人間社会で互いの理解を必要としない絶対的な関係

過去も未来も「今」を生きるためにある

過去も、未来も、「今」という瞬間を生きるためにある。

「今」という現実。

未来から一瞬にして過ぎ去り、過去へとつながるその点。

現在。

今、見える人間と言う姿で生きているこの現実を生きるためにある。

人間が、生きることにとって大切なのは、現実を生きる「今」。

今を語る、未来を語る、そして過去を語る。

そんなことに、何の意味も無い。

語った言葉は、己の現在を生きる今と言う瞬間に過去になる。

何の価値も無い。

価値があるのは、今この瞬間を生きている人間の姿で生きる己自身。

肉体と精神を持つ人間という私。

生きるこの世の全ての価値は、今この瞬間を生きる己の自身のありのままの、見えるものと見えないものが、映し出されたすべて。

そこに相対的に映し出されるものは何も無い。

唯一、己自身。

絶対的な価値。

今。

今を生きるこの現実の一瞬をどこまで完全燃焼できるか。

己の価値。

人間の価値は、今を、今ある人間の姿かたちで生きてなんぼ。

「何ぼ?」

絶対的な価値感。

互いに理解など必要としない、互いの絶対的な世界。

ひとりひとり。

人間社会の中においてニュートラルな関係は、互いの理解を必要としない絶対的な関係から生まれる。

誤解もなにもない世界。

☆確かな哲学・賢者の石
【名字の言】人生を確かに生きるひとしずく

本因妙 | [2010-07-31(Sat)] | Trackback:(0) | Comments:(2) |-

創価という団体の為に私は存在しない

創価は一人ひとりの人間のためにのみ存在する

わたしは、「ブログ村の創価カテゴリー」と言うところが大嫌いと、先日の記事で書いた。


確かな哲学によって現実を生きる同志達。

その闘う相手とは?

それは、創価学会の同志との戦いである。

勿論、己との闘いを全ての前提とする。

その己の闘いとは何か?

自己改革。

それは、己の生命に宿された宿命を転換する事。

一人ひとりの人間革命のための現実の闘いに他ならない。

その前提において、一人ひとりが己との闘いに勝つための集団である創価学会員。

その創価学会員であるならば、何を言われようと、なにも恐れる事はなく、言い訳をする事もなく、全てを己の生きる為の力に変えることが出来るはず。

創価学会員が闘う相手とは誰か?

それは、世間を非難する前に、己を非難せよ!

そして、その非難する者達の一人ひとりの集まりである創価学会員同士を非難しあえ!

