「むかし、むかし」:ワンス・アポン・ア・タイム


・・・疲れたとき。

ふと静かにつぶやくため息。

「ふ~っ・・・」

「・・・あの時に戻りたい」

昔を懐かしむ思い。

切ない気持ち。

決して戻っては来ない。

惜別の思い。

・・・。

そう思うことはそれでいいのか知らん。

あの時のにおい、景色と風景が蘇る。

戻りたい。

わたしが生きたあの時。

思い出に浸る人間は、あの時と今を行ったり来たり。


~のために生きる。

大切な、~の為に生きた人生。

こんな、~の為に生きてくれたという証。

だから、~の為に生きられる自信。


ワンス・アポン・ア・タイム ・・・ 。

桜梅桃李。

今を生きる。

Ennio Morricone "Deborah's Theme", live in Warsaw


Once upon a time in America




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フィギュアスケート女子の浅田真央さんが銀メダル

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カナダのバンクーバー冬季五輪で、フィギュアスケート女子の浅田真央さんが、銀メダルを獲得されました。

オリンピックのメダルが決まった最後の演技の終了後の涙。

その意味。

金メダルでなく、銀メダルであったことは、勿論、悔しいでしょうし、残念だったに違いはありません。

けれど、浅田真央さんのコメントに、

「大きな舞台で、凄い経験ができた。」

と、オリンピックという世界の舞台で、得難い経験ができた満足感を、まだ、悔しさの残る直後のインタビューで、感想を述べていらっしゃいました。

大きな舞台。

その舞台に立つことの意味。

その舞台に立てることの意味。

その凄い舞台に、精一杯の持てる力を発揮するための自信。

その裏にある目に見えないものの数々。

表の舞台に立つための、その裏にある全ての価値。

表と裏。

裏が無ければ、表は無い。


「大きな舞台で、凄い経験ができた。」

その言葉は、彼女のこれまでやってきたことの強い自信。

そして、これからを生きて行く自信。

自分の舞台で。

「凄い」

この世で生きる人生の舞台。

その現実という舞台で、「凄い」を生きたい。

「凄い」という文字は、いつも感じるのだけれど、本当に「凄い!!!」と感じる字。

「凄かったね!わたし!」と振り返れる人生。

「凄い!頑張ったね、わたし!」と誉めてやれる自信のある人生。

己の精一杯を、出しつくせる人生。

幸せな人生。



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姉という存在

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私とあなたとは、なぜ、こんなにも違う人生を歩むことになったのかな?

同じところ、同じばしょで過ごしてきたのに。

何が違うのだろう?

わたしとあなた。

同じものを背負っているのに、なぜ?

こんなにも対照的に、光のあたるばしょと、くらいばしょを選んで生きることになったのはなぜなんだろう。

きょうだいというものは一体、何なんだろう。

さいしょから、たにんだった?

でも、同じばしょにいながら、本当は、どちらが必要な存在だったのだろう。

必要、不必要なんていうことを、間違っていることは知ってる。

大切な存在は、側にいなくなって、どうでもいい存在がいるのは何故なんだろう?

必要でないものが必要とされるのはなぜなのだろう。

必要とされていると思っているのは、私のかんちがいなのかな?

なぜ?

知ることの出来ない、越えることの出来ない溝。

知りたい。

わたしを知るために。

桜梅桃李。

今を生きる。



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強さを支える優しさ:定まらない心を定める

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生きる弱さは、そのまま己の死というものに向き合えない弱さ。

愚かさ。

死にたいと「思える」くせに、死というものに向いあえないことの矛盾。

死は、常に、生と隣り合わせ。

死ぬ時は、死ぬ。

人間が死ぬか、お前が死ぬのか裏表。

死にたいと「思える」ことの心の弱さ。

死について考えてみい。

死そのものと対峙する。

それは、死の価値を高める。

それは、生きるという価値を高める。

死を喜んで語る。 

語れることの意味から、生まれる知恵。

人間のあやふやな死に対する覚悟。

刹那。

中途半端な生き方。

死に向えない中途半端な生き方は、己の生き方の弱さ。

「死」を笑って語れる?

どんな死に方が、お好み?

