「松竹梅」の人生ではなく「桜梅桃李」の人生


己の弱さを、隠す為の手段に、「桜梅桃李(おうばいとうり)」を使う卑怯者は、どこのどいつだい?

「・・・って、私だよ!」

心の弱い人間は、どこまで行っても言い訳ばかり。

どこまでも言い訳をするこの強さは、「天下一品」なのに・・・。

何で、その強さが、心の強さに変わる力にならんのか?

そして、現実否定、現実逃避の弱い生き方を維持し続ける負け犬人生を送る羽目になる。

どうしたって、強く生きることが出来ない。

しかも、己の弱さを隠す為に、「桜梅桃李(おうばいとうり)」を、吹聴して弱い生き方の隠れ蓑にして、己の生き方を、正当化するのは止めなさい!

桜梅桃李とは、『桜は桜 、梅は梅、桃は桃、李(すもも)は李のそれぞれの姿、特質がある。桜は決して梅にはなれないけれども、『桜』であるからこその美しさがある。同様にどんな人にも、その人でなければ発揮できない素晴らしい個性や役割・使命がある。』 桜梅桃李とは?」より


桜梅桃李は、弱い生き方を、「桜」「梅」の個性に喩えたものじゃあないんだよ。

弱い生き方の人間は、私は、松竹梅の「梅」ですと言え!

※松=特上  竹=上  梅=並

弱い生き方は、個性なんかじゃない!臆病者なだけ!

弱い生き方の人間は、臆病者が、楽に生きようとする、怠け者の言い訳に、一生を、己を知ることなしに生きる、自己不在の人生。

桜梅桃李。

今を生きる。


※評:あんた、自分の人生をよくもそこまで、酷評できますね。逆に言えば、あんたの生き方、強いんじゃないの?


追記

桜の木にとっては、春になったら花を咲かせ、花びらを満開に咲かせることが、その生命の持つ最高の瞬間。しかし、咲かない命もある。

咲かす為に夏を、秋を、そして冬を、その瞬間の「今」を懸命に生きている。

でも、その懸命さは見えない。人間もなんだかんだ言っても、みんな一生懸命に生きている。懸命に生きてこそ「桜梅桃李」の意味がある。いい加減に生きて「私は私なのよ」では無い。

己を知り自分らしく「懸命」に、そして「賢明」に生きることこそ自由。私だけの「オンリーワン」を生きる。

これが「桜梅桃李」と感じています。そこから自己確立のヒントと答えを求め、気づき、更に高め確立させていく。「桜梅桃李」の究極は「マイ宗教」でもあるのでしょう。

それが問題の無い宗教かと思います。


別れの曲・ショパン


・桜梅桃李>今こそ【勇気】!負けるな【勇気】!



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