師恩・報恩感謝に生き抜く誓い:体験談


報恩感謝に生き抜く姿は仏法者の信仰の深さを知るバロメーター

私が、人生の師と仰ぐ人のその言葉の中に、「人間が人間らしく生きゆく」為に、必要な「報恩」ということについて述べておられました。

「恩」のなかでも、とりわけ大切な恩は、 師の恩 「師恩」であります。「師恩」とは、すなわち、仏法を教え、人生の規範を示す師匠の恩であります。と述べられた後、戸田先生の指導を引用されて「現在の世相を見ると、人の道である「知恩」・「報恩」を貫く者は、ごく稀となってしまった。忘恩から、社会の乱れが生ずるのである」生み育ててくれた「父 母」の恩を忘れてしまえば、家庭は乱れる。当然のことだ。「恩知らずから、魔は動く。恩知らずから、堕落は始まる。恩知らずから、畜生になる」


この指導を聞いて、常に「報恩」という感謝のできる「命」は、信仰者として、自身の今の信仰の深さを知るバロメータになるのではないかと感じます。私は、この指導を聞いたときに、私の心の中に、過去に塗り固めて蓋をしたかのように思えた、両親に対する心のわだかまりのような重い荷物が、心の奥底から浮かびあがってくるのを感じました。

そして、現実の悩みと共にどうしても心がそこから離れる事が出来ない自分がいるのです。今、信仰に目覚めたと確信しているにもかかわらず、最高の信仰を与えてくれた両親に対して、この突きつけられた「師恩」を素直に感じられないこの「命」。

自身の中で、過去に蓋をしただけの、解決などされていない、親に対する許すことのできない心の「おもり」に気付かされたのです。そして、そのことによって、自身の宿業の深さにまた、気付かされ「暗い苦しい過去の消し去ることの出来ない思い」突き当たったのです。

それは、その当時、自身の中で乗り越えられなかった、解決できなかった複雑な悩みだったのでしょう。正しい信仰を与えられたにも関わらず、いわゆる2世としての望まずに与えられた、信仰者の辿る道には、親の福運を素直に受け継ぎ、更に自身の幸せを増す人生を送れる人もいれば、その親から受け継いだ物だけでは無い、自身の宿業、宿命の深さによって、逆にこの世で更に、業を深める人生もあるのかもしれません。

己の人生を大きく左右する信仰を与えた者である父親と母親。その同じ信仰を受けたにも関わらず、父と母の大きく違う信仰者としての姿。父自らが進んで受けた信仰にもかかわらず、人として、また親として、自らが子に与えた責務を果たさず、自らの宿業からも背き、逃げ続けた者の姿。

当初、その父の入信に猛反対し続けたにも関わらず、自らの宿業をこの信仰で乗り越えることに覚悟を決めた母。しかし、母親のそのあまりにも純粋と熱心すぎるがゆえに、日々、生活の為と学会活動に没頭し闘う、母親の姿は、本来の、一家和楽の信仰ということからすれば、一面では、盲目的であり、家庭を犠牲にしていたことは、否定できないことでしょう。

そのように映る、当時の子供の心の中には、様々な信仰上の「不満」や「不信」が、2世として自ら望むと望まざる形で信仰を与えられたが故に、捌け口の無いものとして、心の中に形成されていったのかもしれません。

当時を振り返り、父親の信仰の途中において、退転せずとも、現実の苦しみや悩みから否定的に逃げる姿、また、逆に母親の前向きに突き進む姿を目の当たりにして、本来、家族の絆や暖かさという大切なものを学ぶべきときに、その家庭の事情から、二人の争う姿を見て来た者の心の傷は、小さくは無かった筈だといえます。

それは、当の二人の宿業の深さゆえに、そのあまりにも対照的な二人の、信仰者としての人間革命に向う途中の姿は、己の宿業と現実の苦しみに翻弄され続ける生命の境涯だったのかも知れません。与えられただけの本当の信仰心が芽生えてない私にとっては、信仰は、義務的に形式だけの、タダの「お題目」に過ぎなかったのかもしれません。

今、思えば、その争う両親の姿を、信仰に目覚めていない私が、妙法の観点から二人の姿を俯瞰して自身の信仰心を呼び起こすための「大切な因」として悟ることが出来たでしょうか?形ばかりに与えられた観念的なお経を、読む知識だけはあるばかりに、本来の命で解決するべきことを、観念的な知識で自らの不平、不信、怒りを封印してしまう方法で、蓋をしてしまったのかも知れません。本来、何一つ解決していない、心の重荷を表面的にやり過ごす、ずる賢い人間になっていったのでしょう。

