人間の我慢の限界:宗教の袈裟を着て「法」を語る


人間の我慢の限界。

一人の裸の人間の言葉で「法」を語る。

「宗教の袈裟を着てそのユニホーム」で、「法」を語る。

この二つは、全くその語る意味が違う。

その時、その持つ人間の本性が出る瞬間。

一人の人間の本性を通し、その「法」を知ることによって、人間が必要なものを知る。

その宗教を賛嘆し、その組織を宣揚するために、「法」の教えを語る時、人間の我慢の限界を越えて、むき出しにされた本性を知ることは、その宗教の価値を下げる。

その宗教の宝を石ころにする。

その宗教の未来をぶち壊す。

その宗教の本質とその価値を語れないのに語ろうとするもののその心とは?

私のような未熟者では、「ココ」が、どこなのか、わけもわからず、どこのどいつが見ているかも知れないこんな場所で語るのには、どんな批判が来るか、その宗教の宝と大切な【もの】を壊しはせぬかと、名前さえ出す事が恐ろしい。

それは、こんな場所だから。

良識を弁えた人間ならば、

「よくあんな場所で、そんなことが出来るわねえ。」

なんて中身を知らぬものが、勝手な事を噂する。

「一体、常識さえ弁える事の出来ない、非常識な人たちなんだから」、なんてね。

「そりゃあ、しかたが無いかもね。」

「正義、正義」と、正義ならなんでもあり。

なんて風に思っているの人たちなんだから。

慎みや謙虚や思いやりが、そのやり方のえげつなさに、かき消されてしまうほどの正義の履き違え。

宗教を信仰しながら、世間の常識からずれていく、この非常識。

でも、それをその宗教の正義と勘違いするドアホ。

本当に、極普通に生きていらっしゃる人には、迷惑極まりなくて申し訳ありませんと代弁しても収まりません。


一部で見られるそんな、今のその宗教の実情。

憂慮しなければならない心配事を、上からの号令だけで、猪突「盲信」。

突き進もうとする。

元気がいいのはいいけれど、礼節を弁えられんのかね。

その宗教の看板が泣くよ。

それは、私には、愚かに見える。

「物言わぬ」本当に、その宗教の価値を知る良識を弁えた高き生命の人たちは、見えているはず、感じているはず、心配しているはず。

でも、私は、「一人の裸の人間の言葉」で、「法」を語る。

だから、あえて、その宗教のダメだしをする。

それは、その宗教を大切にしているから、絶対に壊せない宝があるから。

きっと心配しているはず。

号令だけで動く、イエスマン達。

一番大切なもんを忘れてはいませんか?

大切な人が、一番恐れているものはなんですか?

その宗教の本質とは、利他と慈悲。

未曾有の理想。広大無辺な理想。

その宗教の素晴らしさを、にわか仕立ての袈裟を着て、人に教えを説く坊さんにでもなったつもりで、出家並みの修行や過酷な現実を生きたわけでも無いのに、わたしゃ、頭が良いといわんばかりに、理路整然と、「偉そうに」法を説く。

何様のつもりじゃ!

そんな暇があったら、一人の大切な人を救える人間になるために、現実を生きんかい!

法は、お前が偉そうに、こくもんじゃねえ。

おまえ自身に現実のために説く法だろ?

誰も法を説いてくれなんてそんなことを誰が頼んだのかねえ。

俄仕立てのお尻の赤いお坊さん。

ネットはホントに厄介だねえ。

一著前に、お釈迦さんにでもなったつもりで偉そうに法をといても、やっぱり、人間は人間。

その馬脚を現す時がやって来る。

その本性を現すときがやって来る。

中身の無いものに、紙を貼り付けても、当然、雨が降れば破れて、おんぼろろ。

攻撃される事を承知でも、結局、そいつの我慢の限界。

我慢の限界とはなんだ?

