全ての現象から己を語れる信仰心~過去・現在・未来の生き様

世界に一冊のメモ帳・ひとしずく

信仰とは、あらゆることを通して、己を語るということが大切なんだ。

私を語る。

私の中の信仰心を語る。私という生き様を語る。

己の生き様を通して、己の信仰を語る。

一人の宗教とは、己の生き様そのもの。

何のための信仰なのか?己の信仰心を究極の哲学に高めるため。
己の宿命転換のため。己の自己確立のため。

そのために現実のすべがある。
同時に理想とすべき全てがある。

2009年7月31日の今日の「名字の言」

「青年の月」7月。各地の青年の活躍を耳にした。神奈川・横浜の男子部員の体験も、その一つ。彼は語っていた。「本当に不可能だと思える中を勝ち抜いてきた池田先生の大闘争。それを思えば、自分たちは絶対に負けられない!」。

30代で上場企業の役員に。だが突然の解雇。目の前が真っ暗になった。そんな折、名誉会長の青年時代の苦闘を本紙で目にした。以来、「断じて勝つ!」。懸命な唱題を重ね会社訪問を。目標の題目を達成した日、前の職場以上の好条件で再就職が決まった。

若き日の名誉会長は病弱な身体で、師の事業の再建と学会の組織拡大に死力を尽くした。「信心というのは、こういう試練を経なければいけないのです。社会の荒波を乗り越えなければならない。その目的のため、あらゆる苦労をしていった」と述懐する▼1950年(昭和25年)8月。師の事業が業務停止のやむなきに至った当時の日記には、「苦闘の一か月であった」「生涯、今日の日より、苦しいことは、少ないことであろう」と綴られている。
「大きな苦しみは、魂をとてつもなく大きくする」(ユゴー)。苦境を勝ち越える中で、広布の大事業をも発展させてきた名誉会長。その闘争が、今も青年の原動力となっている。(薬)

【聖教新聞】 「名字の言」より

■名字の言~人生を確かに生きるひとしずくの言葉



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無限の拡大と収束

生きてきた人生の中で、己の目に映る、心に反映された全て。

人生の中で、感じたことの全ては、その過程でふくらみ続ける。

しかし、あるところで、あることを契機に、その無限に膨らむものは、収束を始める。

収束。

この収束の意味。

人間が人間として、坂道を登る過程。

坂道を転げ落ちる過程。

そのいずれであろうと、無限に拡大し続けるものは、必然的に収束を始める。

法則。

人間の中の法則。

その法則が、人生を決定付ける。

幸せな人生を決定付けるための法則とは、一体、どこに行き着く?


『名字の言』について~人生を確かに生きるひとしずく

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己のまさかを現実に実現するための哲学

世界に一冊のメモ帳・ひとしずく

現実において、常にどんな時も前向きな、生きることに価値のある心を働かせることの出来る生命。

心と生命が一つにつながっていることの出来る哲学。

己を高めることは、己の哲学にしたがって生きることを生命から心へ、心から生命への流れが止まることなく、現実の中で断ち切れずにつながっていること。

「まさか」を現実にすることの精神と心は、確かな哲学に基づく生命の発露から出たものの結果。

己の「まさか」を現実にするのは、己自身の生命の変革しかない。


2009年7月30日の今日の「名字の言」

ベートーベンの傑作の多くは、聴覚を失った後に作られたものだ。その一つ、ソナタ「ハンマークラビーア」は長大で、演奏が極めて難しいといわれる。この曲を、全盲の日本人ピアニストが先月、米国のコンクールで見事に奏でて優勝した。こうした報に触れると人間の限りない力に圧倒される。

山口県のある壮年部員は大病を患い、7年前、聴覚と両下肢の自由を失った。だが懸命に祈り、「何かで一番に!」と奮起。陸上競技に打ち込み、全国障害者スポーツ大会(砲丸投げ、ソフトボール投げ)で日本一に輝いた。彼の勝利に友人たちも沸いた。

自分が頑張れば周りも元気になる。努力の醍醐味を知り、学会活動にも全力で挑んだ。筆談、手話にも挑戦し、300人以上に仏法を語った。

その後、奇跡的に聴覚が戻った。本部幹部会(4月)の中継会場には目頭を押さえる彼の姿が。「もし耳が治ったら、一番に池田先生の声が聴きたい」との願いもかなったのである。

