正義の仮面をかぶった世の中の人間達


世の中に、正義は本当にあるのだろうか?

正義、正義いう文字を躍らせたところで、世の中に、本当の正義を見たことが無い。

正義という仮面を被っているだけじゃあないか?

組織の中で本当の顔を隠し、正義面をしている奴ら。

人間の世界に正義があることを信じたい。

人間の中に正義あることが信じられないという自分の中に、本当の正義が無いのだということもわかってるよ。

所詮、人間は、人間。

人間として、人間にまみれて生きるしか手立てはないのだ。

人間は人間。

組織の中で信仰者としての仮面を被っているだけの人間もいる。

己という人間の本性。

人間が持つ正義を信じきることが出来ない弱さ。

それらを全部ひっくるめて生きなければならない。

今を生きていくために、私自身の信仰とその哲学が存在する。

血の滲むような闘い。

それは、どこまでも私の中に存在する正義を信じることの闘いなのだ。

信仰の証。

哲学の証。

正義は存在するよ。

きっと。

妙法。

桜梅桃李の人生。

今を生きる。





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創価は「裸の王様」「本音」と「建て前」を巧妙に操る組織


わたしの心の中はどんな時でも自由でありたい。

世の中、社会、職場では、わたしの心の中に思ったことを自由に表現することはできない。

本音と建て前の社会。

本音を「嘘」という建て前でお上手に隠したり、オブラートにやさしく包んだり。

世間というのは、ややこしい。

そのややこしさを、大人社会で身に着ける。

一般社会で自分の心に思ったことを、ストレートに伝えることは、自由、気まま、我儘な人間として、世の中、世間の反分子として、扱いにくい人間としてレッテルを貼られる。

反分子で何が悪い!

大人は嫌いだ!

なんて言いながら、そのまま大人になった。

世の中は生きにくい。

所詮、創価も世の中、世間の延長線上にある。

結構、大人として本音を建て前を上手に使い分けながら生きることが出来るようになった。

でも、わたしは組織というものが大嫌いだ!

一人の人間を生かすも、殺すも組織。

社会、世間、世の中。

「世界に一つだけの花」

本音と建て前。

真実は?

本当は?

嘘なの?

せめて、創価という場所だけは、自らの生命に従って生きることの出来る組織であってほしい。

自らの信仰心に従って。

桜梅桃李。



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嘘(うそ)

矛盾・「嘘ついたらハリセンボン飲ます」

      指きりげんまん、
          【嘘】ついたら、ハリセンボン飲~ます。



なんでやねん!

「ハリセンボン」飲まされるのなら、

おれは、神経が死んでる箕輪はるかちゃん。

私は、「角野卓造じゃあねえよ!」の近藤春菜ちゃん。


・・・。


『その「ハリセンボン」じゃあねえよ!』 


「【嘘】ついたら、ハリセンボン飲ます」という言葉自体が嘘。

「針千本」を実際に飲まされることはないのに、嘘をついたら針千本飲ますという約束を誓う言葉。


嘘。

嘘は、真実ではない・・・。

「嘘をついてはいけないよ。」
大人が、子どもにそんなことを言って注意する。


「嘘はついてはいけないことなの?」

子どもは、そこから、嘘というものがいけない【物】なのだということを知る。

しかし、

その、大人の言う言葉自体が、嘘なのだ。


大人の嘘の言葉を信用して子どもが成長する。


その途中で、嘘というものに直面するきっかけに何度も遭遇するだろう。

嘘?

大人は、いつも、嘘ばかり。

嘘。


嘘が無ければ、この世は成り立たない。

嘘。

世の中、嘘ばかり。


嘘をついてもいいんだよ。

じゃあ、なぜ、大人は、子どもに嘘をついてはいけないなんてことを言うの?

大人の事情。

子どもを馬鹿にした、エゴだね。

人間の中のシステム。

いや違う、その大人が子どもを馬鹿にしたエゴの中には、
嘘の中の本当の嘘と、本当の真実を見極めるための課題を与えるために必要な指導法なのだよ。


だから、あなたは、もう、嘘をついてもいいんだよ。

なぜ?

