勝負に負けて闘いに勝つことができる人生



見事な勝ちっぷりに驚いた!

そして、見事な負けっぷりに感動した!

退路を断ち、前進するだけの道を与えられた生き方こそ、素晴らしい。

そして、潔い。

「負けて勝つ」とは、将にこのこと。

勝負は、負けたときに、大勝利の因を掴むことが出来る。

勝ったときに、敗北の因をつくる。

仏法は道理、哲学、人が生きるこの世の真理。

勝負に負けて、闘いに勝った人の心と生命は、晴れ晴れ。

今、この瞬間、心の中に、一点の曇りも無いはず。

負けたあの人の笑顔はすがすがしかった。

感動した。

哲学で結ばれた同じ生命を感じ、確かなものをその結果から感じることが出来た。

勝負に負けて、勝つことができる人生。



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未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ


2009年08月30日:今日の「名字の言」

大変だと思ったことが、後から振り返ればたいしたことでない場合がある。反対に過去を振り返った時、その時は気付かなかった重大な変化を発見することがある――。この「時間の遠近法」を用いて研究を進めたのが、歴史学者のトインビー博士だ。

博士は“未来の歴史家が現代をどう位置づけるか”という観点に立って考察した(『試練に立つ文明』社会思想社)。今日という日が、どれほど大切な日であるか。それは“未来の視点”から眺めるとより鮮明になるものだ。

仏典には「未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(御書231ページ)と。未来を開く「今」の重要性を強調している。

かつて池田名誉会長は、「今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり」(同1451ページ)の御聖訓を拝して語った。「『今この時』に、死力を尽くして悔いなく戦い切ることだ。その名が、後世に『広宣流布の闘士の鑑』として輝いていくのである」と。

今日を悔いなく戦い切る。今できることはすべて成し遂げる。「私はやり切った!」と、すがすがしく大満足の万歳を叫べる人こそが人生の勝利者だ。私たちは歴史の傍観者であるよりも、時々刻々、自らの手で時代を創造していく「開拓者」でありたい。(糀)



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【勇気・知恵】 「知勇兼備」に「勇猛精進」で生きる


勇とは勇んで行動する勇気。

猛とは智慧の限りを尽くす執念。




勝負は戦う前から決しているとも言われます。

また、仕事は、段取り8分で決まるともいいます。

「知勇兼備」で「勇猛精進」に生きる生命を高めた人は決して勝負に負けることは無い。

勝ちに勝ちを積み重ね、勝ち続けてきた人がいる、証人がいる、証拠がある。

確かな哲学で、知恵を求めて勇気の意味を悟り、生命を高める。

確かな哲学は、「勇猛精進」によって、「知勇兼備」に生きることが可能となる。

妙法。

桜梅桃李の人生。

今を生きる。



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究極的な矛盾の融合「エゴ」と慈悲なる「愛」

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人間の「愛」を探求することで、「エゴ」という矛盾に突き当たる

愚かなる人間に、生の意味と力を与えるものは?

世の中を変える生命変革のドラマは一人ひとりの信仰心を持った一人ひとりの力によるもの




慈悲なる「愛」。

そこには、確立された己の中の「宗教」が存在する。

己の純粋なる「信仰心」のなせる業。

人間のもつ最高の善の表現。

エゴとは何か?

「エゴ」が、純粋なる「愛」を創るという矛盾。

それは、矛盾ではない!

「エゴ」も「愛」も一人の人間の中に存在する「悪」と「善」。

善と悪を持ち合わせる「人間」そのもの。

己の利己という「エゴ」を達成したいなら、宗教を持て!

己の自己を確立するための信仰心を磨き、高める。

「愛」を慈悲なるものにまで育てる。

「エゴ」と慈悲なる「愛」という矛盾を己の生命で乗り越えることが出来るのが、誠の真なる宗教。

人間が生きる矛盾を、人として生きる「道理」に変えることの出来る無限を開く生命の「哲理」。

己の中に確立された宗教は、哲学であり、生命の科学、宇宙の方程式に変わる。



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高い目標を達成するには、自身の境涯を高めるしかない



「人生の総仕上げ」という時に、その総仕上げをする為の正しい基礎と力となる確かな哲学が備わっていなければ、悲しいかな、己の集大成という満足に生き切ることの出来る報恩感謝の人生を残すことは難しいであろう。

未熟な人間の生きることの苦難を乗り越える過程は、集大成に近づくことが可能になる生命を創ることが出来る。

確実に死に向かう人間の最終章で、後悔、醜態をさらす人生は歩みたくないものだ。

この世は、一回きり。この世を満足に生きた完全燃焼の笑顔で死にたい。

この世の現実の垢を溜め込んで、全てに打ちのめされてクタクタになった壮年達よ。

ただの「おっさん」にならないで!

