ。(孜)

【聖教新聞】 「名字の言」より





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一は万が母:【名字の言】


「名字の言」:2009年7月6日

視力障害のある関西の婦人部員が先日、東京を訪れた。一人の友人に仏法の哲学を語るために。広宣流布へ労苦を惜しまぬ尊き姿に最敬礼。

婦人は生後、数カ月で失明した。しかし、競泳の選手やボランティアなども務める無類の頑張り屋。そんな彼女の転機となったのは、高校時代の同級生が命に及ぶ難病に襲われた時。何もしてあげられない無力さに苦しんだ。その時、ある親友から聞いていた題目を唱えた。すると時が符合するかのように、同級生は一命を取り留めた。

何ができなくとも、一人のために祈ることができる。それがどれほど素晴らしいことか。それを知った彼女は本格的に信仰の道を歩み始めた。一人のために祈り、一人のために語る。そこにこそ真実の仏道修行がある。「一人のためであっても、たとえ一句であっても、法華経を説く人は、仏の使いである」と法華経には仰せだ。

あの1万1111世帯の弘教を成し遂げた昭和31年の「大阪の戦い」。指揮を執った池田室長が最初に関西の幹部に語ったのは、「会員の一人一人を大切にしてください」であった。「一は万が母」(御書498ページ)である。眼前の一人に全力を。一人の心を揺り動かす対話を。その執念の連続闘争から歴史が開かれる。(進)
【聖教新聞】 「名字の言」より



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初志貫徹によって不屈の力を得る


理想と、決めた目標に対して、己が進む前に立ちはだかる壁やハードルを越えようとする瞬間、もがき苦しんでいる時に、湧き起こってくる己の弱さと、生命に映る宿命、その限りのない深さ。

その弱さと宿命の深さに耐え切れずに、生命の傾向性から現実から逃げようとする瞬間、心の中に、過去の消えない恨みつらみと憎しみが充満してくる。

その瞬間こそ、いまだに消すことの出来ないその恨みつらみと憎しみを己の生命の中で、この妙法哲学によって戦いを挑むことによって、己の中の精神の確立、不撓不屈の精神へ近づける。

2009年7月5日の今日の「名字の言」

中日友好協会の黄世明副会長に、話を聞いたことがある。「どんな困難な時も、初志を貫くことができたのは、“人民のため”との思いがあったからです」。

周恩来総理やトウ<登におおざと>小平氏ら歴代指導者の通訳を務めた黄副会長。がんも2度患った。最初の時は、周総理が自ら病院に手配を。二十数年後の再発時には、池田名誉会長から励ましの和歌を頂いた――と感激を露わに。

「私は、50年近く、中日友好に取り組んできた。何の悔いもない……今度は、若い皆さんに託したい。友好交流を深めてほしい」。亡くなる前年のことだった。

初志を貫徹することは難しい。壁にぶつかると、できない理由を並べたくなる。だが、それでは、自身の負けだ。目標を成し遂げるには、“何のため”との一点を心に赤々と燃やすことである。

たった一人の挑戦でも、劇的な変化をもたらすことがある。アメリカの大実業家アーマンド・ハマー氏の座右の銘は、「初志を貫き通すならば、一人の人間が状況を変えることができる」だった。

黄副会長は、こうも語っていた。「私は、力をつけるため、若い時から、たくさんの本を読みました。皆さんは幸せですね。池田先生の著作やスピーチから、不屈の力を得ることができるのですから」と。(葉)





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執念で困難に挑み勝つ


自ら進んで崖っぷちに立てるのか?

全ての戦いは、己の中の無明の明かりを照らす為。

己の中の信仰心を更に高め開く為。

己がこの宗教を選んだのには、意味がある。

それは、己の中に自由を確立するため。

人間は、崖っぷちに立たされることで、己の生命の中に何かが光始める。

確かな哲学と信仰の石が、私の生命の中で、輝き始める。

そして、生きるという執念に、到着した時に初めて、その扉は開かれる。


2009年7月4日の今日の「名字の言」

「学会っ子は、北風に向かって戦おう!」35年前の12月、池田名誉会長は東京・新目黒会館を訪問。居合わせ学生部の友を激励し、「冬の目黒グループ」と命名した。

その一人が、述懐している。「池田先生の指導は、『困難に挑み勝ち行け!』との万感のメッセージだと思いました。だからこそ、どんな激戦も勇んで戦い、勝利してきました。」同グループの友は現在、学術会、実業界など、各界で活躍している。

公宣流布の歩みは、数々の艱難を勝ち越えてきた歴史でもある。戸田第二代会長は、常に、公布の主戦場へ、最も大変なところへ、愛弟子の名誉会長を派遣した。事業の苦境も、権力の闘争も、公布の拡大も、師と弟子の「不二の闘争」で突破口を開いてきた。

名誉会長は綴っている。「本物の師匠に、私は本物の弟子としてお使えしぬいた。公宣流布の御構想を実現する為、執念、また、執念で全魂を尽くしました」(「御書と弟子」)。弟子の激闘合ってこそ師の勝利だった。

「激戦あるところに、必ず私たちは身を置く」(ユゴー)公布の戦線で勝利をもぎ取る。師匠の期待に応えて断じて勝つ。どんな難局も必ず打開する。この誓い通りに結果を出す人こそ「本物の弟子である」。(薬)



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勝負は峻厳!一瞬で決まる


「攻めて攻めて攻め抜いて、押して押して押し切って、戦って戦って戦い抜いた時に、はじめて、栄光の旭日が昇る。勝利の旭光が輝く」己の弱い心を攻めて、押し切って、戦って、己の生命の中に勝利の旭光が輝く!

己の勝負は、今、この瞬間!弱い生命の中に、姿と形を変えて忍び寄ってくる魔との戦いなのだ。魔を魔と打ち破ることの出来る生命を維持することこそ峻厳なる己の宿命の深さを現実にさらされることによって勝ち取ることが出来る。己自身の真実の姿を映し出すことが出来る。

地獄も天国も己の中に一瞬で入れ替わる、人間の生命の怖さ。全ては一瞬、今。


今日の名字の言:2009年7月3日

実力が拮抗した競り合いを制するには?――「攻めの気持ちを貫いたほうが勝ちます」と柔道の元全日本男子監督・斉藤仁氏は語っている(「第三文明」8月号)。

2006年の全日本柔道選手権。アテネ五輪で「金」の鈴木桂治選手と、当時19歳の石井慧選手との決勝戦。終始、鈴木側優勢で進んだ。だが終了間際、残り時間を気にした鈴木が、ほんの一瞬、ちらりと会場の時計を見た。それを石井は見逃さなかった。「その一瞬に石井の攻める気持ちが、鈴木のそれを上回ったんです」と斉藤氏。結果は石井の逆転勝利だった。

勝負は峻厳だ。一瞬の競り合いを制した者が勝つ。最後の最後まで「攻めの気持ち」を貫くことこそが勝利の要諦だ。御書には「いかなる事ありとも・すこしもたゆむ事なかれ、いよいよ・はりあげてせむべし」(1090ページ)と仰せだ。“いよいよ”“せむべし”の気概で、猛然と戦うことである。

池田名誉会長は語っている。「攻めて攻めて攻め抜いて、押して押して押し切って、戦って戦って戦い抜いた時に、はじめて、栄光の旭日が昇る。勝利の旭光が輝く」と。

きょうも力の限り前進したい。勝利のその瞬間まで、攻めの気持ちを堅持したい。その人の心にこそ凱歌は轟き渡る。(之)


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