死は、引き継がれていく。

永遠に。

その意味。

死の価値。

人は死というものと向かい合うときに、生きるということの大切さのその価値と意味を、ふたつくらいは、学ぶことが出来る。

死とともにもっていける【もの】。

もってはいけぬ【もの】。

死。

心は、常に定まることがない。

人間の中から心を消す。

人間を物として動かす心。

動かざること山の如し。

人間が山になる方法。

人間の中から心を消せばいいんだ。

都合よく。

出来るかな?

出来ないかな?

出来れば凄い。

心の弱さを支える、生命の強さを引き出す宝。

その生命の強さを、更に、本物の強さへと磨きをかけるもの。

本当の本物の優しさ。

その優しさは、忍耐によって生まれる。

その忍耐は、自らの宝によって、切ることの出来ない鎧になる。

そして、己の人間の中の弱さを、強い生命で、常に見つめ続け、

更に、その弱さを見抜く強さに磨きをかけることによって、

その優しさは、忍辱の鎧となる。

優しさが、この世を闘う武器になる。

本物の中の強さになかにある、本物の優しさ。

欲しい、得たい。

現実を生きるという約束、その引き換えに。

一人よりそれ以上の幸せを広げたい。

そう願えることの己自身の為に。

気がつくということが出来る宝の無限の大きさに、常に感謝できる心を失わず、

生きる強さと、優しさ、 思いやりと、感謝の出来る人生を生きたい。



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ネット中毒・生きる屍達よ


ここ数日間の私の書いた記事の中で【感情・怒り/ネット社会】のカテゴリー・テーマで書かれた記事の数本を削除いたしました。


ご訪問いただいた方には、とてもお見苦しい記事であったかと思います。また、残念な思いをされた方もいらっしゃるかと思います。


大方、残念な記事ばかりなのですが・・・。


この場を借りてお詫び申し上げます。


幾つかのきっかけが重なり、それらの記事を書くにつれ、冷静な状態で書いていると感じていたのもが、いつのまにか冷静を越えいることに気が付けなくなっている自分がいたのです。


「見えるものが見えない」という言ってみれば、前後不覚でお先真っ暗。


根本というもの。


それが崩れると、こんなにも流されてしまうものなのだということをまた知ることになりました。しかし、その感情に流されている自分というのは、その間も冷静の「つもり」でいる。


対象物の感情が私の感情に乗り移って、その渦に引っ張られるというように感じる感情の暴走。


自分は大丈夫だなんて思いながら、気がつけば、自分の心は、その対象と同じ状態になっている。


いえ、それより具合の悪いことに、それを、分かっていながら、尚、それでも気がつけない。


その感情の渦の中で書かれた記事は人が見れば、とても読めるものではなかったかもしれません。


それでも、記事を書いている自分というのは、正常だと判断している。


その削除された記事の中の一部に、「ミイラ取りがミイラになる・・」の記述がありました。


ネットの中の移動の怖さを指摘しておきながら、その書いている私自身が、ミイラ取りはミイラになりますよ。という指摘によって、私がミイラになろうとしていたのです。


ミイラ取りのミイラを指摘して、そのまた私が、ミイラになる。


感情の暴走というものの怖さ、また、大丈夫と思いながら、自分では気がつくことが出来ない怖さ。


一体、このようなことを何というのでしょう?


