私の大切な二つの宝


自らの運命は自らの手によって開く

当然、ブログにその思いを記事にして書くということでその運命が開けるというわけではありません。

未熟で鈍感な人間に必要な事は、言葉の世界に深く浸る事で、いくらか人間の心を理解する事が出来るようになっても、己自身の人間を変えるためには、何一つ足りません。

それは、人間としてこの五体を使って、現実の中を生きることによって、「自らの運命は自らの手によって開く」事の出来る哲学として成立する。

どこまでも見える世界で生身の人間達の現実社会を生きるということなしありえない。

言葉と言葉だけの観念の世界を、ほんの少しの心で行き交うことができても、その先に進む「勇気」がなければ、自身が発するところの根本である妙法哲学の本質を己自身の生命に刻み、現実の世界で実証を示し、その哲学の正しさを身を持って証明する事は出来ません。

所詮、ネットはネットです。

大切な事は、現実という、人間の姿を見えるもの姿かたち、あるもの全部をこの世で使い切る闘いこそが、この哲学に求められている事。

正しいと信じ、確信した、その正しさを身をもって証明してこられた人。

その事実としての結果として存在する創価の勝ち誇る姿。

それは、自らの生命で勝ち取ってきた、一人ひとりの勝利の証なのだ。

「突き抜ける」己の中の「信仰心」を知りたい、感じたい!

己の「生命」で!

そのために、求められる最高で最強の哲学を与えてくれた大切な恩人。

私の最大、最高の「報恩感謝」の証を示すものは、自らの「変化」以外のなにものでもない。

己の中の信仰心に対する迷いは、何一つ無い。

現実を生きるとは、この体を、己の哲学に馳せた強い信念で、一念と執念によって、現実を生きる為の【勇気】に変え、人間社会の中で自らの「肉体と精神」を通して、心から「生命」に刻むことなのだ。

現実を生きるということ無しに、ネットで語ることの出来ない「信仰」とは、この『創価の哲学』に他なりません。

その互いの信仰者として、受持した妙法の宝の、最高の価値を知らしめてくれる創価の一人ひとり。

己の「今」を知る。

私の大切な、二つの「宝」。

守るのは、きっと、わたし。

妙法。

桜梅桃李。

今を生きる。

2010/3/31



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形式主義の権威主義の宗教組織



序列社会で、形式主義の権威主義。

組織の垢。

組織の垢とは、その組織の「人間の垢」そのものに他ならない。

「お前の事や!」

「どこのことなん?」

人間の信仰心が、一番嫌うものなのに、宗教組織が、大きくなればなるほど、どんどんくっついてくる。

まるで、生活習慣病のように。

メタボリックの贅沢なお肉と脂と加齢臭。

見えない病の障りが、忍び寄る。

ヒタ、ヒタと・・・。

宗教にも、見えざる総合検診、人間ドックがそろそろ必要なんじゃあない?


「役職なんて関係ない」、なんていいながら、自分の名前よりも先に、役職を告げる。

「アホか?  こいつ・・・。」

言ってることと、やってる事の嘘と矛盾さえ気がつかない。

腐敗。

肉やバナナは、腐る直前が一番、美味しいというけれど。

やっぱり、生身の人間が集まる宗教組織も、世間となんら変わらん人間社会の集団の1つ。

やっぱり、生のものは腐るんだよね。

硬直した、宗教組織は、人間の生々しさを排除する息の出来ない、人間が窒息死する社会。

組織とは、人間の心を排除する形式主義の権威主義の序列主義の形骸化へ突き進む。

それとも、生の人間の賞味期限を越え、更に、消費期限を越え、やがては、腐り果てる道を突き進むのだろう。


身近に、そんな「腐り切ったバナナ」のお寺があるもんね。

まだ、処分されずに放置されてるよ。


今、見えるよ。

その巨大組織のバナナの一番美味しい状態を知らせてくれる「シュガースポット」が。

その後は・・・?。



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文字に踊る美辞麗句:そこに「赤い血」は流れているか?


新聞とは何だろう。

「正義を貫き、真実を暴く!」、なんて事を信条にしても、

毎日、毎日、正義、正義と書いてば、正義なんて言葉だけで、飾ることを覚えて、その正義の中身なんて知らずとも、人を納得させることなんて糸も簡単なんだよね。

辞書を片手に、偉そな言葉を並べ立てりゃあそれでも十分?。

本質。

正義の本質。

そこに赤い血は、流れいるか?

赤い血が流れているのを、感じるとる事ができるか?