己の負け。

しかし、その負けを認める事の出来ないその生命が、本性をさらけ出す。

見ているだけで哀れ。

その哀れさの結末は、誰がそいつの尻をふくというのだろう。

その尻を拭かされて汚されるのが、その宗教じゃあないのか?

情け無い。

逆切れして、そのネットで、攻撃したものをこれでもかと晒す。

何のためのその宗教の宣揚なのだろう。

それは、その宗教は、人を選ぶと言う権威主義に映らんか?

その宗教を褒めちぎり、宣揚する事を己の役目として振舞いながら。

人の幸せを祈ることの出来るその宗教。

利他と慈悲の、その宗教を宣揚しながら。

そんなときには、都合よく自己保身のために、その「法」を都合よく使える。

逃げるために仏法を解釈する。

そんな意味では、法というのは、頭のいいだけの尻の赤い猿でも使える者には万能。

使われるその宗教にとっては不幸。

桜梅桃李。

今を生きる。




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はやく宗教を捨てなさい:「人間」を救うのは「人」


あのおじいちゃんの遺言、誰もが、「人間」を正しく生かし、活用することのできる究極のマニュアルなのだ。

「宗教活動よりも、人間活動だよ!」

「宗教」は、「人間」を救うことは出来ません。

「人間」を救うのは、「人」です。

「人間」を正しく生きなさい!

これが、あのおじいちゃんの遺言だ。

「人」として「人間」を生きることにとって大切なことは何だ。

道理だ。

「人間」は、生き物だ。

宗教活動をするよりも人間活動をしなさい。

「人間」が生きる。

ただそれだけだ。

「人間」が生きるという道理。

生きる「人間」として今に定まる「人」の心。

「人」として「人間」を正しく生きる為の己の信仰に基づくわたしの信心。

そこに宗教は無用だ。

桜梅桃李。

今を生きる。


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臭い物に蓋をする「宗教」


人は、人それぞれ。

確かに、人は、十人十色。

十派一絡げに、人を判断してはいけない。

臭い物に蓋をする自己確立のための方程式。

そんなのあるだろうか?

物の道理に従って生きることに人間を定める命の創造主として、自己の心を確立させる信心。

十派一絡げの信仰。

その信仰に励む、一人ひとりの信心。

見えないモノすべてを無とする。

人の心は、それぞれで、究極的には理解不能であると結論づける。

その究極の答えに辿り着いた哲学?

理解できない物、それは、人の心。

人の心は物としてみることが出来ない、しかし、理解できないモノであったとしても、見えないモノとして存在しているのに・・・。

それは、その人の中の生命の違いや、その「病いの災い」によっておこる勘違いなのではないだろうか。

人間は、人間。

人間の中の人を理解することを諦め、無いモノと否定する。

そんなところから、決して、人間がより人間らしく生きる、より正しい道理へ導く、絶対的な信心を極めることに達することはない。

人間が生きることの苦しみを厄介な物として切り捨て、臭い物に蓋をする自己満足の宗教には、己の人間を変革するための生命に届くことを可能にする信仰に、そして、宗教へと辿り付くことはない。

人間の問題は、どこまでも人間を見つめることによってのみ、不可能を可能へと、変革され、進化を遂げていく。

桜梅桃李。

今を生きる。



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宗教を信じる者は騙される


「科学と宗教、その間の壁は破れるのか」

いや、違う。

それよりも・・・。

創価は、「宗教と信仰、組織と信心の壁」に敗れるのか?」

宗教を信じる者は騙される。

「幹部」なんて肩書なんて見るのも嫌だ。

お前らそんなに給料もらって、ひな壇に座ってるだけじゃあないのか?