負けない信心、尊い友情、最高の師匠――そのありがたさを彼は痛感した。いずれも、苦闘の中でつかんだ「心の宝」。「悩みをつき抜けて歓喜に到れ!」(片山敏彦訳)とは、ベートーベンの魂の叫びだ。何があっても前へ進む日々でありたい。(誠)

【聖教新聞】 「名字の言」より

■名字の言~人生を確かに生きるひとしずくの言葉


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マイナスをプラスに変えることの出来る生命の妙

世界に一冊のメモ帳・ひとしずく

今こそ、生き方の底上げだ。生命の底上げ。

絶対的な境涯をたかめるための儀式だ。

人間を馬鹿だと思う、己の「業」。己の「傲」。

その二つの「ごう」を見抜けよ!叩き潰せよ!乗り越えろよ!

人間の馬鹿と利口を区別する己の生命の低さ。

人間の見えぬところに潜む己の傲慢。

憎しみや恨みは、前向きに生きるエネルギーになる。
マイナスのエネルギーも、プラスに変えることの出来る哲学と己の中の信仰。
今という、現実を生きる為の壁を、ハードルを越えるエネルギーとなる。

2009年7月29日の今日の「名字の言」

大阪・枚方市の香里ケ丘一帯では戦前、火薬や砲弾が造られていた。製造所の煙突の一つが、今も「平和の記念碑」として残る。

第2次大戦中、製造所には、数百人もの女子学生が動員され、爆弾造りの労働を強いられた。粗末な食事のため、多くの学生が栄養失調に陥った。武器製造のために青春の貴重な時間を失ったのである。(日本経済新聞)

関西創価小学校の校舎は、その煙突の近くにある。毎年、小学3年生の児童が煙突を見学し、戦争の悲惨さを学ぶ。平和学習の一環である。同校での、ある年の平和記念集会は、こう締めくくられた。「かつて、戦争のための道具を作り出した場所に校舎はあります。私たちは、平和のため、世界へ飛翔しゆく使命を果たしたい」。

戦争は、青年の未来を奪う。だからこそ、その悲惨な経験を、どう未来へ生かしていくか。平和への情熱を、いかに若い世代に継承していくかが重要である。関西創価小の取り組みは、その小さな挑戦であろう。

創価学園創立者の池田名誉会長は、かつて学園生に語った。「(私は)『絶対に人類は平和であらねばならない!』と祈り、戦い続けてきた」と。次代を担う青少年の心に、平和への闘争心が燃え続けることを期待したい。(芯)

【聖教新聞】 「名字の言」より

■名字の言~人生を確かに生きるひとしずくの言葉


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賢者はよろこび愚者は退く>今日の「名字の言」

2009年7月28日の今日の「名字の言」

徳川家康にとって「過ぎたるもの(分不相応)」と、敵将・武田信玄の側近から羨望されたものが二つあった。「唐の頭(=唐牛の毛で飾った兜)と本多平八(=本多平八郎忠勝)」である。

本多忠勝は、家康軍団で「最強」と謳われた武将。重装備で防備に気を使うより、機敏に動き、攻めて勝利を開こうと、軽い鎧を好んだ。戦場に臨むこと五十余度。常に先陣を切りながら、傷一つ負わなかったという(「歴史街道」)。

自軍が全滅の危機に瀕した時のこと。乾坤一擲の敵中突破を図り、家康の本隊を無事に帰還させた。 「死中にあっても活路を開く!」 「あくまで攻める」――戦地に身を置き続けた無双の勇士の精神であった。

広宣流布の闘争も同じだ。日蓮大聖人は「権門をかっぱと破りかしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ」(御書502ページ)と。強敵に対するにも「賢者はよろこび愚者は退く」 (同1091ページ)と、前へ進む姿勢を貫かれた。

「攻撃することが勝利の要件」「いかなる戦いにおいても『守り』『受け身』に回ってしまえば弱い」とは池田名誉会長。どこまでも折伏精神、攻撃精神で進むことだ。死身弘法の師に続き、堂々と戦い抜きたい。そして、勝利の道を切り開く勇者でありたい。(薬)

【聖教新聞】 「名字の言」より

【名字の言】人生を確かに生きるひとしずく

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過去と現実の全てを宝に変える妙法という賢者の石


人を憎む、己の宿業を呪え!