悪い嘘と良い嘘があるから。


正しい嘘には、前向きに生きる力がある。


幸せになるために必要な嘘があるから。

世の中が豊になるための嘘があるから。

嘘の中に真実があることを知っているから。

嘘の中の本当嘘と真実を見わけることの出来る知恵があるから。


※記事文中の「あなた」「お前」「おまえ」の二人称は、
             全て「私」「己」の一人称のことであります。

【名字の言】人生を確かに生きるひとしずく
   

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宗教という袈裟に弱さを隠す驕り高ぶるもの


宗教に頼ることの人間の弱さ。

信仰を語らなければ、自分を語ることの出来ない宗教に頼ることの人間の弱さ。

弱い人間が偉そうに宗教を語る。

これって矛盾してない?

矛盾を矛盾と思わずに、面の皮を厚くさせる人間。

驕り。

弱い人間が宗教の袈裟を来て偉そうに、見栄を張って語る人間の浅墓さ。

宗教を分かったように語る人間。

宗教を威勢よく偉そうに語っているけれど、己の中に語るものの大切なものがものが無いから、

その宗教を己の弱さを隠す為の隠れ蓑に使うのですよね。

この世の中で、正しい最も己を強く輝かせてくれる信仰を汚される。

絶えられない!

正しいものの本当の姿を、汚く汚れた人間に語られるなんて、耐えられない。

重いものを耐えられないほど、軽い人間が、その中身も知ること無しに、受け売りする人間の愚かさに、辟易する生命に縁しなければならない事の意味。

怖い事と知らずに、恐れを知らない愚かさ。

絶えられない。

人生の怖さを知らぬ物の愚かさ。

愚かを自ら築き上げる愚かさ。



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生きた言葉で正しいものを訴える


正しいものを、正しいものとして、みることの難しさ。

正しいものを、正しいものとして、訴えることの難しさ。

正しいものを、正しいものとして、理解する、理解を得ることの難しさ。

正しいことなのに、誤解を受ける。

そして、なぜ、わざわざ、世の中に、訴えなければなばならないのか?

これらのことから、世の中の人間の心の中の、ひずみや、矛盾を映し出す、一端を垣間見る思いがする。

「自分自身の感動や喜びを「生きた言葉」で語れば、それは相手の胸にも届いていく。」 
今日の名字の言:下記参照

正しいものが、伝わらない一つの因、また、誤解の因は、こんなところにその「因」が、あるのかも知れません。

『柔よく剛を制す(じゅうよくごうをせいす)』を、己の人生の座右の銘にする人もいるでしょう。

その人が、正しいと感じるもの。

しかし、己を高める為に存在する信仰心は、更に高いものを目指す。

正しいものから、より正しいものを求める。

より正しいものを求める心があれば・・・。

「柔」と「剛」を備え、「火」の強さの如く、「水」の流れの如く、この両方を備える。

理解と感謝と尊敬。

己の信仰は、全てを合わせ持つことを得る為の修行。

一人の人間の中に、全てを持ち合わせることの意味を悟る為の命。

高い境涯を得る為の実践。

信仰によって、現実の意味を知り、己の存在を知る。

全てのことから「気がつく」学びは、相対するものに対する、尊重、尊敬の気持ちから生まれるものこそ、正しいものの選択により近づける、心の鏡、生命の中の真実を見抜く目を養っていくことが出来るのかもしれません。

人間が生きることは、「気がつくことの深さ」を、目には見えない心の鏡に映し出し、生命の真実を見抜く能力を高めてゆくこと。

人間が人間らしさを求めることは、人間が人間である理由の一つでしょう。

「正しいものを求める生命。」

正しいものとは、人間が人間らしく生きる理由。

それには、まず、己が何者であるか?