坊主丸儲けとはこのことだろう。

組織というものは熟しきったらあとは腐るのみなのだ。

宗教を信じることが、信心では無い。

その信仰。

一人を救う為の信心。

一人の人間の生命の明かりを灯し自立させるための信仰。

信仰に基づく宗教は、たった一人の為にあるのであって、組織の為にあるのではない。

組織は宗教を道具にするんじゃあない。

桜梅桃李。

今を生きる。



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宗教にいつまでもしがみ付くもんじゃあない


宗教という組織に、人はいつまでもしがみ付いているもんじゃない。

宗教という組織は、自由な人の心を不自由に縛り付けるもんじゃあない。

宗教によって授かった信仰。

その信仰によって、開かれた心に信を確立する。

自らの生命で開く。

信心。

どこまでもわたしを生き切ることが出来る。

揺るがない心。

此の御本尊全く余所に求る事なかれ、

只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり。



妙法。

己の心を信じ私を生きる

桜梅桃李。



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ベコニア


ベコニアが無い。

何軒かのホームセンターにある園芸ショップを回ってみたもののどこにもなかった。

ベコニアは、会館へ持っていくために地域の人が、一人、何個かを買って届けることになっている。

組織の中には、会館を飾るために、ベコニアをまとめて買ってくる担当の担当者がいる。

その担当のひとりが、高齢を過ぎたわたしの母である。

杖を突いて歩く母が、複数の人の分までベコニアの購入を任され、会館をお花で飾るためのたくさんのベコニアを足の不自由な母が買いに行く。

従ってこの時期、たくさんのベコニアが、近隣地域のフラワーショップでは売れることになる。

わたしは、学会のこういうシステムが気に入らない。

第一、母が買いにいくにも、杖を突いて障害を抱えている。

しかも、車に乗れるわけでも、自転車に乗れるわけでもない。

しかし、母は、自分で買わなければならない3個も、4個ものべニアのほかに、他の学会員の分までを含め10個以上ものベコニアを買いに走らなければならないのである。

おいっ!こら!

地域の責任者! 幹部!

年老いた母に、なぜに、こんなことをさせるのだろうと、地域の組織を運営する幹部に対して腹立たしい思いを感じる。

こんな年老いた母に、草創期の頃から一生懸命に活動をしてきた功労者に対して、もっと組織は敬意を払い、大事にしろって、言いたい。

組織の人間。

そこは廃れた信仰心の無いものばかりが集まった集団なの?

現実は悲しい。

結局、そのベゴニアは、私が何とかしなければならない。

おかしい。

どこまでも人間一人ひとりを大切に、人のために尽くすのというのではないのか?

こんなにまで一生懸命に頑張っている母をお前ら見殺しにする気か!

組織はなんのためにあるのだ?

組織の中でやってることは、仕事を都合の良い言い訳にする、単なる連絡係。

ボロボロじゃあないか。

組織の中にいるのかね?

人材と呼べる人間が?

やい!おまえら!

でっかいだけの巨大組織の上に胡坐をかいて、人の心も理解することのできない高慢ちきな金集め集団になってしまうのかい!

嫌だね~、組織人間は・・・。


※ベコニアと「ベゴニア」では、「ベゴニア」が正しいようです。



スイカぺぺを枯らしてしまった。

暑かったので、水遣りを注意していたけど、逆に水を与えすぎてしまった。

折角、姉がくれたスイカペペ。



申し訳ない気持ち。



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信仰の本質から逸脱した宗教に携わる観念の奴隷達


拝んでいるご本尊。

ご本尊が、本物か、偽物か?

そんなどうでもいいことが、重要であるかのごとくに言い合っている人間達がいる。

なんだろうね?

本物、偽物と決めつけること、また、決めようとすることに何の意味がある?

己の生命の御本仏を映し出す鏡。

単なる鏡。

その鏡に偽物も本物も無い。

鏡は、己の心の奥深くにある。

力を引き出すのは、己の中にあるご本尊だ!

確かな生きた哲学である根本のご本尊が存在する。

ネット上に蔓延するただの頭の禿げた坊主達。

本当の信心の本質から逸脱した観念の奴隷たち。

あなたに信仰を語る資格は無い。

あなたこそが、宗教を金稼ぎの道具にし、信仰に携わる者を宗教の奴隷にしているのだ。

宗教の本質から逸脱した観念の奴隷たち。

観念の奴隷の坊主どもが、信仰者を宗教の奴隷にし、弱い人間をさらに弱くする。

確かな信心を築き上げるための本当の信仰心を捻じ曲げさせる。

あなたこそが、「偽物」だ!