与える、受け取る。

宗教と一人の人間。

たとえ、哲学になぞらえたとしても、お前の上っ面の人間性など、暴くことなんか簡単だ!

見えてるぞ! 

お前のその、嘘の正義面した仮面が。

くるくるとペンを回しながら、鼻にペンを挟みながら、

「どんな正義の美辞麗句を、紙面に並べたろうか?」

と、何の苦労も経験したことの無い、恵まれた環境でふんぞり返ったその傲慢な姿が。

読者を「成る程」なんて、納得させたる記事を書いたろか。

タダそれだけのお前の中身が・・・。

活字に見えるその、見なければならない言葉に隠された、その書く者の見えない、本性を暴く。

暴かなくても、

見えないものが必然的に見える世界を生きる。

知恵。

己の心に映し出される、己の人間を通して、見える相手の心の中の隠すことの出来ない本性。


隠そうと思えば、思うほど、見える人間の本性が、手に取るように解る。

インチキ野郎が書いたその文字が。

って・・・・それ、私の過去の記事の事かも・・・。

だから、見える。

桜梅桃李に今を生きる。



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付和雷同:女々しい生き方

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付和雷同(ふわらいどう)。

「なあ、なあ」の世界。

「まあ、ええがなあ」。

「そんのくらいにしときいなあ」。

「これくらい、まだ、ましなほうやなあ」。

「そんなもんでええねんなあ。」

「なあ?」「うん、そうやなあ」。

現状維持の進歩の無い、互いを慰めあうだけの日常の会話。

いまでは、宗教を語るものの日常の言葉でもある。

暮らしは安泰。何一つ不自由は無い。

堕落と惰性。

宗教が趣味の延長線上。

自分の心を既に、どこかに置き去りにした者が、人の懐(ふところ)目当てに心をもてあそぶ、言葉のゲームとして成立する。

人の苦労や痛みなど、本当は1つも理解もできぬくせに。

人間の生き方の弱さは、現実の世界で、本来の宗教や哲学の本質までもが、その人間の中に棲みついた属(俗)性によって、捻じ曲げられていく。

伝言ゲームの結果を見てごらん。

「家業は三代目で潰れる」とも言う。

そんな危機感を感じているものなどいるのかいな?

軽すぎる時代に、その軽さが、情けないほどの人間の全ての軽さに映る。

人間の「心」なんて、そのあまりの軽さに、「心」と書いたその文字からも浮かび上がっては来ない。

何のための文字なのかな?

文字とは、何だ?

重いどっしりとした根っこのある、そのなかの軽さは、私の心に、その相手の自由で強い心を映し出す。

そんな文字と活字に出会いたい。

「家業は三代目で潰れる」

もし、潰れなければ、次の4代目が潰すことにる。

潰さない命を、命として懸(書)ける覚悟のあるものは名乗れ!

その本物を確かめる、知るための確かな方法とは?

桜梅桃李。

今を生きる。



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ネットの先に見える目:心と精神の退化

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人間の顔。

その中の目。

「目は、口ほどにものを言い。」

相手の心の強さと、心の色を感じ取ることの出来る目。

目は、現実に映るものを見るためだけにあるのではない。

その瞳の奥に隠された真実を見つめるためにある。

「対話」とは、互いの心と心を確認しながら、互いの立場に立ち、相互の利益をもたらす話。

「対話」とは名ばかりのどちらかの主張を繰り広げることなど、単なる議論でしかない。

対話、対話と言うけれど、心を語ることの出来ないものが対話など出来るはずが無い。

出来ないことを、借りた言葉だけで、いい格好をする。

自分の言葉に責任を持てぬ、自分の尻さえ拭けぬものが、対話、対話とほざく。

「目は、口ほどにものを言い。」

ネットの世界で何の意味も持たない言葉。

人間が、人間を見つめる為の、大切な言葉が死語になる時代。

人の目を見て話すことの出来ぬものが、ネットで人間について語る大きな間違い。

ネットの先に見える目は、決して人の目を直視する勇気など無い、常にうつむき加減の焦点の定まらぬその目線。

その先に見えるもの。

猜疑心と懐疑心の塊。

この世に対する悲観と諦めと絶望感、現実に対する無力感による幻覚への逃避。

その目線の先に見えるもは闇。

暗闇。

その暗闇を映しだすのが「ネット」。

そして、その人間の目に映る暗闇の中から、何一つ根拠の無い、無責任で無差別な、適当なターゲットに対し、憎悪や憎しみ、怒り、嫉妬といったありとあらゆる悪魔的な攻撃の本能を呼び覚ます入り口がぽっかりと開く。

それは、もう、救う事の出来ない「自我」の崩壊を辿る道。

人間が崩壊する。

本当に崩壊してるじゃあないか?