互いが究極の仏道修行者であるという認識を持つもであるならば、現実の全てを受け入れるだけの心を持て。

生きることにたいして、言い訳や嘘や見栄は、妙法を信仰する信仰者である一人ひとりの信仰心を高めようとするものである人間にとっては、何の意味も無い。

だから、創価学会員の人達に対して、厳しい。

あえて、非難めいた記事を書く。

批判であるとか、誤解であるとか、言い訳をせずとも、この記事を読まれた方が、どのように感じるかは、その人間の現在の姿を心というものを通して映しだす。

その心で感じた姿を己の信仰心によって確認する。

感情的な心から、冷静な心になって理性的な心で、受け止める。

信仰とは、相手を見ることによって、己の心のスクリーンの精度を更にアップさせることにある。

心の器。

感情から理性で生きる。

今という現実を。

一人ひとりの人間。

その集まりが創価学会。

だから、今、私がその創価学会員がいる創価学会に対して、「心に思う事」は何を書いても良いと感じる。

それは内部の揉め事でも、言い争いでもなんでもない。

また、組織の発展を阻止する妨害でもない。

それらのとらえ方の全てに確かな哲学が、一人ひとりに確かめられており、試される。

全ては、己自身の原因と結果を受け取る事につながる。

それが一人ひとりの人間のためにある創価という宗教団体と認識している。

どこまでも一人ひとりのためにのみある。

創価は、一人ひとりの人間のためにのみ存在する。

創価学会という団体のために、私は存在していない。

汚い、馬鹿で愚かな人間社会。

創価はその縮図としても存在するのだ。

切磋琢磨できる最高の場所。

そこに確かな哲学を己の心の奥深くに刻む「勇気」と「覚悟」があれば・・・。

過酷な試練の場。

それが、生々しい現実を人間の姿で生きるこの世。

生きること。

☆確かな哲学・賢者の石
【名字の言】人生を確かに生きるひとしずく

創価 | [2010-07-29(Thu)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

馬鹿が生きる人間達の全ての社会

馬鹿が威張れる馬鹿のお山の大将

自分が馬鹿だからと言って、馬鹿を自覚しながら、馬鹿の中でお山の大将であってはダメ。

何一つ成長出来ない、ぬるま湯に浸かっている自己満足な怠惰と惰性に満ちた傲慢。

自分の中の上昇志向を諦めない。

それは、己の中の自己改革。

己の中の変化。

それは、自身の生命の境涯を高めるための人間革命への道。

それは、妄想でもあり、空想でもある、己の中の理想郷である。

しかし、現実を生きるためには、空想も、妄想も必要である。

妄想は夢であり、空想は希望である。

それが人間が人間であるために無いものを心の中であるものとして、実現させる事が出来る。

その無いものとして心に存在する有る形のものを、この世という舞台で、現実に生きる生身の見える姿として生きる人間の形によって実現させていくこと。

生きる。

人間が人間であることの証明。

未来を生きるために、現実という今を生きる。

より、人間らしく。

己に与えられた課題を生きる使命に変えて。

☆確かな哲学・賢者の石
【名字の言】人生を確かに生きるひとしずく

本因妙 | [2010-07-26(Mon)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

恥さらしな創価を見たいならブログ村の創価カテゴリー

ネット上におけるサイトには、いろんな場所がある。

個人でブログを開設している人たちなどは、共通する話題やテーマの存在するコミュニティーに参加することによって、ネット上において情報を得たり、参加する人たちとコミュニケーションをはかることが出来る。

また、そのようなサイトに参加したり、リンク、登録する事で、ブログの知名度や価値を上げる事に貢献する事にも繋がり、ひいては、ブログを所有している人が最も望むものとされるアクセスを計画的に集める事も可能となる。

よく見かけるサイトでは、●●万アクセス達成!ありがとうございます。

なんて、報告をして、ブログを運営してきてよかった~~。

何ていう自己満足的な報告を自慢げに語っているブログや、一々、事細かに、グーグルやヤフーといった検索エンジンの順位情報なども話題にして、ブログを1つの自己顕示の方法として、楽しんでいる人も居る。

それは、それでいことだね。

そこで、共通の話題やテーマに沿ったブログが集まるサイトの中に、ブログランキングと言うものがある。

しかし、私は、そこにある、宗教や思想・哲学を語るランキングサイトが大嫌い。

そんな大嫌いなサイトと書きながら、自分もそのブログランキングに登録している。

言ってみれば、被リンク稼ぎ。

単なる、ブログを宣伝するための手法。

しかし、そのブログランキングサイト自体に興味があるわけではない。

ただ、検索エンジンに対する地味なSEO対策のひとつ。

ブログには、人それぞれ、テーマや、記事を書く上でのポリシー、また、ブログを運営する上での目的など色々あるはず。

だから、人それぞれ。

しかし、事それが、宗教を語ったり、その宗教の中の創価学会などといった信仰に関わるタイトルを冠にしたブログなどを見ると時として、吐き気を催すような気持ち襲われるほど、気分が悪くなるときがある。

信仰において語るブログを持ちながら、人間社会の中で、俗物的なことにこだわりながら、人と比べる事を否定するためにあるはずの信仰なのに、人と比べる事を前提である場所を意識しながら、表向きには隠しつつ、語っている姿。