自称、学会員と名乗る者たちのなかにも、ネットではうようよ見ることが出来る。

お馬鹿な薀蓄を語る人間が。

あなたが信仰しているのは、学会の中の根本ではない。

インターネットというネット信仰に心を奪われたゾンビだ。

ネット信仰だ。

「0」と「1」の世界の崇拝者が宗教を騙っているから片腹痛いよ。

ここにもいるよ「偽物が」

あなた、あなた、あなたは、この宗教の「偽物」だ!

2011-10-11



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宗教と寛容について普遍的な真理


宗教を単なる頑固者の道楽にしているような人には我慢ならない。

宗教は、真理に独善的な解釈を出して探究を降りてしまった者と、 その独善的な解釈を妄信し、そこに安寧を覚えてその先を探究しない者の集合体



確かにそんな「観念の妄想論者」ばかりなのかもしれない。

他者を否定し、排除する。

己の小さな器の中だけの偏狭な世界をすべての宇宙として語る独善主義者。

人間を物の道理に押しやる唯物論者。

目に見える物がこの世の中のすべてみたいことを盲目的に信じている。

否定的に、ただの「あきらめ」として切り捨てる。

面倒くさいものには蓋をするだけのご都合主義。

一番楽な生き方を正しい生き方とする。

そんな人間性を否定する先に導きだされた偏屈な理論に基づく似非な宗教。

洗脳。

自己洗脳。

己自身によって洗脳されている人に対して、お気の毒だ。

己のエゴによる独善的な解釈を盲信し、人間が生きることの面倒くさい部分を無だとする。

そこに見える矛盾をバッサリ切り捨てる。

つじつまの合わないことだらけなのに、道理に従えだって?

「おれが宗教だ!」

「おれが教祖様だ!」

みたいなことを語ってる。

「おれの偏狭な宗教でよければ、なんでもこたえてやるよ」ってか?

勘違いのナルシスト。

というわけで、そんなオナルな人に、教えてあげたいね。

『他宗教にも「真理」を見い出していくべきで、他宗教を否定することは自らの正しさをも否定することになる。』

という寛容に基づく融合をどこまでも探求し続ける宗教もあるよ。

一人ひとりの独立自尊の人生を公布という現実に生きる世の中で、一人の人間の中に確かな明かりを灯すことのできる生きるための哲学を獲得することが出来る。

要するに、入学した途端に、いつでも卒業出来る宗教なんだな、これが♪

するもしないも、本人の自由なんだよ♪

でも、卒業できるかな?

世の中のどんな学校を卒業するよりも難しいかもよ。

卒業基準がないからさ。

卒業しようが、卒業しまいが、そんなことは、誰が決めるでもない。

そんなどうでもいいことにとらわれない宗教なんだ。

自由なんだ。

弱い人間は、どこにいても弱い。

己の弱さにどんな信仰をしていても溺れ続ける。

宗教の卒業は、己のなかの絶対的な幸福の価値観を己の生命に築あげることが出来れば、もう一人前。

他の貧弱な似非宗教に比べ、一人ひとりの確固たる独立自尊の人生を生きている人がたくさんいる宗教は、無いのではないだろうか?