「壮年部の日」は、人生の最終章のスパートをきれるパワーと、心と生命の中に「青年」を取り戻す日。

2009年08月24日:今日の「名字の言」

仙台市の晩翠草堂を訪ねた。詩人・土井晩翠(どい ばんすい)が晩年を過ごした建物で、現在は資料館になっている。晩翠が生前使用したベッドも現存。枕元の高さに目線を置くと、窓の外に、緑の庭が見えた。

「晩翠」とは、冬枯れの時、なお草木が緑色であるとの意(広辞苑)。晩翠の筆名も「冬になっても木々の緑は変わらず、その成熟はじっくりと訪れる」との意味の漢詩の一節に由来する。冬に耐え、じっくり成熟する――東北の壮年部員の姿を思い起こした。

「人の役に立つ研究者になりたい」と20歳で入会。大学教員になるも研究成果が出ない。それでも諦めることなく、信心根本に精進を重ねた。苦節の末、博士号を取得。国立大学の教授に。近年、開発した新技術を世界が注目するまでに。人生の冬を勝ち越え、見事な勝利の花を開かせた。

振り返ってみると、「苦しいときこそ、学会活動に励んだ」という。高い目標を達成するには、自身の境涯を高めるしかない。これが学術者である彼の信念でもあったからだ。

きょう24日は「壮年部の日」。人生も広宣流布の闘争も、総仕上げが最も大事だ。豊富な経験と熟成した人格。壮年部の友ならではの力闘を期待したい。壮年こそ広宣流布の勝敗を決する最終ランナーだ!(城)

※記事内の太字は当方の判断で修飾されたものであり原文にはありません。





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絶対的な自己の確立:付和雷同の世相に流されない生命(自己)


民衆一人一人が力を持つ民衆主役

進取の気性

平等・公平を基本に、民衆と同じ目線に立つことの出来る人間とその社会が、世の中の繁栄を築いてゆける理想。

その理想を実現するために、社会の発展を左右するのは、一人ひとりの世の中を見極めていく、付和雷同の世相に流されない主体性。

そこに求められているは、その力を養う為の確かなものを求める心。

常に、人間としての学びと、気づける習慣を養うための謙虚な、勇気ある行動力を持つ者。

「進取の気性」。


2009年8月23日:今日の「名字の言」

戦国時代。堺は、世界的都市として、見事な発展を遂げていた。町を訪れた外国人宣教師は「堺の町より安全なる所なし」「町は甚だ堅固」「此町は(イタリアの)ベニス市の如し」と絶賛した。

その繁栄の因は何か? 強大な権力を持つ領主ではなく、町人たちが合議で町を運営していたから。いわば、民衆を基盤としたからこそ堺の繁栄はあったのだ。

だが黄金の日々は、長くは続かなかった。織田信長は重税を課し、豊臣秀吉は町にめぐらされた壕を埋め、合戦の際に放たれた火によって、町は焼き尽くされてしまった。

堺市は現在、大阪府で2番目の政令指定都市となっている。堺空襲など大きな惨禍にも見舞われたが、不死鳥のように蘇ってきた。町の発展の原動力は、今も民衆のエネルギーであり自治の精神、進取の気性であろう。広布の戦いにあってもそれは変わらない。関西広布史の中にあって、新時代はいつも堺から開かれてきた。

御書には「当世は世みだれて民の力よわし」(1595ページ)と。「民の力」を強めていく行動こそ、日蓮仏法の命脈である。その精神を継ぎ、今こそ我ら創価の連帯で、民衆一人一人が力を持つ民衆主役の時代を築きたい。そこに、それぞれの地域の偉大な発展もある。(立)





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「無我他彼此」な人間関係を築く:生命の独立自尊


「無我他彼此(がたぴしなし)」。

「独立自尊」



        「言論の自由とは自身の思想・良心を表明する自由を指す。
                  表現の自由の根幹をなす。- Wikipedia」

言論の自由は、何を言っても許される自由な社会?