見栄と傲慢と自己顕示、単なる自己満足であり、他人との要らぬ競争を意識したエゴ丸出し。

信仰と言うものを、知らずに捻じ曲げておきながら、「純粋な信仰とは何か?」なんて事を偉そうに語る姿。

そこに、何も矛盾を感じる事の無い姿。

これが正しい信仰者なのかという疑問。

しかし、疑問を疑問と感じる事無く、語る姿はどこまでも宗教の操り人形として、「信仰と信仰心とは?」というという己自身に問う事の出来ない信仰者としての浅さを痛感する。

要するに与えられた宗教を単に鵜呑みするだけの傀儡となって、己の現実を生きる為の行動全てが確かな哲学に基づいているのかどうかを己の信心に体得できぬものの哀れさとなって感じるのかもしれない。

ブログランキングサイトの中でも、もっとも知名度の高いサイトとして知られている「ブログ村」。

このブログ村のサイトの中でも「創価カテゴリー」。

そんなカテゴリーランキングをつくる奴もアホだと思うけど。

その中に参加している人間もアホと言えばアホだよね。

見てご覧。

これが創価学会の姿だよね。

恥さらし。

※この記事は、自由な思想と信条に基づき己の信仰心に基づいているものです。ネット上において自称、学会員と称する方の悪意のある書き込みはお断りします。

創価 | [2010-07-24(Sat)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

ノロカメ語録よ、いづこへ?

お知らせ

わたしが、毎日訪問していたブログ。

大好きなブログ。

ノロカメ語録。

そのブログが、突然、閉鎖された。

いつものように、ノロカメ語録で検索、サイトを開くためにクリックをすると、指定されたブログは見つかりません。

ブログが削除された可能性が高い。

それが、ノロカメ語録のサイト運営者であるノロカメさんの意志なのか、それとも、サーバーによる削除なのか。

でも、どちらにしても、毎日わたしが、いつものように訪問しているブログは、そこには存在しない。

どうしたんだろう?

ほぼ毎日のように、ノロカメ氏によって記事が更新されており、昨日までいつものように記事を読むことが出来たのに。

なんども、なんども、いつものブログへ訪問するために、そのさいとのURLを開いても、いつもはあるはずのノロカメさんのブログであるノロカメブログは無い。

時として、この人を嫌いになったけれど、人間としての奥深さをノロカメ語録へのコメントを書き込み続ける事によって、そのコメントに非難めいた事を書いたこともあったにも関わらず、ノロカメ氏は、いつも素直に冷静に対応してくださることで、確かに感じる事の出来る人であった。

わたしが、ネットのブログと称するものの中で、最も尊敬してやまないノロカメ語録のサイト運営者であるノロカメさん。

どうなさったのですか?

