生と死の憂鬱:悩み・迷い・苦しみ


私と言う人間は、一体、どれほどの薄汚れた人生をおくってきたことか。

その汚さの垢と言うものが、ボロボロと、どん底の中で剥がれて行くことの感じ。

その感じが、今、わかる。

鉛のような、なんとも形容しがたい心の中のどうしようもない、どんな時にも付いて回る重たいような、纏わり付くような、その心の鈍痛のような痛みでもない、分厚くどんよりと私の心を覆いつくし続けてきた、決してどんな時にも晴れることのない、本質的に消し去る事の出来なかった憂鬱。

刹那に生き続けてきた人生。

そして、マイナスからの人生の再スタート。

あるものは何も無くなった。

無くなるにつれて、更に、苦しみ、悩み、そして、生きることと死ぬ事への選択への迷い。

どこまでも続く、己の中の地獄。

過去の全てが、私を苦しめた。

それは、全ては、私が、背負わなければならなかったもの。

全ての憂鬱と絶望感。

その中で生きる。

ゼロからのスタート。

全てを失い続ける毎日は、変わりはしない。

私の心の中の嵐は、吹き荒れ、苦しむこと、悩む事、そして、迷う事から、絶対に逃げないと、思えば、思うほど、弱い心が、私を更に痛めつける。

死への覚悟。

その淵にたどり着くたびに、最後の灯りが灯る。

灯りのある方向へ這いながら、心は死を求めながらも、なぜか、生きようとしているもう1つの自分。

己の生きることへの絶望は、苦しみのどん底の涙で、その灯りの方向へはいつくばって、ほんの少しの生きようとする力によって、死への選択の道をとどまらせた。

ゼロになっても。

人生を1からスタートさせるためには、私にとっては、なんども、なんども、生きることと、死ぬ事との闘いでもあったような気がする。

今も、これから先も、どん底なのかもしれない。

しかし、あれほど、私の心の中で決着する事が出来なかった己の中の過去の人生を、その時々に生命の中から晴れ間をのぞかせてくれる。

これから、もっとどん底を見ようとも、もう私の生きるという覚悟は変わらない。

憎しみと怒り。

どんな時にも晴れることの無かった心の中に本質的に、消し去る事の出来なかった憂鬱。

己の人生を破滅に向わせた己自身の中にあるその呪われし業。

今、その1つの節目を、己自身の中の変化として、確かに感じる事が出来る。

これは己の能力か?

不思議と感じる、自分ではない自分。

その自分では無い自分と言うもの、それこそが、本当は、己の本質なのかもしれない。

それとも、今までに、私に無いものを与えられたとでも言うのだろうか?

そんなことは、どうでもいい。

今、こうして、生きるということに対して、灯された明かりに対して、確実に感じる『生きていける』という自信。

この、なんにもない、己の情け無い現実の中で。

それは、私の中には、確かな【もの】がある証拠。

目に見えるものは何も無くなった。

でも、見えない確かな【もの】が、今、はっきりと見える。

宝。

本当の宝。

私が欲しかった宝。

何不自由ない生活の中で、得ることのできなかった宝。

己の宿命の深さをこうして、まざまざと知ることの出来る、己の中の宝。

何も無くても、生きていける自信。

今、決して、生きることを諦めないという自信の中で感じるのは、私の中で乗り越えること、解決することの出来なかった過去に対する申し訳ない思いと、感謝。

全ての人に報いたいという願い。

その願いのために、生きる。

その願いを誓に変える。

生きることによって、私が変わることが、全ての報恩感謝への0(ぜろ)から、1(いち)に変わる力。

その力を宝に変えるために、現実を更に生きる。

どん底を這い蹲ってでも。

これが、現実を生きることの実感と、充実感!

現実を確かに生きることの出来る確かな哲学を、更に、私の足跡に刻む毎日の闘い。

それは、私との闘い。

今、この、瞬間。

2010/4/28

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地獄と天国・天使と悪魔


己の自己確立ための変化には、必然的に、常に新しいものと対峙する事になる。

それは、己にとっての壁。

その壁を傲慢によって、己の愚かさを映しだす壁とするか?

それとも、その壁を謙虚さによって、変化を実現させるためのクリアしなければならない、己に課せられたハードルとするのか?

その瞬間にも、その無意識な選択が、己の中の哲学の現在の完成へ向うその進捗率を知るために、試されている。

この哲学の油断ならないところは、まさに、一瞬にして、己を天国から地獄へ突き落とす事が可能。

見えない己の生命のその両方を兼ね備えた天国と地獄へ振り分けする事の出来るぽっかりと開いている、その左右の矢印を示す分岐点。

見える?

見えない?