意図的に悪意のある記事を書くことが許されるのも今の世の中の言論の自由?

良心とは、『物事の善悪を判断し,善をなそうとする意識』。

言論の自由とは、社会を良くしようとする「誠実」という2文字が根底にある表現の自由をいう。

「言論」は、人間が理解しあえる言葉を用いて、よりよい社会の「無我他彼此」な人間関係を作り上げるためにあるもの。対話を導くためにあるもの。

その人間関係を築き上げるために必要なものは、心と生命の「独立自尊」。

確かなる哲学は「独立自尊」を己の生命に築くことが出来る。

桜梅桃李。

今を生きる。


2009年8月22日:今日の「名字の言」

大阪市立美術館で開催中の福澤諭吉展を観賞した。諭吉は現在の大阪市福島区の生まれで、同市北区に墓所がある緒方洪庵に学んだ。“庶民の都”に縁が深い。

揮毫の右肩に捺す印に「無我他彼此」とあった。「がたぴしなし」と読み、人間関係などの円満さを表している。「我他彼此」には仏教思想が根底にある。あらゆるものが互いに依存し合っている本質を見失い、我と他、彼と此を対立的に見る愚行を戒めている。

諭吉といえば「独立自尊」が信条だが、決して孤立はしなかった。書の左下の落款印(雅号の印)には「三十一谷人」と。「三十一」を1字にすれば「世」(卅と一)になり、「谷人」は“人偏に谷”で「俗」――「世俗」である。

日々、世の人々に交わり、時に導き、近代化を推進した偉人が重んじたのが、「演説」と「新聞」であった。英語の「スピーチ」を「演説」と訳し自ら率先して実践した。日刊紙「時事新報」も創刊。声で、活字で、自身の主張を繰り返し展開した。

間もなく、8・24「聖教新聞創刊原点の日」。スピーチや随筆など、紙上に躍動する池田名誉会長の言葉に呼応し、言論の力を思いっきり発揮しよう。そして、わが使命の舞台で、歴史を開く対話の道を貫き通していきたい。(杏)

【聖教新聞】 「名字の言」より ※記事内の太字は当方の判断で修飾されたものであり原文にはありません。





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ネットのランク付けを崇拝する信仰者


ネットの中に存在するブログに関する「ランキング」というものの位置づけ。

「ランキング」を利用するものの目的とは何か?

ランキングを利用する者たちの双方の思惑。

そこにあるものは「利害の一致」と「アクセス」。

テレビの視聴率と同じ。「ランキング」と「アクセス」でそのサイトの価値を判断する一つの方法。表面的な人気サイトを自然発生的、また、人為的、作為的にも作ることが出来るシステム。

個人サイトは、そのランキングやアクセスで己の書いた記事の苦労を癒される自己満足に浸れ、商用サイトには、そのランキングをあげることでアクセスに広告収入が入る。

サーバーである運営者側は、システムを無料で提供し、利用者らが、必至でランキングサイトを盛り上げてくれれば、メンテナンスさえ行えば、グーグルなどの広告会社が高額な報酬をランキングサイト運営者に支払ってくれる。

わたし達は、利用されているのだ。

そして、それを知りながら、利用している。

愚か者は、知らずに利用され続け、大切なものを無料と引き換えに搾取される。

全て、ネット社会は利害関係によって成立している。

それでいい。

世の中の多くの「無償」という言葉に、その代償を求めない「無償」など存在しないことは解っている。

しかし、こと「宗教と信仰」にこだわる人間が、ランキングの上下や、今日、一日のアクセスに一喜一憂することのなんと浅墓なことか。

目的が浅墓で愚かなことと承知の上のことならまだ良かろう。

己の価値が、そのような数字一つの上下で、一日の訪問者数で、決まるなら「宗教と信仰」について、説教をのたまう人間の己らの汚さをそのランキングを通して知ることになれば、ランキングの存在も無駄にはならないだろう。

人間主義に生きるなら、数字という結果による世の中のランキングや序列社会を信仰崇拝するその汚い本性を隠すための正義面をして、信仰を語る愚かさと恥を知れ!