わたしのブログの記事を通して、ノロカメさんの様子を知ることが出来るならと思って今、記事を書いています。

また、ノロカメさんのブログが復活される事を願って止みません。

一人ひとりの信仰心を訴える自己確立論である妄想劇場の空想哲学。

わたしは、このノロカメ劇場から学べる事がたくさんありました。

これからも末永くノロカメ語録の中のノロカメ劇場は、永遠に開演し続けるものであるものだと思っていたのに。

何かの間違いであって欲しいです。

また、ノロカメさんの記事を読むことことが出来る日を楽しみしています。

早く、戻って記事を書いてくださいね。

ノロカメさん。

バンより。

本因妙 | [2010-07-20(Tue)] | Trackback:(0) | Comments:(2) |-

傲慢な人間社会に求められる謙虚な生き方

傲慢な人間社会を謙虚に生きることによって知る人間社会

人間が無知である事を気がつかない傲慢。

己と言う人間を人間社会の中で謙虚に学べない人間。

その謙虚さの必要性を気がつけない精神。

その精神を鍛えるための習慣を養おうとしない心の傾向性。

惰性と怠惰な人間の本性。

そこには、やっぱり、だって人間だもの・・・。

人間としての限界と諦めというものを感じざるを得ない。

多くの人間の中のそのほとんどの人間の「だって人間だもの」は、結局は、「世の中、そんなもん」って負け犬の弱音と言う本音。

好い加減にいきるよりも、ええ加減に生きるほうが楽だ。

・・・、だって、その他大勢のひとりの、人間だもの。

人間社会を生きることの対する謙虚さの欠如。

その欠如によって、気がつこうとしない人間は、一生、大切な更なる事を気がつく事が無い。

人間が生きることに対して、どれだけ無知であるかと言う事を。

だから、自分が気がつけばそれでいい。

気がつかない人間を見て、その無知ぶりを、己自身が気がつける。

気がつけることによって。

人間の生きることに対する無知が、どれほど愚かであり、不幸であるか。

気がつかない者のその愚かさと不幸を感じない事に、さらに、愚かさと不幸を感じる。

しかし、ありがたいことに、そのことに気がつける己自身が、そこから具体的なその人間の愚かさと不幸を知ることが出来る。

学ぶ事が出来る。

無知に気がつく事の出来ない愚かな、そして、不幸な人間から、己の無知の世界をほんの少しは埋めることが出来る。

己が人間としてこの世を生きる為の哲学を己の精神に刻むために、心を働かせる事が出来る。自分の生き方を何度も変えたいと思っているのに、変えることの出来ない人間。その愚かさと不幸。

変えることの出来ない人間ばかりの社会から、気がつく事によってその無知なる人間の愚かさと不幸に気がつく事が出来ることによって生まれる生きる確かな知恵と幸福。

人間の中の無知なる愚かさと不幸を相対するものの中から見つめる。

人間社会。

☆確かな哲学・賢者の石
【名字の言】人生を確かに生きるひとしずく

本因妙 | [2010-07-15(Thu)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

去るものは追わず【卒業】

去るもの・残されるもの

現実のこの世を、「死」と言う形で去る。

人間社会の中で、1つの組織を去る。

「去るものは、追わず」

「去る者は日々に疎し」なんて事を言うけれど。

人間社会の中の組織を去った者のあと、その残された者達の社会。

去った者の存在が大きければ、大きいほど、寂しかろう。

また、その去った者の存在の穴を埋めるのは、大変な事であろう。

残された者の苦労。

去る者の気持ちよりも、残された者達の気持ち。

その苦労を乗り越え、気持ちを整理して、平静を取り戻すために必要な時間。

現実を生きる人間社会は、その社会を卒業するという1つの過程を辿る事で、卒業した者とまだまだ、そこに存在し続ける者達の大切な節目となる。

それは、身近な死と言うものを乗り越える事によって、己の死と言うものに直面すると言う事の模擬訓練に近いように感じる取る事が出来る。

人間社会の中で、人間を理解しようとして生きる。

去った者達の理由如何を問わず、残された者達は、その節目を謙虚にそして、懸命に生きるということの大切さと、人間が生きるということに対する悩みや苦しみを解決するための明かりを灯すヒントと、その答えを人間が現実を生きるということの道理を導き出すための己自身の信仰心を開くことが出来る。

☆確かな哲学・賢者の石
【名字の言】人生を確かに生きるひとしずく

本因妙 | [2010-07-13(Tue)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

生きる為の「今」を生きる知恵

今を生きる為の知恵を発揮する集中力・【一念と執念】

生きる為の「今」を生きる知恵。

それは、目の前の現実を歩み続ける一歩先を見つめる事から始まる。

最後の最後まで、気を引き締める。

最後の最後まで、諦めない。

今、この瞬間、何をなすべきか?