現実を生きることのできない観念を、ただ毎日、お題目のように語る宗教に何の価値も無い。

言ったことを実行できない非現実的な話には、興味は無い。

確かな哲学を根本に変化し続ける信仰。

進化し続ける宗教。

人間がより人間らしく生きるための真理を探究する。

究極の、人間一人ひとりの幸せをどこまでも追及する宗教。

だから、「団体だけど、団体じゃあないんだよ!」

ひとりの人間として投げかける寛容の在り方についての問題提起の見解。

宗教の信奉者が、自分たちが洞察し、また啓示された「真理」に絶対的な確信をもつのは当然のことでしょう。しかし、そのことによって、独善的、排他的な”偏狭の信”に陥るのは、「真理」の解明を目指す宗教者の正しい態度ではありません。

むしろ、究極的な「真理」の解明のために、互いに英知をしぼり、人間の真の幸福の実現に向けて競い合うことこそ、宗教者のあるべき姿だと考えます。

たとえば、自らが信奉する宗教によって洞察された「真理」が、他の宗教にも見いだせることは、しばしば自らの正しさを補完的に証明するものとなるでしょう。

逆に、他の宗教の全面的否定は、そのなかに含まれている「真理」をも否定することになり、それは自らの真実性をも否定することになりかねません。



全ての宗教に「真理」を見い出していくべきで、他宗教を否定することは自らの正しさをも否定することになる、と言ってるんだよ。

この言葉に、同感、共感できない奴は、お利口な馬鹿にはなれない。

煮ても焼いても食えない「ろくでなし」の宗教論者となる。

要するに、嘘つきってこと。

新たな価値を創造をできない世間話の延長線上で、「うわ言」のような「戯言」を死ぬまで語ってなさい。

宗教は人を救えない。

宗教がその人を救うのではありません。

宗教自体が、その人を救うことは出来ません。

その人を救うのは自分自身でしかありえない。

宗教はその人自身の生命の灯りを灯す役目(触媒)を担う。

人の生命に灯りを灯す。

桜梅桃李。

今を生きる。


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一人の人間として生きる


わたしは、変わる。

人間は変わることが出来る。

人間が、変わることは、不可能なことではない。

脳だって、実は「年齢を重ねても衰えることは無い」と脳科学の研究で発表されている。

人間の固定観念。

人間の中の惰性。

人間の怠慢。

あきらめ、無気力。

悪しき生活習慣。

人間の進化。

もう組織に囚われない。

わたしは、わたし。

今、この瞬間を生きているのは、わたしなんだ。

一人の人間として、今、この瞬間を生きる。

「毒矢の譬え」

愚痴や悪口を言っても、わたしが変わるわけではない。

今、わたしが生きているのは、何の為?

己の2度目の人生を、一日たりとも無駄にはしたくない。

愚痴や不平、不満は、惰性と怠慢。

堕落と傲慢以外のなにもでもない。

わたしが、私の力で、今を生きることが、わたしの2度目の人生を与えられた使命。

わたしの確信する確かな哲学とは、自らの力で生きることの自己確立を果たす哲学。

組織に関わる人間に囚われるための信仰ではない。

世間もそこにいる人間は、同じなんだ!

人間とは、どこにいても何も変わらない。

同じなんだ!

変わらなければならないのは、わたし以外にない!

わたしの信仰。

唯一、絶対のひとりの信仰心。

わたしの中の私を信じきることの出来る信じる心。

桜梅桃李。

今を生きる。





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組織の足かせによって不幸になる信心


「フォーチュン・クッキー」って知ってる?

運勢を占うおみくじクッキーなんだって。

アメリカやカナダの中華料理店の殆どの店で、食後に出されるんだって。

「自分の未来は、おみくじによって決まるんかい」って、言いたいけれど、良い運勢も悪い運勢もみんな味方につけることが出来れ、それはそれでいいじゃない。

なんでもプラス思考、ポジティブシンキング。

そんな幸せになる信仰を授かった。

しかし、組織の足枷(あしかせ)によって、不幸になった。

いつも活動によって、喧嘩ばかりしてた。

不幸になるための活動もあるよ。



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無明の奴隷となる宗教


組織の常識は世間の非常識。

井の中の蛙、大海を知らず。

組織活動だけでは、世の中、世間には通用しない。

洗脳だけの盲信や盲目は恐ろしい。

己の中に信仰の灯りを灯せぬ組織に利用されるだけの宗教活動は、何の足しにもならん。

愚か者。

宗教に操られる愚かな信仰者であってはならぬ。

組織に信仰があるのではない。

信仰とは一人ひとりの人間の中にある。

宗教は怖い。

今、本当の姿が見える。

現実の姿。

組織に宗教はあっても、そこに信仰は無い。

組織に利用されるだけの人達。

組織とは一人の人間の中に確かな信仰心の明かりを灯し続けるためにある。

宗教の奴隷にならないで!