己の生命が憎い!

もう!人を責めることから、卒業。

人を責める己の心を責めよ。

己の生命を高めよ。

人に対する憎しみは、己の宿命の深さゆえの生命の低さ。

なんと哀れな己の宿業であろう。なんと汚い生命であろう。

小さく、幼い、原始的な生命。

その、人を憎み、恨む、己の生命を呪え、憎め。

己の宿業にまみれた生命を憎んだ分だけ、恨んだ分だけ己の宿命転換につながる。

過去と現実の全てを宝に変える、妙法という賢者の石によって。




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師恩・報恩感謝に生き抜く誓い:体験談


報恩感謝に生き抜く姿は仏法者の信仰の深さを知るバロメーター

私が、人生の師と仰ぐ人のその言葉の中に、「人間が人間らしく生きゆく」為に、必要な「報恩」ということについて述べておられました。

「恩」のなかでも、とりわけ大切な恩は、 師の恩 「師恩」であります。「師恩」とは、すなわち、仏法を教え、人生の規範を示す師匠の恩であります。と述べられた後、戸田先生の指導を引用されて「現在の世相を見ると、人の道である「知恩」・「報恩」を貫く者は、ごく稀となってしまった。忘恩から、社会の乱れが生ずるのである」生み育ててくれた「父 母」の恩を忘れてしまえば、家庭は乱れる。当然のことだ。「恩知らずから、魔は動く。恩知らずから、堕落は始まる。恩知らずから、畜生になる」


この指導を聞いて、常に「報恩」という感謝のできる「命」は、信仰者として、自身の今の信仰の深さを知るバロメータになるのではないかと感じます。私は、この指導を聞いたときに、私の心の中に、過去に塗り固めて蓋をしたかのように思えた、両親に対する心のわだかまりのような重い荷物が、心の奥底から浮かびあがってくるのを感じました。

そして、現実の悩みと共にどうしても心がそこから離れる事が出来ない自分がいるのです。今、信仰に目覚めたと確信しているにもかかわらず、最高の信仰を与えてくれた両親に対して、この突きつけられた「師恩」を素直に感じられないこの「命」。

自身の中で、過去に蓋をしただけの、解決などされていない、親に対する許すことのできない心の「おもり」に気付かされたのです。そして、そのことによって、自身の宿業の深さにまた、気付かされ「暗い苦しい過去の消し去ることの出来ない思い」突き当たったのです。

それは、その当時、自身の中で乗り越えられなかった、解決できなかった複雑な悩みだったのでしょう。正しい信仰を与えられたにも関わらず、いわゆる2世としての望まずに与えられた、信仰者の辿る道には、親の福運を素直に受け継ぎ、更に自身の幸せを増す人生を送れる人もいれば、その親から受け継いだ物だけでは無い、自身の宿業、宿命の深さによって、逆にこの世で更に、業を深める人生もあるのかもしれません。

己の人生を大きく左右する信仰を与えた者である父親と母親。その同じ信仰を受けたにも関わらず、父と母の大きく違う信仰者としての姿。父自らが進んで受けた信仰にもかかわらず、人として、また親として、自らが子に与えた責務を果たさず、自らの宿業からも背き、逃げ続けた者の姿。

当初、その父の入信に猛反対し続けたにも関わらず、自らの宿業をこの信仰で乗り越えることに覚悟を決めた母。しかし、母親のそのあまりにも純粋と熱心すぎるがゆえに、日々、生活の為と学会活動に没頭し闘う、母親の姿は、本来の、一家和楽の信仰ということからすれば、一面では、盲目的であり、家庭を犠牲にしていたことは、否定できないことでしょう。

そのように映る、当時の子供の心の中には、様々な信仰上の「不満」や「不信」が、2世として自ら望むと望まざる形で信仰を与えられたが故に、捌け口の無いものとして、心の中に形成されていったのかもしれません。