それがわからないのは、お前さえもその崩壊の道を歩む「同じ穴の狢(むじな)」というこだ。

ネットの先に見える目。

まるで、死んだ魚の目みたい。

その目は、活きた明るい未来を自ら開こうと渇望するものを何一つ感じる取ることは出来ない。

現状に対する不満と、その捌け口。

己自身の人間の弱さの中の、愚かさにさえ気づくことの出来ぬ、救いがたい程のその愚かさを、なんと呼べばよいのだろう?

人間についている道具の数々。

もともと付いている道具を必要とせぬもの、使わぬもの。

人間という「者」が、「物」に変わる時代を生きる人間にとって、今を生きる現実は、人間に与えられたお道具箱が使われずにどんどん、倉庫にしまわれて、錆びて使用不能、そして、使い方さえ理解不能になってしまう時代。

便利さを得る代わりに、どれほどの道具が失われしまったか?

愚かな時代を更に生きる人間。

人間は生まれるのではない。

もはや単なる生産物になる時代。

そんな選択肢を選び続ける未来を考えれば怖いねえ。

今の時代、人間についているお道具は多すぎるのではないかいな?

何を言いたいかって?

便利な時代を作り上げた人間の進化の過程の中の、人間が生きる世の中の文明社会。

これまで「必要なこと」がどんどん必要でなくなる時代。その時代を生きるためには、人間は、便利な社会の恩恵を受けるために適応しなければならない。

それは、人間が善の利益と引き換えに、必然的な副産物として生まれる必要悪という罪つりな業。

人間は、背負わなければならない。

人間は、その罪作りな業による罰を、時代を生きるものたちが受けなければならない。

宿命と宿業。

やっぱり、これは、「呪い」と「祟り」だな。


適応することの能力を高めることは、人間の進化の過程の辿る道。

必要なものを取り入れ、不必要なものを切り捨てる効率的な効果と結果ををもとめる合理的社会。

見えないものを理解する非合理的なものよりも、見える確かなものを優先する合理的で単純な社会。

脳みそを必要とするものと必要としないものを生み出す社会。

人間から生まれるロボット。

人間の姿をしたロボット。

ロボット社会。

人間の不幸。

不幸を感じる心。

その見えない心の合理性と進化を切り捨てる時代。

今感じている、心の幸福と幸せは、その内、人間にとって、何の意味も無くなりそうな気がする。

否、それは、進化の過程を辿ることの結末にとって幸せなことかも・・・。

人間が幸・不幸によって苦しまなくても済むことになる。

猿の惑星は、やはり、現実の未来の人工知能のチップがたくさん組み込まれた正真正銘のロボット達の惑星になって実現するのかもしれない。 (・・・そんな映画もあったような・・・)

心を必要としない社会の進化は、知能のみが支配する社会。

生き物の進化の過程。

人間の善と悪の相対的観念の放棄。

切り捨てる時代が進化の過程ならば、人間が最終的に選ぶ道は1つしかない。

対話ができるのは、心を備えた人間にしか出来ない。

心の進化を語れるのは対話でしかない。

その対話の中の心を見つめるものは、互いを信じようと強い意志のシグナルを発する「目」と「目」。

桜梅桃李。

今を生きる。



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実証・灯(あかり):悩み・迷い・苦しみ

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憎しみと苦しみと、悩みと迷いの連続、その繰り返しの人生。

現実を生きる己の人生。

見えそうで見えない、しかし、それは確かな道を指し示す灯り。

灯りは、己の憎しみと苦しみと、悩みと迷いの中から生まれた。

完全に消えた己自身の中から再び灯されたされたあかり。

「火の無いところに煙はたたず」

しかし、心の深きところより灯りの無いところに火は灯る。

生命。

生き物の進化に見られるその生命の無限の可能性と不思議。

生命の不思議。

いや、不思議でもなんでもない、人間の理解を超えた宇宙。

生命は宇宙そのものとも言う。

己自身の姿で、今を生きた道を刻むための実証という、己にしか見えぬ信仰心の証。

その宝しか持ってはいけぬ。

深く、深く、どこまでも、このどん底を己が確かに生きたという証拠。

哲学に対する信仰心という証。

証とは、己の中のそのもの。

この現実を更に生きて、足跡として実証を残すための哲学。

己の自身の力で。

己の過去に、縁した全てに報いたい。

過去に報いることは、現在を生きること。

そして、未来を変える大きな力と変化のための気づき。

目には見えない宝の価値を見える姿であらわす。

実証。

どこまでも、どこまでも、己の中の哲学の集大へ向う途中の更なる決意を示す哲学に対する信仰心の証。

証をもってして、何度も何度も、検証の道を辿り、更なる実証を残す。

己が生きた人生の確かな足跡。

遥か彼方から、

そして、遥か彼方へ向うの夢の途中。

今、今こそ、その実証を得たい。




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心の絆を生命によって固く結ばれる結哲学:報恩

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人間の現在と未来を生きる不安と恐怖に耐え、気丈に振舞う気高き人。