己を知ることから始まるのでしょう。

自己確立。

「正しいものを求める生命。」

どんな人間の中にもそれは、絶対に、存在している。

だから、信仰がある。

だから、世の中に多くの人に受け入れられる宗教がある。

己の信仰心に目覚め、正しいものを伝えたいなら、正しいと信じるものを広めたいなら、己を変える。

正しいものが伝わらないなら、更に、己を磨く。

己を更に高めて、己の姿と言葉で伝える。

借りた「物」や「人」を利用して、簡単に広められる程、その「人」や「物」が、迷惑なものは無い。

また、信仰は、たやすいものではない!

正しいものが伝わらない、誤解を招く原因には、伝える者に、伝えなければならない事の本質が、己自身の生命の中に、まず、伝わっていないからかも知れません。

正しいものが、正しく伝わらないのは、受け取る相手に原因を求めるよりも、伝えようとするものの中に原因があることも、自身の中の鏡に映し出す必要があるでしょう。

それを映し出す鏡が無いのなら、己の信仰心の正しさを、疑ってみる必要もあるのでしょう。

正義を破壊するのは、己の傲慢の中から出て来る「虫」かもしれません。

「口先ばかりで、余計なことを言わんでいいから、ガタガタ言わずに、お前が、やったことだけを伝えろ!」と、昔、よく喧嘩をして、言われたものです。

そうかもしれません。

:今日の「名字の言」は、ほんまにええこと書いたはるでぇー。あんた、よく読んどきや。正しいことは、どこまでも「真実を言い切ることが大事」「いざという時に一歩踏み込んで語る勇気」。(私:)そうですね。そのいざという時に、その生命を発揮できる境涯を磨くのが、毎日の「信・行・学」のどれ一つも欠けてはならない実践なんですね。  「・・・、ガタガタ言うな!」

今日の「名字の言」の言葉(09/04/01)

「真実を言い切ることが大事だと、あらためて感じました」
「それは違うわ。事実はこうです」
「この前は悪いこと言ってごめんね。これからもよろしくね」
(※一つの誤解が、理解に変わる一瞬の生命の必要性を感じる会話)



・大切なのは、いざという時に一歩踏み込んで語る勇気である

・自分自身の感動や喜びを「生きた言葉」で語れば、それは相手の胸にも届いていく。






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己自身の姿を映し出す鏡を失ったものは、世俗にまみれ、己を捨てて生きてゆくしかないのだ。


「論より証拠」。

結果は、既に明らかにされている。

己の中で、「学び」や「気づき」という進化という「証拠」を残せぬもの達。

残せぬ限り、「栄枯盛衰」。

腐った木は、倒れ、滅びる。

必定。

極悪の中から、人間の尊厳に目覚め、改革の旗を立てる、悪を食む「身中の虫」が、現れないのなら、そこにあるのは、魂を失った抜け殻のみ。

もう「正義」は、どこにも存在しないのだろう。

正義を取り戻す、悪を食む「身中の虫」よ!い出よ!

ルネサンスを起こせ!

闘うべき相手は、「こちら」ではない!

戦うべき相手は、「そちら」!

己自身の中にある。

不可能なことなど無い!

共同戦線は可能だ!

己の再生と、置き去りにされた、「慈悲」の精神を目覚めさせよ!

短いスパンにおける厳然たる、因果の理法による現状を、正視し、対峙せよ!