当時を振り返り、父親の信仰の途中において、退転せずとも、現実の苦しみや悩みから否定的に逃げる姿、また、逆に母親の前向きに突き進む姿を目の当たりにして、本来、家族の絆や暖かさという大切なものを学ぶべきときに、その家庭の事情から、二人の争う姿を見て来た者の心の傷は、小さくは無かった筈だといえます。

それは、当の二人の宿業の深さゆえに、そのあまりにも対照的な二人の、信仰者としての人間革命に向う途中の姿は、己の宿業と現実の苦しみに翻弄され続ける生命の境涯だったのかも知れません。与えられただけの本当の信仰心が芽生えてない私にとっては、信仰は、義務的に形式だけの、タダの「お題目」に過ぎなかったのかもしれません。

今、思えば、その争う両親の姿を、信仰に目覚めていない私が、妙法の観点から二人の姿を俯瞰して自身の信仰心を呼び起こすための「大切な因」として悟ることが出来たでしょうか?形ばかりに与えられた観念的なお経を、読む知識だけはあるばかりに、本来の命で解決するべきことを、観念的な知識で自らの不平、不信、怒りを封印してしまう方法で、蓋をしてしまったのかも知れません。本来、何一つ解決していない、心の重荷を表面的にやり過ごす、ずる賢い人間になっていったのでしょう。

親達が、己の宿命に翻弄されるがゆえに、与えられし者は、更に、生きることの現実に、確かなものを見出せず、翻弄され一層苦しみの宿命を負わされるのかもしれません。その受けた傷が、信仰を与えられた上でのことであるだけに、信仰の上でも解決されない、長年に渡る両親の不仲という現実は、自身の中でこの信仰に対する、そして学会の組織に対する、無意識のうちの疑問と不信につながり複雑に絡んでいったのかもしれません。

とすれば、本来その信仰に自らの傷を癒すべきところをその場所に見つけられなくなってしまうことは、今思えば、自身の宿業の深さを痛感せずにはいられません。人間が生まれてくることに、意味があるのと同様に、妙法を与えられることにも意味ある。

また、今、ここにこうしている自身の全ての現実が、妙法においては、必然の結果。全ては「原因」と「結果」だということも理解できます。

とするならば、こうして過去に封印していた重い荷物を引き出させて悩みとして再び突きつけられる事は信仰を高めるための必然的な宿題なのだと。

解けていない宿題を再び掘り起こされる「悩み」には意味があるのだと。解決できなかった悩みは、今現実を強く前向きに生きる為に必要な、逃げてはいけない苦しみなのだ。

一つの答えを導き出すために苦しんで、また、その苦しみの答えを求めるために更に深く辛い過去に戻る作業も信仰に目覚めたものとして自覚できる境涯になったことの証を立てるための儀式なのかもしれません。

でも、今こうして、自身の中に芽生えた信仰心によってその過去の重い荷物を広げてみれば、こうして望まずに「妙法」を与えられたことは、まさに「報恩」の中でも最高の「師恩」に値するものだと今は感じることが出来ます。

その最大の縁は父親がいなければ、与えられることは無かったわけです。

そうしてみれば、重い荷物も、その悩みを掘り起こすことによって、今は随分軽くなり、自身の中で前向きな力に転換できたのかもしれません。

「妙法」の正しさを確信出来る今、「悩み」を「妙法」に向って答えを求め続けることによって更に高い答えに導かれ、全ての過去は現在の悩み乗り越える宝になり、未来を前向きに生きる財産になるのだと。私の中で、本当の意味で信仰心が芽生え時に、与えたものの役目が果たされたことになり、過去の悩みの「原因」と「結果」が導き出されたのです。

この瞬間に、その親の信仰の姿で受けた心の傷は、大方、癒すことが出来、更に、「妙法」によって命の中の財産変えていくことが出来るのだと確信できます。「師恩」「報恩」の誠を尽くせる命の境涯は、広宣流布を目指す、自他共に、幸せを祈れる生命、人間革命の為に、妙法を求める信仰者には必要なのだと強く感じます。

2世として、信仰に関わる人を否定し続けてきた、私の人生を救ってくれたのは、本当の信仰に目覚めさせてくれたのは、私の場合、結局は、自身が否定し続けてきた、母の妙法に突き進んだ「生き様」後ろ姿だったのです。悩みに苦しみもがいても決してその答えが、自らの宿業の深さや、生命の傾向性によっては、前向きに働かない場合もあるかもしれません。