ランキングで、大切な価値を計りたいのなら、せいぜい人間を利用すればよい。

世の中の人間が作った最新のシステムを集めまくればよい。

正義と不正が混在する世界で、不正が不正をを増幅させる世界で、本当の価値を見抜ける人間など如何程のものだろうか?

形式主義の人間が、数の理論が世の中を表わす理論とするならそれでよい。しかし、卑しくも信仰者のはしくれを名乗るのであれば、そのような数字をひけらかす者は、己の信仰者としての低さを悟るべきであろう。

人間とは、どこまでも巧妙に、卑しき下劣な生き物であるという業。

どこまでも、知らず知らずの内に、人間を狂わせようとする信仰者の中に、うごめく魔。



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「形式にこだわらない信仰」にこそ自身の「生命を開く」真髄がある


「常勝」とは何か?

常に勝つ。

与えられたことに常に勝つことが義務付けられてる戦いなのか?

「勝つ」こととは何か?

一体、何に「勝つ」ことだというのか?

組織の中だけに、勝利する場所があるわけではない。

勝利する場所は、どこにでもある。

己が生きているこの現実に映る目のまえの全てが闘いの場所。

一人ひとり、己の信仰心を開くための闘い。己の生命を高めるための闘い。

勝ち負けは、己の「生命」に、勝負の結果を残せたものだけが勝利したといえる。

信仰者にとっての勝利は、己の外にあるのではない。己の弱さを、現実の世の中の現象に映し出して、その己の弱さに勝つこと。

戦いに勝つことは、何も結果を残すことだけを求められているわけではない。

勝負に臨むことの過程において、己の心が、生命が逃げなかったかどうか。

「エゴ」の塊である人間が、「人のために尽くそう」という純粋な慈悲の精神を発揮するためには、どれほどの己との闘いに挑まなければならないだろう。

「常勝」とは、確かな哲学を求め、己のきたなく、汚れた生命と、その汚い生命の根本と闘い続ける、己との戦いの毎日に勝つことをいう。

「形式にこだわらない信仰」にこそ自身の「生命を開く」真髄がある。

桜梅桃李。

今を生きる。



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【バカの壁】:己を信じる力を試される限界の壁

「限界の壁」とは、


どんな難しいことでも努力すればできるという自信。


徹底した努力と最後まであきらめないという執念。


「バカの壁」


「バカ」にも、「壁」にもいろいろあります。


養老孟司東京大学名誉教授の著書で、400万部を超えるベストセラーになり、流行語にもなりました。





芸人が知識と教養を磨こうとして、ベストセラーである「バカの壁」の最初の1ページを読んで、結局その内容を理解できず、著書の先を読まずに「バカの壁」の意味を悟ったなんてことを言ってました。(笑い)


己の中の「限界の壁」は、越えるためにある。


でも、壁なんて無い方がいいに決まっている。


壁が出来るのは、人間の努力を試されている時。


その壁を作らず、常に前進できるために必要なものは知恵。


眼前の現象から生きる知恵を受け止められる謙虚さが必要。


人間の欠点は、自分の欠点より、他人の欠点ほどよく見えるというところ。だからといって、その欠点を批判するよりも、その欠点が見える己の生命をそこに映し出せば、己の欠点が見えてくる。人の欠点ばかりが目に付く、己の心。


「壁」とは、己の心の「歪み」と「小ささ」と「狭さ」が作り出しているもの。


だから、そこから他人の良い点を見つけることに気がつくことによって、己を磨く努力に変える。


良い点を見つけ出せる習慣から、己が気がついたことを自分が真似てみることで、己の生き方にプラスに反映させていく。

人の欠点を批判し、あげつらうことほど傲慢はない。


その傲慢な態度に己の成長はない。

壁は越えるためにある。


でも、無い方がいい。


壁を、壁としない、常に前進できる生き方を実行するための哲学。

「どんな難しいことでも努力すればできるという自信」は、己を信じる力を、努力によって「確信」に変えることによってつくられる。


「徹底した努力と最後まであきらめないという執念」である。





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