いかさま師のごとく、論によって、論をすり替え、そして、汚い、汚れた己らの証拠を、暗闇に葬り去ろうとして、どこまでも墓穴を掘り続けるもの達。

必然的な「正義の拡大」によって、邪悪は、世界の片隅に追いやられ、醜い者たち同士の濃縮された血によって、自らを蝕む病によって、自らを葬り去って行くのだ。

腐敗した「塊」。

「再生」へ、そして「蘇生」へ目覚めぬ限り、歩み寄りの心は芽生えない。

己自身の姿を映し出す鏡を失ったものは、世俗にまみれ、己を捨てて生きてゆくしかないのだ。

与えられた、チャンスを、自らの手でつぶすあまりにも愚かな人間達。

誰が、攻めずとも悪は、結局、自ら自滅する。

一人の、己の中に存在する生命に問わぬ限り。

:なんのことかわかりにくいのですが、「善と悪の相対性理論ですか?」(・・・余計にわからん。)『坊主が、屏風に上手に坊主の絵を書いた』



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傲慢 謙虚>知は力では無い!能ある鷹はつめ隠す知恵


知は力なり

知識は力というけれど、「知識」はあっても、「知識」の使い方を知る為の『知識』を知らねば、その「知」は、本当の力として発揮されない。

知識を得たとしても、無駄に、知識を振り回すだけでは、一体、生きてゆく上での、目的さえ見つけ出すことが出来ないという人が、世の中の、多くの現象に見てとれないだろうか?

確かに「知識」は、力にはなることはある。

しかし、その知識は、何の為?

頭でっかちな知識だけが、たくさん詰まっている脳味噌(みそ)の中に、法律の文書が、山ほど詰まっていたとしても、「幸せ」を決める材料にはならない。

知識だけでは。

その知識を、確かに生きることに役に立つように、振り回すために必要なものは何か?

「知恵」。

でも、「知識」の集積が、「確かに生きる知恵」になる人もいれば、「知識」の集積が、「確かに生きる知恵」へと、高めることの出来ない人もいる。

「能ある鷹はつめ隠す」

そんな風に思える人は、「知識」を知恵に変えることの出る人。

その人が、持ち合わせている「謙虚さ」は、「知識」から学んだ一つの「確かに生きる知恵」の形。

その「知恵」によって、知識の価値を高め、困難な状況でも乗り越えていける力。

知識は、人にひけらかす為にあるものではない。

己の知恵を磨く為にあるのだ。

薄っぺらな人生を生きてゆくのなら頭でっかちな脳「味噌」だけでも十分でしょう。

良く出来た性能の良い、「パソコン代わり」程度にはなるだろう。

単なる「道具」や「物」程度の価値として。

しかし、人間としての価値を高め、認められるためには「知恵」が必要。

人としての「人格」を高める要素。

「心」を高める、「心」を磨く、「心」を知る。

そして、己を知る。

己が何者なのかを知ろうと求め知識を集積してゆく。

「知恵」

そのあふれ出た「知恵」を、「慈悲」によって広め、更に、高める。

「英知」

そこに、辿りつくには、やはり確かな哲学を求める知識「欲」が必要。



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「努力は有限か無限か?」:パラドックス的ジレンマ


無駄で無意味と思える時間。

時間。

その時間こそ、本当は、とても意味のある重要な時間かも・・・。

その時間を噛みしめず、素通りしていくことに、私の鈍感さという、愚かさが、あるのかもしれません。

生きることの上で、振り返るべき大切な「宝」の原石をそこに見つけられず、本当は、大切な時間を忙しいと現実に流され、翻弄され、見失い、ただ、時間の奴隷になって生きてゆく。

私は、こうして、生きる上で大切なものを見失い、見ようとせず、そして、もう見ることさえ出来なくなって、人生を歩んできたのかもしれません。

『大切なものは、目では見えない、心で見るもの』と、誰かが言っていました。

その、『大切のもを見る』

時間。

私は、この「大切なものを見る時間」を、「無駄で無意味と思える時間」として、生きてきたのかも知れません。

何もわからなかった、わかろうとしなかった。

わかることの出来なかった幼い心と生命のままで生きてきた。

人間が生きる「時間」は、この世では確かに有限。

でも、見えないものを、見ようとする為に、「心と生命」の価値を高め、「創造する力と能力」を高める時間は、この世でいきる人間の有限なる時間を、高め、広め、濃く、意味のある時間に変える、「無限」に、変えていけるのではないのかなと思います。

己の中で時間というものの持つ意味を「無限」に変える革命。

己の中の、心と生命の革命は、現実の中で、誰にでも平等である、1秒、一分、一時間の、物理的時間の長ささえ、己の中で、無に、無限に、変革させてくれるのかもしれません。