心の隙。


ネットの罠。


そんなものなのでしょうか。
 

いえ、違うのかもしれません。


感情の暴走と言うものは、そのスイッチと言うものをなかなか切ることが出来ないようです。


スイッチを切らなければならないというその制御さえ不能に陥ってしまっている。


一度、暴走しだすと、とことん。


そんな怖いエネルギー。


「風の谷のナウシカ」といアニメがありましたが、その中に出てくる王蟲(オウム)の暴走。


しかし、私の生命の歯車と、心がかみ合わなくなった暴走のエネルギーは、王蟲(オウム)の暴走よりもたちが悪いのではと感じました。


王蟲(オウム)の暴走は、赤い攻撃色を発します。


しかし、わたしの冷静を越えた感情の暴走、その攻撃色は青い色のままなのです。


何故かと言えば、そこには、まだ、その感情に、理性の糸が繋がっているといると錯覚している自分がいるのです。


その暴走を正しいことをしていると自分では勘違いしているわけです。


ミイラ取りのミイラを指摘し、助けようとして、私がミイラに陥っている状態なのです。


いやはや、なんとも・・・。


一体、私の報恩感謝と、今年の目標である、笑顔というその願いはどこにいってしまったのか。


残念なことです。


己の醜い本性を戒めるためにこのブログは存在しなければらない。


多くの素晴らしい人達のその姿を、もっと学んでいかなければならない。


他者を批判するという己の基準と言うものが、未熟であり、未完成であると言うことを前提で、このブログのTOPページの「はじめ」の欄に私自身が誓いながら、いつの間にか、いらぬ方向に向って刀を振り回しているのでした。


そのようなことで、今、その間の記事を振り返れば、痛いというか、苦しいというか、身もだえするほどのその記事の残存は、その記事掲載後のしばらくの間の期間を経て、本当の冷静を取り戻せるきっかけを得ることによって、更に、その冷静を得るための辛さと痛さの回復のための身もだえによって、現在。今、この記事を、「冷静」を持って書くことが出来ていると感じています。


今日の反省をもって日々、改めてまいりたいと思います。


ご迷惑をおかけしました。 サイト運営者



※記事内容につきましては、掲載後内容と一部削除、変更しています。


☆お断り


削除・不掲載とした記事に関しまして、現在、【ネット社会/雑感】として再掲載しています。


チクル徘徊から廃人へ
ネット回路の徘徊物
知っているのに知らんぷり
厄介で迷惑な偽者
血脈の証・紋章


再掲載の理由に関しましては、各記事をご覧ください。



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切っても切れない糸「絆」・失敗から学べる哲学

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切っても切れない糸。

目に見える糸ほど頼りなく、切れやすいものはない。

目に見えない糸ほど、強いものは無い。

見えないのだから、切れる筈が無い。

見える糸をあえて断ち切る。

その糸は、もう見える形で存在しなくてもよい。

見ようとするものだけが見える。

切れることの無い糸になる。

見える形で存在することによって、見えない糸まで見えてしまう。

そこに、余計な糸が絡んでくる。

余計な糸を絡ませたく無いのなら、その糸はもう必要はない。

見える糸を断ち切る意図は、その糸を大切にする証。

見える糸より、見えない糸。

絆。

その糸の先につながる大切なものは哲学で感じる確かな【もの】。

確かな哲学。

人間が、人間の中で人間として、より人間らしく生きる為の生きた哲学。

己自身の実践と検証と実証の中で得ることの出来る哲学。

確信の哲学。

生命の哲学。

不動なる哲学。

この濁悪(じょくあく)の娑婆世界をありのままの自然体で生きられる哲学。

それは心の自由。

生命の中の絶対的な自己確立を理想とする哲学。

成功と「失敗」。

栄光と「挫折」。

光と「影」。

己の中の大方の生きてきた「過去」の人生の「失敗」と「挫折」と「影」。

人生の躓き。

失敗には、現在を生きる力がある。

成功には、未来を創る力がある。

人生の失敗と成功には、永遠を生きる力がある。

輪廻。

そして、

転生。

有るのか無いのか。

あると思える生き方は、知恵を得る。

信じる生きたかは、己の生命を開く。

幸せに生きる方法。

更に更に幸せに生きる為の選択肢。

みんな誰でも幸せになりたい。

幸せに生きたい。

幸せに生きる方法探しのための人生。

成功と失敗の人生。

それは、瞬時に過ぎ去る「過去」から学ぶことの出来る「現在」と「未来」と「永遠」を生きる力。

その力を引き出せる己の中に存在する賢者の石。

その人生の失敗を人生の成功へと変える錬金術。

金の宝を生みだせる不思議な法。

桜梅桃李。

今を生きる。







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生命の花:十人十色・千差万別の世界

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夜空の星。

その星と星の間は、わずかばかりの距離だ。

己の目に見えるその☆と☆の間の距離は、両目の間に収まる。

☆と☆

文字にすれば、1センチ。

事実だ。

しかしながら現実にその二つの星の距離の間、目で見える星と☆の距離、それは、事実を現実で知ることが不可能なほどの遠い、光の単位の距離。

これが真実。

現実からみえる事実は真実を語るものではない。

「真理」とは何か?

