マイナス「嗜好」:心の師とはなるとも心を師とせざれ

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謙虚さに生きる自信。

心の師とはなるとも心を師とせざれ

人間が生きることは、すべてが人として死んで行くための生命の勉学。

べんがくとは、勉が苦。

「苦は楽の種」

「学ぶ」ことは「苦」痛が伴う。

その苦痛を受け流すためには、謙虚でなければならない。

心の扉を開かなくてはならない。

人間が生きる上で苦しみは、決して無くなることはない。

その苦しみを悠々と乗り越えて行くための生命の勉学が必要だ。

楽しみに変わる勉学。

自分の力だけで出来ている、生きてられることなど何一つない。

自分に対して謙虚であれば、他人に対しても謙虚であるはず。

「人間なんて今日、やったことが全て、今日、生きたことが全て」

人生、最後の瞬間まで人として生きて死んで行くための「伸びしろ」を最後の瞬間まで貪欲に求め続けたい。

「謙虚」さへの自信。

生命の哲学をすること。

心の師とはなるとも、心を師とせざれ。

何か起こるたびに人間は、動じる。

心に不動の地位を築き上げることは可能かな?

一日、24時間。

一年、一生。

人間は、動じながら、流されながら、時には流れに乗りながら、心は定まることが無い。

心の奥底の生命には、確固たる哲学が存在する。

見える。

しかしながら、わたしの生命の奥底を映し出す心のスクリーンは、時として曇ったり、千切れたり、破れたり、汚れたりして、信念や一念が、そのまま映し出されることが無い。

何だろう。

動じない心。

「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」

その通りだと思う。

しかし、その通り実行できる人間なんていなよね。

みんな自分の心に感じることを正しいと信じているんだから。

自分が正しいと信じなければ、自分の人生を生きる事なんて出来やしない。

その人間の生き方の浅さ。

人間が確かな哲学を持つことによって、己の人間の生き方の浅さを知る。

「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」

動じない心。

人間はいつの間にか生活の中で、何事においてもパターンというものが出来上がる。

「生活習慣」という言葉は、その全てのパターンを、ひとくくりにすることが出来る。

心の中に悲観的な思いを占めている考え方のイメージに基づく発想は、

病気になりやすい生活習慣。

何事にも臆病になりやすい生活習慣。

生きることが辛く感じるという心の生活習慣。

という、病気や臆病、生きることが辛く感じることの生活習慣の見直しから始まる。

前向きな未来を感じる力のある発想ならば、

・健康維持のための毎日、はつらつした元気を保つことの出来る生活習慣。

・世の中、丸ごと全部大好き!全てが、自分を成長させてくれるために存在するための生活習慣。

・生きること、生きていること自体が楽しいと感じる心の生活習慣。

全てをより良く、より高い価値を引き出すための建設的な考えたに基づいた発想になる。

人間が、より幸せを求めて生きていくことを望むのならば、その根本の発するところにある己の現在の心が、マイナス志向であるのか、プラス志向であるのかを常に、気がつけるという哲学と思想を求める必要がある。

そのために、更に、その「根本を知ること」が、より良い幸せを気づいていけるための重要なことであるということを知ること。

己の心に頼ることのなんと頼りないことであるかということを痛感するたびに、その知ることの必要性を感じることである。

心の師とはなるとも心を師とせざれ。

愚かな心を師とすることの不幸に気がつける人は、幸せの明かりを灯すことが出来る

その簡単なことの意味さえ理解することの心のスペースさえ無いものは、現実の世の中の無常と無明に翻弄され続ける人生を選択するという、マイナス「嗜好」になる選択肢が、どんどん増える。

人生を、行き詰まりのどん詰まりの人生にするのか、無限に幸せを開いていくプラス「嗜好」に変えるのか?

その選択をする為の生活習慣のために効果的な【もの】

桜梅桃李。

今を生きる。



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