時間を生かすも殺すも、今、この一瞬の、心を操る己の生命の姿で、未来の時間の一秒、一分、そして、一生を決定し続けているのでしょう。

私の中の幸せのヒントは、この私に、与えられた時間の意味を、命によって、一滴、一滴、ひとしづくを、生命によって、溜めていく、変えていくことに、一つ、一つ答えを見つけていけるのかもしれません。

『時間は有限、努力は無限』

でも、無限に広がるはずの努力も、生きているこの世では、有限。

・・・。

このパラドックス的ジレンマに陥りそうな、無限に広がるはずの努力の結果を、

「有限にするのか?」
「無限にするのか?」

私に必要なもの。

己の生命の時間を無限に変える、変えることの出来る哲学。

その生命哲学の確立。

借りてきた観念論など、必要ない!意味が無い!

頭でっかちの議論など必要ない!

全てを「妙」なるものの方程式によって、命で、生命で確立してゆく作業。

この世で、有限なる、目に見える人間という己の姿で。

妙法。

桜梅桃李の人生。

今を生きる。



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「戦争」とは、本来不必要な、己の業との戦い。人間が人間の「罪」によって、与えられた「罰」。


利用され、利用する。

利用して、利用される。

利用しているつもりが、利用されている。

この他にも、利用する側、利用される側の関係の奥深さには、生きるという常に本能的な切迫感の上で、さまざまな状況が日常生活において、繰り広げられているのでしょう。

生きるうえで、常に合理的に損得を、計算する社会においては、悲しいけれど、また、非情な世界でもあるけれど、現実でもある。

心の通わない、また、心を閉ざされた人間が生きる手段として選択する生き方は、経済のイデオロギーに、心を奴隷化させなければ、他に生きてゆく方法は見つけられないのかもしれません。

人間が人間として、生きてゆく為の「光」を遮る者、自らが「光」を遮ろうとしていることに気づかぬ社会。

しかし、現実にまみれた人間が、その自らの生み出した罪によって、疲れ、多くの病に苦しみ、現実社会の中で、己の誇りをズタズタにされ、その中で、苦しみから逃れようと、乱反射した、そのかすかな「光」のその先を、求めて生きる。

利用するものと、利用されるもの。

世法に基づく、世の中を生きることにおいての多くの場合、基本となる現実なのかもしれません。

人間が人間と関わる以上、常に、この関係が付きまとう。

このような関係は、ネットにおいてもまた然り。

利用するものと、利用されるもの。

しかし、このことに象徴される社会が、善か?悪か?などという、わかりきっているのに、答えの出ない議論をするよりも、このような社会が現実に、己が今を生き、生きていかなければならない社会なのだ。

善も悪も、己が都合よく考えだした言い訳に過ぎない。

答えは、私自身がこの生々しすぎる現実を、どれだけこの心で耐えて、命で更に強く鍛えるkことの繰り返ししかないということ。

ネットの現実は、はるかに世の中の現実を、リアルの何倍もハイビジョンさながら、人間の全部をさらけ出しているのです。

世の中の現実は、ネットの現実に比べれば、はるかに何十倍も安全なフィルターが仕掛けられているのです。

そのように、現実の現実を更にドギツク映し出す中で、己の生命の価値を引き出せるというのか!?

不可能のようにも思えるし、また、いくらかでも達成感を味わえれば、世の中の現実がいかに真実を映し出していないかが、冷静にクリアに見えてくるのだろう。

結局は、どの場所においても、そこに人間という生身が存在する場所で、人間の中の「戦争と平和」が解決出来ぬ以上、人間同士、世の中、世界の「戦争と平和」というテーマから、「戦争」の二文字が消えることは無いのでしょう。

「戦争」とは、本来不必要な、己の業との戦い。

人間が人間の「罪」によって、与えられた「罰」。



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矛盾と感じる己の心の矛盾

「いち、たす、いち」の答え

己を最も、成長させてくれる友とは、何か?

傷を舐めてくれる心優しい友か?

違う。

己を成長させてくれる最高の友とは、最強の敵のことなのだ。

「敵」がいるから、己が成長出来るのではないか!