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現場で流す汗と涙の跡:血脈


『醜いアヒルの子は♪

裸の王様キラ~イ♪』



裸の王様ってかわいそうだね。

ブレーンが愚か者だから。

世の中、誰も叱ってくれなくなると、もう、そこから人間的な成長を期待することなんて無理なもんかね。

年をとっても、あ~は、なりたくない。

ぼけ老人になって、見境なくやりたがる老人。

嫌だね。

仕方がないね。

なんでこうなっちゃうんだろう?

もう、そんなところで生きている人に、何を言っても無駄。

この人を変えようなんて思うことは無理。

だって、病気なんだもの。

現場主義か・・・。

『どうして現場に血がなれるんだあ~~~っ!』

「あぁ~?・・・?」

現場で流すものとは、汗と涙の跡。

血脈という。

桜梅桃李。

今を生きる。



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神や仏を信じるなんて馬鹿のすること:人生の病根は傲の一字

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神や仏なんて信じるもんじゃあないよ。

ホント、馬鹿な人間がやることだね。

自分を信じないで神や仏を信じるなんて、弱い人間にはお似合いかもしれない。

神や仏を信じる人間なんて、現実を己の力で生きることのできないヨワッチイ人間だと言ってるんだ。

世の中、神や仏なんて言うものなんてあるもんか。

坊主丸儲けの世界の道理なんだよ。

弱っちい、ご都合主義の人間には、まさに都合がよい。

互いの利害関係がそこで成立する。

似非宗教というもんは、利害関係で成立するのだ。

面倒くさい部分を全部、坊さんに丸投げする。

得手勝手な人間には、仏や神を信じたふりをして、都合よく宗教を利用する。

似非な宗教は、利用する者と、利用されるもの、

更に、利用されるものと、利用するものが都合よく、互いの必要性に合致したシステム。

似非な宗教とは、合理的な利害関係になる損得勘定。

信仰というものに対する精神世界なんていうのは、どうでもいいこと。

坊さんに利害関係の一致による依存によって、わずかばかりの心の安定を得ることのできる。

世間の恐ろしく巧妙に人間を奴隷にする似非宗教の拝金システム。

信者様は神様です。

似非なドロボー宗教ども。

人生を方法論で生きる。

頭を使って生きるのと、心を使って生きるのとは違うよ。

心って言うのは、いったいどこにあるんだろう?

子供頃には、「心が大切だ」ということをよく聞かされた。

でも、人間の体のどこに、心はあるのだろう?

ハート。

頭を働かせて想像してみた。

心臓付近に心があるような気がした。

心があったかく感じる時は、どのあたりで温かくなった心を感じるのだろう?

心が苦しくなったときには、体のどのあたりが苦しくなるのだろう?

人生とは、方法論で生きると必ず行き詰る。

人間一人ひとりの世界。

ひとりひとりがそれぞれの世界を持っている。

己の世界。

みんな一人として同じ人間はいない。

ひとりひとり。

一人の中の世界でさえ、一日、24時間、一分、一秒。

一瞬に変わる。

さっきの自分。

今の自分。

明日の自分。

その姿。

昨日と今日の自分の姿。

同じなのに、今日は髪の形が気に入らない。

着ている服が嫌だ。

昨日と今日の自分は同じではない。

人間。

「なぜ、あの山に登るの?」

「そりゃあ、そこに山があるからさ」

これが哲学だ!

わかるか?