そこにさえも、分岐点がある。

哲学に基づいて、今を生きるということは、常に、変化と堕落へ、向う一瞬の生命がその選択に映し出される。

その間にある、停滞とは、堕落と何一つ変わりはしない。

確かに生きる変化を求める哲学に、中間と言うものは、無い。

中途半端な結果を望むものは、変化など求めたりはしない。

変化を求める確かな哲学には、中途半端な答えなど、ありゃあしない。 

己の持つ「天使」と「悪魔」が、そこににょっきりと顔だす。

天国と地獄。

天使と悪魔。

それらは、どこかにあるものでもなんでもない。

全部、「おまえそのもの」のなかにある。

己の変化には、不安と迷いが、襲い掛かる。

それは、天使の仕業か?

悪魔の仕業か?

それとも、地獄への入り口か、天国へむかう誘導線か?

しかし、その不安と迷いは、確かに訪れる変化の兆しと証。

変化は、不安を求める。

変化は、迷いを求める。

変化は、悩みを求める。

確かな答えにたどり着くための、確かな哲学。

その確かな哲学をどこまでも信じる。

信じる事が強ければ強いほど、天使が微笑む。

己の生命の天使の領域。

確かな知恵。

導かれた結果の知恵によって、確かな結果を「己の中」に残す。

そして、己の人間として現実を生きる自信に変え、己の信じる哲学よって、己の中で形作られる自己確立為の材料とする。

信じる哲学を己の哲学へと集大させる。

己の今の生命に基づき、その心によって、実践と検証と実証によって積み上げられた己だけの哲学。

私の生きる「道」を作り上げる。

私だけの道。

生きた証。

そこには、与えてくれたものに対する全ての報恩感謝がある。

妙法。

桜梅桃李の人生。

今を生きる。





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宗教に染まらない自己確立:桜梅桃李の人生



生き方の強さは、どこまでも、どこまでも、己の中の確かな変化を求める。

変わらなくていいもの。

変わらなければならないもの。

確かな哲学に基づいて必然的に変わるもの。

その必然的な変化を求めて、己の人生の色を染める信仰心。

ひとぞれぞれに、千差万別の「桜梅桃李」を生きる。

己の中の信仰心によって「桜梅桃李」に染め上げる人生。

己の人生を確かに生きていると言う実感。

桜梅桃李。

宗教に染まり、己をどこまでも見出すことの出来ない宗教馬鹿。

井の中の蛙で、人間と人間を計りにかける「松竹梅」の人生を歩む。

人より優れた人生を送るのが幸せな人生か?

己の中の「今」を常に変化させ、高めながら生きる「桜梅桃李」の人生を生きるのか?

私は、わが道を行く。

たった一つの道。

その道は、己の道を懸命に「桜梅桃李」を生きる人達と同じ終着点につながっていると確信する。

人では無い。

この世に生きる私の人生。

宗教ではない、私の中にある私だけの絶対的な信仰心は、外になんか向ってはいない。

宗教にも向かってはいない。

己自身の中の宇宙にしか向わない。

己の中の信仰心によって、己の中で、その信仰心を確立させ続ける事によって、桜梅桃李に染め上げる人生こそ、私の最高の人生。

自己確立の哲学は、自己実現への哲学。


・桜梅桃李>今こそ【勇気】!負けるな【勇気】!
・「松竹梅」の人生ではなく「桜梅桃李」の人生



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嘘つきは無知なる傲慢:信仰とは


現実を生きる信仰に、妥協することは許されない

人間が現実を生きることに、妥協は必要。

それが、その時、その瞬間の、「今」と言う現実を生きる人間の知恵。

人生を生きる前向きな知恵。

無理を承知のごり押しなんて、時代遅れの野蛮人。

しかし、人間が生きるために必要な、己の信仰心を開くための信仰を伝える宗教に、妥協は必要ない。

そして、妥協は許されない。

理解できない事を知ったかぶりする事は、絶対に許されない。

信仰を伝える宗教にたいして、己の中で絶対に妥協をしてはならない。

己の信仰心に嘘をついて、信仰を伝える宗教を信じることはできない。

己の信仰心の中にないものを、あるといえる人間。

嘘つき。

それは、己自身の中の信仰心に妥協を持ち込む、似非信仰者に他ならない。

嘘に嘘を重ねる人生。

生きることにおいて、嘘を重ねてきた人生。

その嘘つきが、己の信仰心においては、嘘はつかなかった。

宗教という信仰者の中にいる、己の信仰に対して嘘を付く者。

己の信仰心を染めることなく、宗教に染まり、嘘つきになる者。

己の中の信仰心を開く以外のなにものでもない、己が信仰している宗教に対して、無駄と無意味以外のなにものでもない嘘を平気で言えるもの。

己の信仰に対して、己の中の信仰心に無いものを、平気で嘘で塗り固めることのできる者の哀れさ。

一体、誰のための宗教なのだろう?

誰のための信仰なのだろう?