その敵を攻めること、倒すことのみに、
心を労することのなんと無意味なことであろう。

その労する心で戦えば、戦うほど、敵が、強くなる。

敵と戦うことは、敵を勝たせることにつながる。

わたしは、一体何のために敵と戦っているのだろう?

敵に勝つためには、敵と戦わないことか?

なんという矛盾だろう。

矛盾を矛盾と感じる己の心が矛盾しているからなのだろうか?

いや、違う!

ただ、発するところの根本が違う、ただ、それだけなのだ。

それなのに、ただ、それだけのことが、分からない。

「いち、たす、いち」の答えが、命でわからない私。

【名字の言】人生を確かに生きるひとしずく

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生きている矛盾と疑問

堂々巡りのメビウスの輪

生きているこの世の全ての目に映るものが『方便』。

仮の姿、仮の世。

であるならば、「この世」を心を、通して見ているこの命、生命は、

現実なのだろうか?
真実なのだろうか?

それとも、方便なのだろうか?

結局は、全てが、この世では「無」に帰すのだろうか?

では、一体、何のために、この世の無常、無明を感じ、
この世の、存在を仮の世、方便だと信じようとする「心」が、「命」が、存在すると、
確かに言えることが出来るのだろう?

生命で感じるこの世が、仮の世であるならば、
「生命」そのものの、実体も無なのではないだろうか?

この世に、一体、何が、真実として、実在、存在しているのだろう?

どうどう巡り、「メビウスの輪」

【名字の言】人生を確かに生きるひとしずく

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現実の困難に立ち向かうほど憎しみや怒りの感情が消えてゆく

現実の困難に立ち向かえば向かうほど、

過去に対する己の心の中のわだかまりが消えてゆく。

許せなかったものに対する心の中の、憎しみや、怒りの感情が、
薄れていくのを感じます。

己の弱さ故に、
現実の困難から常に逃げ続けてきたあの頃。

その時、その時の現実を確かに生きられない
心のストレスのはけ口を、

己の生命の低さと弱さに、己自身が翻弄される
癒されない苦しみのはけ口を、

過去に己に背負わせた者の責任として、
身近なものに転嫁してきたのだ。

過去の己の不運と境遇を大人になっても癒す方法を
見つけることができず、心の中のわだかまりとしてくすぶり続けてきたのだ。

縁するごとに、過去に引き戻され、己の現在の境遇に暮れ、
悲嘆し、その過去を負わせたものに罪をかぶせる己は、
なんと卑怯者だったのだろう。

「最低の人間だ!」

「誰のせいでもない!」

苦しみの過去は、
与えられたものでもなければ、背負わされたものでもない。

「全ては、自らが求めた結果なのだ!」

「原因と結果」

この世で果たす為の、己の宿業、宿命。

「ならば、この世で、果たそう!」

己がこの世に、
生を受けた使命を求めに、求めて、一生を送る。

「この世は、誰の為にあるのでは、無い!」

「己の為に存在する」ものだと思います。

【名字の言】人生を確かに生きるひとしずく

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あるものが無いもの、無いものがあるもの

「あなた自身の、姿を透明にしてごらん」

「そうすればあなた自身の所有するものも透明になる」

「この世に存在するものなど無くなる」


確かに、今の世の中、目に見えるものばかりに
心を向けるけれど、本当に所有できるものなど、
目に見えるものには、無いような気がするときもあります。

「人間見た目!」なんて、綾小路きみまろさんが笑わせていましたが、
本当に、それが全てなんて思っている人もいるかもしれません。

なにが大切なのかは、
その人の中にある価値観によるもの。

それが正しいと信じている人は、それでいいのでしょう。

でも、私は、本当に自身にとって大切なものは、
「目で見ることは出来ない、心の目で見るものなのだ。」
と信じたいと思います。


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己の性癖について心を開いて知ること

世界に一冊のメモ帳

己の性癖というものに、
一体どのような心理的な要因が
心の深層心理の中にあるのだろう?