無。

見えるもの見えないものは、全て無。

現実に映る全ての相対。

真実の中の絶対。

真理は一人に1つ。

人間の心のスクリーンを通して見える風景。

その風景は、心のスクリーンの後ろに備え付けられたプロジェクターにより映し出される。

心は、そのときの天気や温度によって歪んだり、破れたりして、プロジェクターによって投影される映像を正確に捉えらないときがある。

その色は、セピアによって古ぼけたり、時には、砂嵐のような傷だらけ。

大切なのは、その後ろのプロジェクター。

映像を送り届けるための生命線だ。

世界に一台。

宇宙に一台。

オリジナル。

そのプロジェクターを永久に使用しなければならない。

一人に1つ。

そのプロジェクターが真理を引き出せるかどうか。

その性能。

そのスクリーンが、その「真理」の中の「真実」を映しだし現実という、「事実」の中に表現できるかどうか。

その精神と肉体のキャパシティー。

全ては絶対的なものの組み合わせ。

十人十色。

己の心に映しだされる投影機によって見るものの世界は宇宙。

千差万別。

それぞれの繋がりと組み合わせ。

人間そのものの宇宙の世界と、もひとりの人間そのものの宇宙の世界。

その距離は、夜空に見ることの出来るその両目で収まる距離か?

それとも、何万光年も離れた宇宙の中の距離か?

己の中に導き出されるものは、単なる事実か? それとも真実か? はたまた真理か?

生命の花。

桜梅桃李。

今を生きる。



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明日があるさという人間に明日は無い

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今日出来ることを明日に持ち込まない。

今出来ることを後回しにしない。

今この瞬間を逃せば、その瞬間は、時間とともに既に永遠に戻っては来ない。

人間は過去には戻れない。

過去に戻ってその事実を消すことは出来ない。

残るのはその足跡のみ。

わたしの哲学は、今。

今日出来ることを、この今と言う瞬間にどれだけ凝縮できるか。

明日があるさという人間には、明日は無い。

楽観主義を騙るもの。

楽観主義を語る資格のあるもの、ない物。

今を精一杯生きない人間に、楽観主義を語る資格などありはしない。

所詮、己の不甲斐なさのいい訳だ。

あるのは、今だけ。

信じられるものは今この瞬間しかない。

昨日も、今日も、あってよかったね。

それは、今があるお蔭。

きっと明日もあるよ。

それは無い。

明日があるさと明日の存在に感謝するもの。

「喉もと過ぎれば寒さを忘れる。」

『雪山の寒苦鳥』

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」

人間。

それを他人事のように笑い話にするのが俗。

明日を創る作業をせずに明日はやっては来ない。

人間の弱さ、その性。

『雪山の寒苦鳥』

マイナスから学べる人間の生きる前向きな性。

プラスとマイナス。

現当二世。

挫折の先には、新たな希望の光が生まれる。

夢と未来。

未来を創るのは、夢。

夢を叶える。

叶えようとすることの出来る夢を持てる人は、それだけで、もう十分幸せ。

夢。

希望と夢。

夢と希望。

生きる為の目的と目標さえ持てない人間としての人生。

「何の為に生きるのか?」そんな意味を問い続ける無意味な人生。

夢があれば、

希望があれば、

現実を生きる目的と目標があれば、

生きる意味など問うはずも無い。

生きる意味を問う無意味な人生よりも、夢と希望を持てない己を問え。

現実に生きる目標と目的とその価値を見出すことの出来ない己を問え。

その答えを引き出すことの出来ない自己。

それは、己の中に確かなものの無い証拠。

その【もの】とは?



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心のリスタート:デイダラボッチは、神の化身か人間の象徴か

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心の再スタートをいつでも、きることが出来る。

心には、ゼロ地点が存在する。

己の生命の現在の地点を知ることが出来れば。

心を無にする。

心を無にすることは、生命の位置を知ること。

己というものの存在する位置を知らねば、心の動きを止めることなどできはしない。

自由自在とは?

それは、仏と神の領域なのかと思っていた。

それとも「霊」域なのか?