今、すべき事は、未来の為。

己の現実を生きる為の、一歩先の未来のため。

そして、次の二歩目を踏み出すため。

今日という、一日のテーマと課題。

そして、人生を、己が人間として生きるテーマと課題。

生きる為の「今」を生きる知恵。

それは、目の前の現実を歩み続ける一歩先を見つめる事から始まる。

それは、未来に向う己の大きなテーマに確実に、そして、確かにつながっている。

そして、確実に、確かに近づいている。

☆確かな哲学・賢者の石
【名字の言】人生を確かに生きるひとしずく

本因妙 | [2010-07-13(Tue)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

同志である人間の千差万別と桜梅桃李

宿命と宿業・桜梅桃李の原点

最も身近な信仰者を理解する事が出来ない。

創価学会という宗教を保ちながら、その宗教に対するそれぞれの思いの違い。

その宗教によって得ることの出来た妙法という己の人生を最高に生きることの哲学。

その哲学によって出され導かれる答え。

それが、確かな哲学に基づく信仰心であるならば、その答えの本質というものは、1つのところへつながるはずだと感じるのですけどね。

導き出される答えの相違。

そこにあるのが、それぞれの生命の傾向性とでも言うべきものではないかと感じる。

それこそが、宿命と宿業。

一人ひとりの千差万別な生き方。

桜梅桃李の原点なのかもしれない。

同じ宗教を保ちながら、その互いの信仰心において対話をしても、その同じテーブルでさえ対話が成立しないという現実。

人間の持つそれぞれの業。

その業というものは、はかり知れないほど深い。

人間を互いに理解すると言う事の不可能なほどの難解さ。

底知れないほどの人間が無知であるというその真実。

☆確かな哲学・賢者の石
【名字の言】人生を確かに生きるひとしずく

桜梅桃李に生きる | [2010-07-12(Mon)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

人生の病根は傲の一字

妙とは、蘇生の儀なり

人間の強さの中の傲慢。

己の非を認められないその強さの中の弱さ。

宗教の操り人形として生きるその人間の愚かさ。

今、本当に大切な事。

でも、宗教に洗脳されただけの盲目の人間には、

宗教組織における全体の戦いのイベントの方が、命を掛けるほどの大切な戦い。

目の前で、己の子どもが溺れて死にそうになっていて、その子どもに手を差し伸べることよりも、その宗教組織における「立正安国」の戦いが最優先。


創価学会と言う宗教においては、

「目の前の溺れている子どもを助けるよりも、選挙が先であり、大切」。

と言う方程式があるらしい。

その方程式の答えが、溺れている子供を助ける事の答えになるらしい。

愚か者。

大馬鹿者。

盲目とは、将に、この事を言うのではないだろうか?

本当に大切な、己の心に、確かな信仰心の灯りを灯せないものは、信仰心と言うものの本質を、いつまで経っても、己の生命に開く事が出来ない。

盲目の信仰。

今、成すべき事。

何か?

その「何か?」という問いを、己の自身の信仰心に問い、その答えを己自身の信仰心で出す事ができない。

与えられた宗教によって、ただ、その宗教団体の中で、組織の単なる一員として、操り人形として、宗教活動をする事の愚かさ。

悲しい。

宗教活動に終わるだけの人間の愚かさ。

己の信仰心を開くために、一人の人間の中の信仰心に灯りを灯せぬもの。

愚者。


猿にでも出来る反省。

その猿にでも出来る反省を出来ない人間。

その傲慢。

宗教に染まる事による盲目によって、無知なる傲慢の垢がこびりついて行く。

宗教が、心の病を癒し、治すよりも、

宗教に染まる事によって、新たな病を植えつける。

傲慢。

正しいと信じることの傲慢。

正しいと信じることの根拠とは何か?

そこに傲慢はないか?

腐った根っこ。

その腐った根っこを、生き返らせる。

妙とは、蘇生の儀なり」。

人生の病根は傲の一字」。


☆確かな哲学・賢者の石
【名字の言】人生を確かに生きるひとしずく

本因妙 | [2010-07-12(Mon)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

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