親達が、己の宿命に翻弄されるがゆえに、与えられし者は、更に、生きることの現実に、確かなものを見出せず、翻弄され一層苦しみの宿命を負わされるのかもしれません。その受けた傷が、信仰を与えられた上でのことであるだけに、信仰の上でも解決されない、長年に渡る両親の不仲という現実は、自身の中でこの信仰に対する、そして学会の組織に対する、無意識のうちの疑問と不信につながり複雑に絡んでいったのかもしれません。

とすれば、本来その信仰に自らの傷を癒すべきところをその場所に見つけられなくなってしまうことは、今思えば、自身の宿業の深さを痛感せずにはいられません。人間が生まれてくることに、意味があるのと同様に、妙法を与えられることにも意味ある。

また、今、ここにこうしている自身の全ての現実が、妙法においては、必然の結果。全ては「原因」と「結果」だということも理解できます。

とするならば、こうして過去に封印していた重い荷物を引き出させて悩みとして再び突きつけられる事は信仰を高めるための必然的な宿題なのだと。

解けていない宿題を再び掘り起こされる「悩み」には意味があるのだと。解決できなかった悩みは、今現実を強く前向きに生きる為に必要な、逃げてはいけない苦しみなのだ。

一つの答えを導き出すために苦しんで、また、その苦しみの答えを求めるために更に深く辛い過去に戻る作業も信仰に目覚めたものとして自覚できる境涯になったことの証を立てるための儀式なのかもしれません。

でも、今こうして、自身の中に芽生えた信仰心によってその過去の重い荷物を広げてみれば、こうして望まずに「妙法」を与えられたことは、まさに「報恩」の中でも最高の「師恩」に値するものだと今は感じることが出来ます。

その最大の縁は父親がいなければ、与えられることは無かったわけです。

そうしてみれば、重い荷物も、その悩みを掘り起こすことによって、今は随分軽くなり、自身の中で前向きな力に転換できたのかもしれません。

「妙法」の正しさを確信出来る今、「悩み」を「妙法」に向って答えを求め続けることによって更に高い答えに導かれ、全ての過去は現在の悩み乗り越える宝になり、未来を前向きに生きる財産になるのだと。私の中で、本当の意味で信仰心が芽生え時に、与えたものの役目が果たされたことになり、過去の悩みの「原因」と「結果」が導き出されたのです。

この瞬間に、その親の信仰の姿で受けた心の傷は、大方、癒すことが出来、更に、「妙法」によって命の中の財産変えていくことが出来るのだと確信できます。「師恩」「報恩」の誠を尽くせる命の境涯は、広宣流布を目指す、自他共に、幸せを祈れる生命、人間革命の為に、妙法を求める信仰者には必要なのだと強く感じます。

2世として、信仰に関わる人を否定し続けてきた、私の人生を救ってくれたのは、本当の信仰に目覚めさせてくれたのは、私の場合、結局は、自身が否定し続けてきた、母の妙法に突き進んだ「生き様」後ろ姿だったのです。悩みに苦しみもがいても決してその答えが、自らの宿業の深さや、生命の傾向性によっては、前向きに働かない場合もあるかもしれません。

しかし、ひとたび正しい哲学を命に刻むことが出来たなら、何一つ恐れることなど無く「妙法」に向うことによって、人生の節目、生きていく過程において示される、悩み、課題、宿題を、己の絶対的な「金の財産」へと変えていけるのだと確信できます。

「悩み」について、仏法では、悩みがなくなることを目指していない。むしろ煩悩即菩提と説くように、悩みがあるから、悟りが得られると受け止めることなのだと説かれています。

妙法を受持したものとして「悩み」とは、信仰者として自身の中に、「生き様」「足跡」を残すことの出来る大切な宝の「原石」なのだと思います。その悩みや苦しみ、困難が起こった時にこそ、自らの中にある「仏」、「妙法」に南無し、求めることができるか否かで、自身の、今この一瞬の絶対的な生命の境涯が、試されているのだと感じます。

仏法とは、妙法という己の中に存在する「賢者の石」を用いて全ての悩みを心の財産、宝に変えていく作業の繰り返しなのだと確信します。

そして、今この一瞬の生命を、己の中で絶対的に高めるための修行であり、自身の宿業によって起こる全ての悩みや困難を、現在の、一瞬一瞬の最高の「生命」によって、更に、絶対的な幸福の境涯へ築き上げていくのだと感じます。

この記事は、2年前に私の信仰に対する変化を過去に綴ったものです。



報恩感謝 | [2009-07-27(Mon)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

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