しかし、自己と言うものの中にもその領域と言うものが存在するようだ。

自由自在とは、瞬時にして「どこ」にでもいける。

天使にも悪魔にもなれる。

人間を生かすも殺すも自由自在。

デイダラボッチか?

デイダラボッチは神の化身か人間の象徴か?

人間の生命の奥底に隠された力が、神や仏を存在たらしめているのであるとすれば、そのダイダラボッチは人間が、作り出したものに他ならない。

自由自在になれる人間であるのならば、デイダラボッチの人を生かす力も人を殺す力もその本当の姿は、人間そのものなのだ。

昼間の姿と夜の姿。

昼は四つんばいで、暗闇に、二足歩行で本性をあらわすダイダラボッチ。

その二面性。

表と裏。

光と影。

まさに人間そのものじゃあないか。

生命が、作り出す人間のこころ。

その心を活かすのも殺すのも己のニュートラルに映し出される生命から見た己の姿を心に映しだすことによって、心のゼロ(無)を生み出すことが出来る。

無から大きなエネルギーは生まれる。

あるものから生まれない。

無いものから、無限の力は、生み出される。

創られる。

生命。




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臨終正念:人生に「まさか」の坂はない

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孤独な人間が、感じること。

「何で自分は生きているのだろう?」

一体、生きる意味がわからない。

たった一人の自分がこの世に、何の目的も無く生きているわけ。

生きる意味。

生きてる。

そうじゃあない。

人間は生かされているんだ。

生きているわけではない。

生かされている。

生かされているのだから、生きているなんて思うことは傲慢。

生かされているんだ。

一人じゃあない。

だから。

この世の全てのものに対して、感謝。

生きる意味は、そこから生まれる。

そこから、孤独は消えていく。

孤独な人間などいない。

今、必要なもの。

   生きる強さと、優しさ。 思いやりと、感謝。

今、これさえあれば、いいと思うもの。

   生きる強さと優しさ、思いやりと感謝。

わたしには、これだけあれば、後は何もいらないと思うもの。

   生きる強さと優しさ、思いやりと感謝。

後ろ向きな人生を歩んできた、人間が確かな宝と感じるもの。

   生きる強さと、優しさ。 思いやりと、感謝。

虚飾を生きる馬鹿な人間には、人間が人間たる最も大切なものを得ることをからとおざかる。

張りぼての飾ざられた「デコ人間」が、1つのパーツを得るたびに、大切なものが、ぼろぼろと零れ落ちていく。

最も大切なものが遠ざかる。

生きているときには、わからない。

この世の価値を知るものは、あの世の価値を知ろうとする。

死。

その瞬間、生きたこととは、何だったのだろう?

生きた意味がわからない人生の最後。

生きたことを感謝出来る最後。

生きる強さと、優しさと思いやりを持ち合わせた人生。 

報恩と感謝の人生。

臨終正念。

人間という、一人ひとりの絶対的な存在。

人間というものが集まる家族、社会と世の中。

その相対するものの中に、絶対的に確かなものとして存在する自己。

自己とは何か?

己とは何か?

己の命とは?

その存在の意味を問い続けることこそが、絶対的なものを求める証拠。

過去を生きてきたことを説明できる人生。

現在を生きていることを説明できる人生。

未来を生きていくことを説明できる人生。

己と言う存在を説明できる哲学。

今日、結果を出すために、今、この瞬間があるのではない。

明日、結果を残すために、今日という日があるのでもない。

生きて、いきて、精一杯生きた。

その生きたことが終わる瞬間、そのために今がある。

その瞬間まで、己そのものの宝を磨き続けることが出来るかな?

勝つのか、負けるのか。

「まさか」なんてことがあるはずはない。

人生にまさかの坂などありはしない。

まさかの失敗も、成功もない。

すべては、その瞬間に決まっている。

当然、「まさか」の人生の最後も無い。(だろう。)

あったら、おのれの道理にかなわん。

現実の人生には、テレビの効果音楽や「まさか」を作り上げる演出など何一つありはしない。

現実は、リアルであるからこそ、モノトーン。

現実は、現実しか映し出さない。

それ以上でもなく、それ以下でもない。

「棚ぼた」の「まさか!?」の人生に何の価値も無い。

桜梅桃李。

今を生きる。



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