不幸に、不幸を重ねるための信仰を求める姿の、信仰心を開けない信仰者の振りをするしかない似非信仰者。

宗教に染まり、似非信仰者の道を歩むもの。

どこまでも、どこまでも、己の宿業に振り回される、操り人形の無明なる人生。

愚かさ。

その愚かさにさえ気がつく事の出来ない、更なる愚かさ。

それは、無知なるゆえの傲慢と言えるのかもしれない。

人間が、宗教の中で、その信仰を保つ者の姿に見える信仰心。

人間の持つ、どこまでも、どこまでも、限りない生命の浅さ。

人間の持つ、どこまでも、どこまでも、限りない生命の深さ。

そのどちらかに突き進むのかを決めるのは、自らの中にある信仰心以外のなにものでも無い。

信仰とは、外にあるものでは無い。

己自身の中にしか存在しない。

己自身の中に、絶対的な【もの】として、確立させ続けていくものである。



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現実の人間社会は、己の人間そのものを映しだす鏡:信心


現実を生きれば信仰から遠ざかる。


信仰を生きれば現実から遠ざかる。


現実を生きることとは、人間の生身の姿を知ること。


汚い人間の本性。


汚い本性の中に隠れた素晴らしい人間のもう1つの本性。


姿を己の心の中に映しだすことが出来れば出来るほど、私の生命は、生き生きとしてくるはず。


幸せへ近づけるための階段を登っていけるはず。


人間が生きるこの人間社会の全ての場所。その全てに、己を幸せにするヒントが詰まっている、なにも、【創価】と言う場所にだけあるのでもなんでもない。


人間を知るためには、常に、何事にも恐れない勇気と、染まらないための確かな哲学が必要。人間が、この人間社会を生きるとは、人間を知ることによって、己を知ることに他ならない。


現実によって生身の人間の全てを知ること。


勇気。


勇気をだして、知ることの本質。


人間を感じる事によって、私自身を知る。


感じる事の意味。己自身の中の感じる場所。


感じる場所は、己の心の深いところ。そして、更に深いところへ。


己の現在の生命を映しだす鏡となる。


現実に生きる人間社会の中に見える人間は、私そのもののなかにある全てを映しだす、鏡なのだ。


相手に見えるものは、私の中にもある。


他人と私、何も変わらない、汚いものをきれいなものも、持つものを全部持っている。


だから、人間を理解する事が出来る。


人間を知ることによって私自身を知ることは、私自身を高める事。


根本の妙法という、生きる為の知恵を創る、働かせてくれる確かな哲学によって。


己の知恵を高める。


生きる知恵。


幸せを得るための知恵。


生きた証として、人生を宝にする確かな【もの】


私の中の確かを生きる。


自己確立ための人生。

【名字の言】人生を確かに生きるひとしずく




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人間生きているだけで丸儲け:自信と傲慢


心と精神、生と死の境目。

生きることに立ちはだかる壁。

生きることの限界。

現実を生きることが出来ない。

生きることを諦める。

死ぬ事を選択する。

そして、死ぬ方法を選択する。

死を感じる事によって、死が集まってくる。

何度も繰り返してきた己の心のどん底。

でも、今こうして生きている。

優柔不断で中途半端な生き方の人間が、世の中を生きることが辛いと感じる事は、当たり前のこと。

そんな人間が、生きることにおいて、前向きな事を学び、そして、知恵をつけて磨いていくという生き方が出ずに、生きること全てが壁に思えるのは当然の事。

人間の生き方の弱さは、全てに対して、その理由を知ろうとしないことに対する恐れ。

己と言う人間が生きるこの世の中、社会を理解しようと言うことから遠ざかる。

「中途半端な生き方」

私の人生は、何かあるたびにこの言葉が頭の中に、浮かんでは消える人生であった。

でも、今こうして生きている。

生きているのだけれど、自分で生きているのではないと、私の心ははっきりと自覚している。

「生かされている」のだ。

いいじゃあないか。

死というものの淵へ追い込まれ、死を何度も考えた人間が、この程度の妄想を信じてもそれは、妙な病に冒されているとは思わない。

人間は生かされている。

だから、生きなければならない。

生きているということに、感謝を持って。

そして、己自身の自己確立の名の下において、自身の力で、自力で生きる。

それが、自己実現、自由自在の人生。

人間生きているだけで丸儲け。

笑いの神様、明石家さんまさん。

全ての人生を笑いに変える「さんま」さんの人生そのものは、まさに、生きているだけで丸儲けそのままに、現実を生きている。

生かされていることによって、生きることの出来る人生。

生きるということは、死によって成り立っている。

謙虚と傲慢。

「自信」という強さの中に、芽を伸ばそうとする、己の人生を破壊する傲慢。

謙虚に、己の今という人間を見つめ、生かされているということの感謝によって、自信という強さの中に忍び寄るその傲慢を見抜いていかなければならない。

己自身の人生を確かな哲学に基づいて生きるために。



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