しかし、ひとたび正しい哲学を命に刻むことが出来たなら、何一つ恐れることなど無く「妙法」に向うことによって、人生の節目、生きていく過程において示される、悩み、課題、宿題を、己の絶対的な「金の財産」へと変えていけるのだと確信できます。

「悩み」について、仏法では、悩みがなくなることを目指していない。むしろ煩悩即菩提と説くように、悩みがあるから、悟りが得られると受け止めることなのだと説かれています。

妙法を受持したものとして「悩み」とは、信仰者として自身の中に、「生き様」「足跡」を残すことの出来る大切な宝の「原石」なのだと思います。その悩みや苦しみ、困難が起こった時にこそ、自らの中にある「仏」、「妙法」に南無し、求めることができるか否かで、自身の、今この一瞬の絶対的な生命の境涯が、試されているのだと感じます。

仏法とは、妙法という己の中に存在する「賢者の石」を用いて全ての悩みを心の財産、宝に変えていく作業の繰り返しなのだと確信します。

そして、今この一瞬の生命を、己の中で絶対的に高めるための修行であり、自身の宿業によって起こる全ての悩みや困難を、現在の、一瞬一瞬の最高の「生命」によって、更に、絶対的な幸福の境涯へ築き上げていくのだと感じます。

この記事は、2年前に私の信仰に対する変化を過去に綴ったものです。



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己の宿命転換の因は眼前にある

 目の前で溺れているわが子を見て、学会活動でこの子を救うのだ。この子を絶対に助けてみせる。そんな親がいるだろうか? いや、そんな風に学会活動をしていれば、溺れているわが子を助けることが出来ると、信じている人もいるようだ。

どんな理由で学会にそんな力があるという道理にたどり着くのだろうか。 溺れているわが子を見て、この瞬間に手を差し伸べて、命を助ける知恵を出すのが、この信仰であるはず。一体、誰が、そんな他力本願的な信仰を植えつけるのだろう。

己の宿業の原因が目の前にあるのに、そこから目を背け、楽な信仰活動を選択する者。組織の中では、そんな、信仰活動を、己の信仰心と履き違える者もいるようだ。

本来の戦うべき己の宿命の現実が見えなくなる信仰。正しい信仰にも関わらず大切なものに気がつくことの出来ない愚かさ。その愚かさを気づくべきはずの信仰組織の活動において、そのことを気がつくことの出来ない信仰活動に本来の宗教の意味は無い。

互いを高めることの出来ない信仰組織の中の活動に一体、なんの意味があるのだろう。空転する組織が悪いのか、己の中に無明を開く知恵に導くための信仰心を求める一念の無さ、生命の低さなのか。

組織の中の駒としてのみ働く人間。それも、宿命。気がつけるものは幸せ、気がつくことさえ出来ずに、操り人形の歯車として、この世の人間活動を終わるのか。

そんな人間達と縁するのも己の宿命。人間とは?

正しい、信仰にも目覚めることも出来ず、己の信仰心の確立さえも出来ず、己の人生を生き切ることさえ出来ない生命。 

歯がゆい心。


2009年7月26日の今日の「名字の言」

水を求めて移動するゾウの群れ。温暖化ですみかを失うホッキョクグマ。山すそを鮮やかに染めるサクラ――大自然の営みを圧倒的な美しさで伝える映画「アース」。昨年、ドキュメンタリーとして、異例のヒットを記録した。

極地、高地、砂漠――過酷な条件での撮影に、なぜ、耐えられたのか。共同監督の一人、マーク・リンフィールド氏は、本紙のインタビューに答えた。“それぞれの環境でのエキスパートである仲間を信じていたからできたのです”(昨年1月5日付)。

自分が仲間を信じる。仲間も意気に感じて全力を尽くす。この強い絆があったからこそ、難事業をやり遂げることができた。強固な信頼の絆があれば、人は大きな力を発揮するものだと痛感する。中国の古典『水滸伝』の中で、豪傑たちをまとめた宋江。彼が中心者になったのは「人物をとことんまで見抜く特別の力を持っていた」からだと、戸田第2代会長は語った。