人間の弱さの欠片も見せる事のない、人間としてこの現実を生きる強さ。

それは、与えられたものではない。

自らが勝ち取った宝。

その宝によって、生きている。

その人はどんな境遇であっても、絶対に弱音を吐かなかった。

その気高さは、苦しいときほど、きっと涙を見せまいとする笑顔の中に、今にもゆがんで崩れそうになるのをどうしようもないほど耐えに耐え、零れそうになる涙を、更にぐっと堪えに堪えていた。

それなのに、その笑顔に人間としての弱さのままの私は、ぼろぼろと悲しい同情の涙を流すだけの情けない自分だった。

我慢に我慢の人生。

辛抱に辛抱の人生。

強靭な精神。

こんなに強い人だったなんて。

私には、想像も出来ない過去の苦労を背負って生きてきたことを確信する。

こんなに凄い人が、私のそばにいたなんて、今更ながらにその人の笑顔に隠された耐えに耐えた壮絶な戦いの過去。

そこから溢れる笑顔の価値は、量ることなど出来はしない。

己のどん底で、本当の本物の価値を知る。

それこそ、私に今、与えられた最高の宝。

それは、その宝を知ることの出来る生命によって、その相手の苦痛と、耐えに耐えた壮絶な過去を、私の心のスクリーン一杯に涙とともに映し出してくれる。

己のどん底という、その猛烈な波は、私の鈍感な心に対して、生命に届けとばかりにかき回す。

愚かな人生を歩むことに、必然の意味を感じるその底で。

鈍感な人生。

そのどん底でしか気づくことのできない深い、深い宿縁。

こうして、何度も、何度もあの人の笑顔が、私の溢れる涙となっては、その心の本物の強さを映し出し感じさせてくれる。

それは、生命の中で感じている出来事なのだろうか?

感じる生命によって、私の心に、その笑顔に隠された本質が、何ものにも変えがたい宝として映るのだろうか?

相対するものの中に感じるその人の絶対的な生命から滲みでる、その苦痛と耐えがたい過去を背負いながら、太陽の如き慈悲に溢れた笑顔。

そんな笑顔は、私に絶対に不可能。

そんな笑顔に、私は感謝の涙しか流すことが出来ない。

最高の感謝なのだけれど。

必ずその恩に報いたい。

でも、ありがとうなんて言葉では、意味が無い。

生きる。

供に生きる。

命ある限り。

生命の絆を更に強く結ぶ哲学。

桜梅桃李。

今を生きる。




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不毛:未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ


玉石混合の混沌とした世界。

魑魅魍魎と言う言葉もぴったりだな。

本当の宝石までもが、単なる石ころになる世界。

現実。

更に、如実に表わす現実を拝みたいのなら、ネットを徘徊するべし。

ただし、廃人から、ゾンビにならぬ覚悟を胆に据えるべし。

現実から遊離し、乖離した、夢と現と幻の世界を生きることになる。

そんな怖さと勇気がないのなら、ネットなんぞに首をつっ込まぬ方がよい。

下手すりゃあ心の病を更に加速する。

麻薬の世界。

幻覚の世界。

しかし、そんな世界で、宝もある。

しかし、その宝を探すことなど、常人のレベルでは不可能。

宝を石ころに変える世界。

そんな世界に宝を持ち込むとこの意味。

与えることに意味の無い一方通行の世界。

不毛の地。

周囲は溶岩だらけ。

死の連鎖をとめることが出来るかな。

顔と顔をあわせ、目と目を見つめることでさえ、人の心の今を推し量ることさえ出来ないのに。

言葉に心を託したとしても、いかほどの効果があるのかな?

観念の理論武装をしたところで、結局、こんなところで勝とうが負けようが何の意味も無い。

刹那以外のなにものでもない。

愚かな自己満足。

ネットの功罪。

人間は誰も、最初から罪を作ろうと何かを発明したりはしない。

罪作りな人間の業。

重たいアナログな世界のお話を、0と1のデジタルに加工された世界で語る事を誰が賛成しているのかな?

