東北地方・太平洋沖地震から3日目

今回の東北地方太平洋沖地震で、犠牲になられた方へ心よりお悔み申し上げます。

また、被災された方や負傷された方へ、心よりお見舞い申し上げます。

救援活動は困難でとても厳しい状況ではありますが、一刻も早い復旧をお祈りいたします。



日曜日の今日。

地震発生から三日目。

3月11日の金曜日の午後2時46分ごろに、太平洋三陸沖を震源に発生した国内観測史上最大のM8.8の巨大な地震。

東北地方太平洋沖地震。

テレビのメディアでは、地震発生からずっと情報を流し続けている。

時間の経過とともに死者・行方不明者の数が、どんどん増えていく。

その被害の甚大さに、地震と津波の恐ろしさをまざまざと見せつけられる。

単なる傍観者でしかない私。

テレビに映し出される現実を見ても、これが本当に現実なのだということはわかっていても、だた、テレビを見てるだけの私。

それが私の今。

それでいいの?

本因妙 | [2011-03-13(Sun)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

生き様

人が生きる現実の姿に人間のすべてがある。

思いを秘めて人間として生きているその姿。

その思いを姿、形として生きる人間。

生き様。

正しい生き方。

間違っている生き方。

その判断。

その先を生きていく選択肢。

人間として生きる中で持っている心の奥底の本質的な考え方。

人それぞれの生命の傾向性。

未来を生きるための哲学。

その己の哲学の核を支えるもの。

根源となるもの。

無限のエネルギーを引き出すもの。

一つ、二つ、三つ・・・、

生き方。

己の生き方。

「大きいものには、目をつぶってぶつかっていけ!」

簡単なことだ。

でも、そのいとも簡単な言葉のなかに、どれほど大きな壁が、私に立ちはだかるか。

人間の生き方。

生き様。

大きなものからにげようとする人間のよわさ。

「目をつぶる」ことの恐ろしさ。

現実に行動に移せない勇気の無さ。


生き様。

己が生きた証。

今を生きた点が線となる。

その線と点の先は、己の現実を生きることの最後の点である、死へのゴールで結ばれる。

今を生きる己の生き様は、道となる。

死というゴールを照らす灯りとなる。

後に続く道しるべとなる。

人生。


人生を確かに生きる哲学

本因妙 | [2011-03-11(Fri)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

桜咲く、思い、きっと・・・

いつまでも思いに浸っている暇は無い。

出会えた人。

縁。

いつまでもその縁を大切にして生きていきたいから。

今を生きることがその縁を大切にすることにつながる。

その思い。

恩。

自らの意思で、自らの選択によって選んだ道。

決してあきらめない!


いつまでも感傷に浸っている暇は無い。

一つの社会を去ることに対する感傷。

一つの社会に参加することに対する勇気。

その一歩。

自らの道を切り開く為。


ありがとう。

いつも感謝できる。

別れ。

その悲しみに対して感じる感謝の思い。

その思いを大切にして、生きていきたい。

過去の私。


今の私も、すでに過去の私。

未来の私は、今の私。

すべては今。

現実を生きている今という瞬間。

生きているのは、この今という瞬間しかない。

その己が生きていることを確かに知ることの出来る今という瞬間を生き続ける。


過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ

未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ

気がつく哲学。

変化の哲学。

今を最高に生きる事の出来る哲学。

生きるということ。

一歩、一歩。

桜咲く。

きっと・・・。

だから、あきらめない。



人生を確かに生きる哲学

本因妙 | [2011-03-10(Thu)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

自信

自信。

どこまでも己を信じきる。

自分という人間が存在する価値。

それは、絶対的なもの。

自分という人間としての存在を信じることなしに、一体、誰が自分を自分以上、信じることが出来るというのだろう?

どこまでも人間を信じる。

それには、どこまでも自身という人間を信じることが必要。

自分。

己という絶対的な存在。

全てを生かして、生かされているという思いを確信という信念に変えることができるのも、私の人間として現実を生きている己に対する自信。

私が宗教だ!