そのことから現在を知る、
そして未来を変える答えが導き出せるなら
私の私しか知らないその性癖を
暗い場所にとどめておく必要など無いのではないでしょうか?

お笑い芸人の鑑である「さんま」さんが、
よく言ってらっしゃった言葉の中に、
チンチンを触る癖のあるひとは、
「マザコン」なんですと断定しておられました。

チンチンを触ることと「マザコン」の関係。

なんとなく理解できそうですが。

もう少し、詳しく知る必要もありそうに感じます。

これは、チンチンという表現から、あくまでも男性の場合でしょう。

まあ、「マザコン」という言葉自体の対象が、
「男」を指す代名詞みたいに使われていますから。

男の「ファザコン」という言い方は馴染みませんね。

「尊敬できる父を慕い思う」という意味で、
敢えて「ファザコン」という言葉を男が親に対して
感じることが出来るならば、
それは、親子関係の理想かも知れません。

「潔癖」から「潔癖症」>かべ「壁」がやまい「症」に

【名字の言】人生を確かに生きるひとしずく

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私が私らしく生きられるように:疑う心より信じる心


目の前の現実を「いつもニュートラルな心で見つめる」と言うことは、もう出来ないことなのでしょうか?

いつも私の中には、私の心で見る、色眼鏡がある。

生まれる前から・・・。

生まれて、生きてきた中で私の中に塗られた色。


数日前に、送られてきた一通の通知。

「う~ん」

一応、心当たりのあるところから送られてきており、案件の内容についても、大方、不審な点は無い。

「でも、気になる。」

詐欺かな?

プライバシー情報を盗んできて、振り込ます詐欺かもしれない・・・。

「請求金額」や書面の内容など、なんとなく素っ気無い。

やっぱり怪しいのかも・・・。

もうどんどん、世間の社会面でよく頻発している詐欺事件の数々が頭の中をめぐって行きます。

そうなると、もう、私の中で、これは怪しい書類。

相手は、怪しい会社。

疑い深い私の本領(?) 、

本性が発揮されます。

確かな、きちんとした手続きで書類を送ってきているかもしれないのに、私の心の中に、そんな本領が発揮されては、問い合わせをしても、言葉がきつくなる。

相手に質問する私の言葉の中に、あからさまに、相手を信用しない言葉が、私の中から出てくる。

「本当ですか?」

「間違いないですか?」

また、相手の話す、言葉尻を逃さない。

散々、聞いても私の中ではスッキリしない。

それは、何故か?

これは怪しいと決めて付けているのに、怪しい答えが出ないから。

「なんかおかしい?」

それは、逆にいえば、詐欺でもないんでもない、正当な請求だともいえるのに。

結局、

「まあ、それなら、間違いないんだろう・・・。」

「じゃ仕方がない払おうか。」

・・・・。

『物を見たら、疑ってかかる。』

『人を見たら、疑ってかかる。』

これが私の生きてきた人生の中で、心の中に付けられた一つの色。

「色にすれば、さあ、どんな色だろ?」

綺麗な色では、ないでしょうね。

でも、こんなことがあるたびに心がなんとなく暗くなるような,疑い深い、己の心のなんと狭いこと、かと自己嫌悪に陥ったりして。

物事をニュートラルな心で見つめると言うことは、なかなか難しいことだと思います。

相手を余計な先入観なしに、物事を見る。

そのものを見るということ。

だからこそ、物事をニュートラルな「心」で見つめることが出来るように、妙法に向かい、ニュートラル(無)な己の生命に向かい、己を高めるための闘いが必要なのだと感じます。


先ほどのことから感じたことは、物事の原点から発するものは、全て「善」からでなくては、己の成長に繋がらないのではないのかなと思います。

「疑う心より信じる心」

信仰者として、全ての現実を受け入れるのに、「疑う心」から始まるようでは、まだまだ未熟者。

いえ、全然、己の人間革命、宿命転換の道は遠い先のことかもしれません

私の、目の前に映る物全てをニュートラルな命の、心の世界で見つめられるように。

私が、私らしく生きられる為に。

桜梅桃李。

今を生きる。



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