それは、自由を履き違えた得手勝手な傲慢のなせる業かな?

ネットの威力とその功罪。

人間の悪魔が囁く。

無価値なものが価値を生み、価値あるものが無価値な世界へ追いやられる。

インスタントラーメンに袈裟を着せて説法をしたところで、その背中に電極をつなぐプラグがはっきりと見えてるぜ。

未来を創る、未来を予想する。

『過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ』

『未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ』

気がつく哲学。

変化の哲学。



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アイドル・偶像:生命哲学の奥底


目に見えるものばかりの世界。

「看板」に映る文字、や表面的な「美辞麗句」に繋がりを求める世界。

アイドル・偶像。

それは、単なる奉られた「から」のお人形。

刹那で愚かなおまえの「空想」と「妄想」を、その「から」の中に詰め込むのにはちょうど都合が良い。

「ネット」の偶像・アイドルは、現実のアイドル・偶像よりもたちが悪い。

嘘と誤解と錯覚と巧妙さの中の、根拠のない客観と偏見的な主観。

より正しさを求める世界から遠ざかるありとあらゆる非人間的な世界。

人間のプラスの本質から遠ざかる世界。

見える文字と数字の結果のみにその価値を求めようとする愚かな人間が、より愚かさを発揮できる好都合な場所。

人間の心を踏みにじり、心を抹殺することの出来る信号の世界。

ネットの世界の一番は、現実の世界の一番か?

一番の嘘と誤解と錯覚と巧妙さの中の根拠のない客観と偏見的な主観の世界。

心の世界と精神、そして、更に深い生命を語る世界に、番号付けする意味があるのか?

生命を「心」で語ることのできる世界か?

何を根本に対話すとるというのか?

単なる文字と同じ、表面的な知識を積み上げた観念をひけらかすことか?

ネットの世界で、信号として、目に見える繋がりをリンクという手段で強調する世界。

検索エンジンさん、お疲れ様です。

つながってますよ。

日常に、やる気と潤いを与える、和気藹々で楽しい世界。

それでいい。

しかし、はなはだ、確かな哲学の基点は、そんな嘘と誤解と錯覚と巧妙さの中の、根拠のない客観と偏見的な主観の世界に無い。

生命哲学の奥底には、目に見える繋がりに意味を求めることよりも、目には見えない繋がりを確かに心で感じ取ることの出来る生命を磨くことこそに、意味がある。

「単なるブックマーク」と言ったその人の言葉の意味がわかった。

凡人のつぶやき。



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祈りと哲学・願いと自己確立


「祈り」とは何だ?

「祈り」とは、信じた哲学の本質を己の姿を通して、目に見える姿と形に究極の完成と完結へ向わせるための自己確立の方法。

「願い」とは何だ?

己の中の叶えたい想い。

それは、己の現実を生きるために、与えられた未来を創る、夢と希望と目標、目的だ。

「願い」とは誰が叶えるものだ?

己自身の祈りによって実現するものだ。

「誓い」の最上級。

「願い」の本質とは、己の生命の究極的な自己確立だ。 限りなく自己完成を求めることだ。

この世の完結への与えられた道のりを行くこと。


願いとは?

祈りとは?


己の弱さに耐えられないその恐怖。

未来の結果から逃れたいと感じる恐怖。

怖い。

目に見える未来の結果に恐怖を感じるのは、現実を生きている証拠か?

一生懸命に現実をこの瞬間を生きているからこそ感じる、やがてやって来る現実は、見えない結果の事実。

後悔のない完全燃焼の結果を、相対的な結果として現実に映し出される真実。

もう、十二分なのに十分でない事実。

これが世の中。

これが世の中の現実を生きるということだ。

恐怖と不安と迷いに生きる。

血と汗と涙と五感で生きる生身の人間の強さの中の弱さ。

その結果の事実を知る瞬間までの心と生命の葛藤。

人間の現実を生きる懸命な努力を超えたところにある時間の空間なのかもしれない。

その与えられた時間は、人間という生身で生きる、己という存在である、己自身の人間というこの世の存在を知るための真骨頂と醍醐味。

人間の最高の「苦痛」と「喜び」なのかもしれない。

人間の弱さ。

悩みと苦しみと迷い。

恐れと不安。

革命的な時間と瞬間。

全てがさらけ出されようとしている。

これまでの人生が、まるで走馬灯のように浮かぶ瞬間。

動じる心を動じない心で押さえつけようとする生命。

あきらめとなげやりなこころ。

心。

本物の覚悟と決心を試される時間。

一念と執念。

妙法。

桜梅桃李の人生。

今を生きる。



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