わかんねえだろうな。

より人間らしく生きる人間の心理、いや、真理。

・・・こっちの方がわからからんか・・・。

人生の病根は傲の一字。

謙虚だなあ。

桜梅桃李。

今を生きる。



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私の大切な二つの宝


自らの運命は自らの手によって開く

当然、ブログにその思いを記事にして書くということでその運命が開けるというわけではありません。

未熟で鈍感な人間に必要な事は、言葉の世界に深く浸る事で、いくらか人間の心を理解する事が出来るようになっても、己自身の人間を変えるためには、何一つ足りません。

それは、人間としてこの五体を使って、現実の中を生きることによって、「自らの運命は自らの手によって開く」事の出来る哲学として成立する。

どこまでも見える世界で生身の人間達の現実社会を生きるということなしありえない。

言葉と言葉だけの観念の世界を、ほんの少しの心で行き交うことができても、その先に進む「勇気」がなければ、自身が発するところの根本である妙法哲学の本質を己自身の生命に刻み、現実の世界で実証を示し、その哲学の正しさを身を持って証明する事は出来ません。

所詮、ネットはネットです。

大切な事は、現実という、人間の姿を見えるもの姿かたち、あるもの全部をこの世で使い切る闘いこそが、この哲学に求められている事。

正しいと信じ、確信した、その正しさを身をもって証明してこられた人。

その事実としての結果として存在する創価の勝ち誇る姿。

それは、自らの生命で勝ち取ってきた、一人ひとりの勝利の証なのだ。

「突き抜ける」己の中の「信仰心」を知りたい、感じたい!

己の「生命」で!

そのために、求められる最高で最強の哲学を与えてくれた大切な恩人。

私の最大、最高の「報恩感謝」の証を示すものは、自らの「変化」以外のなにものでもない。

己の中の信仰心に対する迷いは、何一つ無い。

現実を生きるとは、この体を、己の哲学に馳せた強い信念で、一念と執念によって、現実を生きる為の【勇気】に変え、人間社会の中で自らの「肉体と精神」を通して、心から「生命」に刻むことなのだ。

現実を生きるということ無しに、ネットで語ることの出来ない「信仰」とは、この『創価の哲学』に他なりません。

その互いの信仰者として、受持した妙法の宝の、最高の価値を知らしめてくれる創価の一人ひとり。

己の「今」を知る。

私の大切な、二つの「宝」。

守るのは、きっと、わたし。

妙法。

桜梅桃李。

今を生きる。

2010/3/31



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形式主義の権威主義の宗教組織



序列社会で、形式主義の権威主義。

組織の垢。

組織の垢とは、その組織の「人間の垢」そのものに他ならない。

「お前の事や!」

「どこのことなん?」

人間の信仰心が、一番嫌うものなのに、宗教組織が、大きくなればなるほど、どんどんくっついてくる。

まるで、生活習慣病のように。

メタボリックの贅沢なお肉と脂と加齢臭。

見えない病の障りが、忍び寄る。

ヒタ、ヒタと・・・。

宗教にも、見えざる総合検診、人間ドックがそろそろ必要なんじゃあない?


「役職なんて関係ない」、なんていいながら、自分の名前よりも先に、役職を告げる。

「アホか?  こいつ・・・。」

言ってることと、やってる事の嘘と矛盾さえ気がつかない。

腐敗。

肉やバナナは、腐る直前が一番、美味しいというけれど。

やっぱり、生身の人間が集まる宗教組織も、世間となんら変わらん人間社会の集団の1つ。

やっぱり、生のものは腐るんだよね。

硬直した、宗教組織は、人間の生々しさを排除する息の出来ない、人間が窒息死する社会。

組織とは、人間の心を排除する形式主義の権威主義の序列主義の形骸化へ突き進む。

それとも、生の人間の賞味期限を越え、更に、消費期限を越え、やがては、腐り果てる道を突き進むのだろう。


身近に、そんな「腐り切ったバナナ」のお寺があるもんね。

まだ、処分されずに放置されてるよ。


今、見えるよ。

その巨大組織のバナナの一番美味しい状態を知らせてくれる「シュガースポット」が。

その後は・・・?。



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