自分の長所も短所も知り抜く指導者がいたからこそ、一人一人が思う存分に活躍できたのだ。私たちの周りにも、自分を信頼してくれている人が必ずいるものだ。その期待に対して「応えてみせる!」と心に決めた時、想像以上の力が発揮でき、勝利の歴史も開かれる。(行)

【聖教新聞】 「名字の言」より



■名字の言について~人生を前向きに生きる哲学の実践


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馬鹿になって悟りを開く

暗い心は現実に負けている己の弱い心が作り出しているもの。

現実が苦しくなればなるほど、生命のか輝きが増すのならば、
心に笑顔がどうして作れない。

現実の戦いの苦しさ故に、己の心の弱さを暗さで露呈するならば、
己を力づけてくれる人に対して、これほど辛さを与えることは無い。

人の幸せを願える生命を己自身で勝ち取りたいのら、
己の現実に深く沈んでいる心に負けるな!

苦しいからといって、己の心に、晴れない分厚い雲を敷き詰めて
悩み満ちたその心を撒き散らすそんなつまらない人間になるな!

信じて馬鹿になる。
己を信じて馬鹿になる。

苦しくても、泣いて生きるより、笑って生きるほうが
前向きな生き方ということは、誰にでもわかる。

わかるはずのことが出来ないのが、己の宿命。
生命によって強い心を更に強く出来ない生命の壁。
その壁を見抜いているのなら、馬鹿になって信じる。

間違いの無いものを確信しているのならば
もう馬鹿になることだけだ。

人間は馬鹿になって初めて、人の道を悟り、
更に、人としての階段を登れるのかもしれません。


2009年7月22日の今日の「名字の言」


若き豊臣秀吉の“三日普請”の故事は有名で、数々の小説やドラマなどで紹介されてきた。中でも、吉川英治氏の『新書太閤記』に描かれた内容は、示唆に富んでいる。

織田信長の清洲城の壁が、暴風雨で100間以上も崩れた時のこと。修復工事がノロノロと進まない。それを憂いた藤吉郎(秀吉)が、「三日もあれば」と普請奉行を請い請けた。しかし、前任奉行が邪魔立てし、老獪な棟梁らも怠けてばかり。藤吉郎は訴えた。「国の興亡は、実はお城にあるわけじゃない(中略)お前らの中にあるのだ。領民が石垣だ、塀だ、濠だ」。ただ国を思い、民を思う叫びが、棟梁たちを目覚めさせた。自身も一職人となって泥仕事。総力戦の突貫工事で、約束通り、わずか三日で修復した。

確かに、どんな世界でも“全責任を担う!”という必死の一人が立てば、劇的に道は開かれる。逆に、心の片隅のどこかに、他人を当てにする心があれば、物事は停滞してしまう。小さな一念の差が、大きな勝敗を決するのだ。御書に「一の師子王吼れば百子力を得て」(1316ページ)と。環境ではない。人でもない。自分が師子となって祈り、走り、断じて勝ってみせる! 本物の覚悟が決まった瞬間、勝利への大回転は始まる。(誠)

【聖教新聞】 「名字の言」より



■名字の言について~人生を前向きに生きる哲学の実践



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わたしが【ずっと避けてきた場所】:薔薇のない花屋

「ずっと避けてきた場所。」

「幸せの真ん中。」 


「薔薇のない花屋 第11話(最終回)」の台詞より



ずっと昔の頃から感じていたもの。

自分はいつも不幸でなければならない。

自分は幸せであってはならい。

なぜなのだろう?

私は、自分がほめられるのが嫌い。

親の目を気にしながら人からほめられるように、人の目を気にしながら生きてきたのに、人から、ほめられるとその場所から逃げたくなる。

幸せを求めて生きているはずなのに、幸せの真ん中にいることは許されないように感じて生きてきた。

不幸な人生こそが、私の人生。

不幸な人生が、私にとっては幸せな人生。

不幸が幸福で、幸福が不幸。

今、不幸の真っ只中で、幸福を感じられる。

これは、矛盾?

己を知ることによって、幸せを知る。

本当の幸せ。

確かな幸せを感じられる心。

その生命は、不幸の中で得られる。

「ずっと避けてきた場所」その場所とは、己自身。

「幸せの真ん中」とは、己の生命の真ん中にある。






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