一人ひとりが、自分の中に現実を確かに生きることの出来る宗教を持つ。

そう思える今の私の中の信仰というものに対する信仰心。

私の信心。

与えられたものから、今、私が現実生活の中で生きていく自信によって、人間としての価値を生み出す私の中にある私の宗教。

その私の宗教に対する信仰心を高めるための、私の信心。

一人一人の信心。

己の生きる哲学。

頑固に変化にこだわるための変わらぬ羅針盤となる思想。

根本となる哲学。

自らの中に灯りをともさなければ絶対に生まれることは無い。

己の中の宗教。

私自身が宗教だ。


宗教とは、自分の弱さをたすけてもら為にあるのではない。


己の存在を信じきることの出来る「自信」というものほど、人間が絶対的な幸福を得る為に大切なものはないのではないか?。 

しかし、それは、うぬぼれや傲慢につながるかもしれない。

でも、自信とは、現実に生きている主人公である己自身の存在を信じきることは、己の中にある未知の領域を開く限りない力引き出せる力の根源となる。

自分の外の宗教活動に、ただ、のめり込む人、ただ、宗教にこき使われ、ただ、利用される人。

それは、この世の中で一番た大切にしなければならない自分という存在をどこまでも信じきることの出来ない弱さによる。

ただ、一人という存在、その絶対的な価値。

その絶対的存在の価値にたいして、いつの間にか「組織のための人間」を生み出す宗教団体。

宗教団体は、「人間のための組織」に存在しなければならない。

ただ、一人の人間の幸福のために光を当てなければならない。

人生を確かに生きる哲学

本因妙 | [2011-03-08(Tue)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

ネットの創価が学会を滅ぼす


私は創価学会員であり、創価学会によって授かった仏法を信仰しており、その仏法における教義と哲学を根本として、記事を掲載しているわけですが。ネットにおける当サイトのポリシーとして「創価学会」のことは意識して、これまで取り上げないようにしてきました。。

それは、「創価」の中だけと言わずに世の中には、素晴らしいと感じる生命を持つ人は、他宗を始め、信仰さえ持たない人の中にもいくらでもいらっしゃいます。また、学会員だからといって、これだけ組織が肥大化すれば、全ての人が、世間的な常識を弁えた人たちかと言えば、必ずしもそんなことは無く、一般社会からも、創価学会の人間は、非常識といわれても仕方のない人もいるわけです。

勿論、それは、私を含めてのことであり、創価といえども、言ってみれば、なんら世間の人たちと変わらない。いえ、逆に、多くの悩みと問題を抱えたまま、そのまま消化できずに悶々と苦しんでいる人の方が多いのかもしれません。それは、創価だけに限らず、「信仰」と「宗教」を選択する人の心の闇は深い。一般世間から非難されるような行動を取るという人が、創価や、信仰・宗教をしている人に中にいても、それは、至極、当然のことなのです。

信仰とは、一人、一人が、社会の中で、役目と責任を果たせる生き方が出来る人生の独立自尊を体得するためにあり、宗教とは、その一人ひとり、個人のためにあるのであって、創価という組織のために人間個人の信仰があるのではない。

あくまでも、ひとりひとりの自己確立を目指すための信仰心を生命に開き続けることの役目を創価と言う団体は担っているわけです。

一人、一人のその心の中にある信仰心を現実の生活に即して、そのあり方を語ることが、創価を語らずとも「創価」を語ることになる。しかし、その方法は各人各様。それぞれの境涯と境遇における宿命転換の道筋の中で、己の心と生命に映る現実を語ることが、「創価」の「価値」の種を撒くことにつながる。そんな風に考えます。

他宗を批判する、寄せ付けない雰囲気を醸し出し、創価が宗教界の王者と名乗るのであるならば、こんなネットという場所において、その他宗がしていることと同レベルな宗教活動をして良いものかどうか、それぞれの己の「創価」によって与えられた、その信仰心を育てるための根本である哲学に、常に、問うてみる必要もあるのではないかと考えます。

寄らば大樹の陰。大きなものを主張することによって、己を大きく見せようとするために、己の信仰心を隠すための道具に「創価」と言う名前を簡単に使うことが、己の中で許されるのならば、それは、本当の信仰心があるのかどうかその覚悟を命に問うことが、また、必要になるのではないかと考えます。それは、己自身の過去の浅墓な行為としての事実から感じ取れることの答えでもあります。

しかし、私が「創価」が備える根本と、その本質に対して感じる「誇り」と「恩」は、ひとしおです。

恩は恩。

わたしは、わたし。

その恩を返すのは、私の中の信仰心。私の中の信仰心と言う【もの】を顕すことによって恩返しをすることが、己を変えることになる大切なことと考えます。だから、「創価」を名乗る必要はないし、創価の中の哲学とは、己の中の信仰心を開くためのものであり、その哲学を現実の生活における人生に反映させるためのものである。

そして、哲学であるこの信仰の究極、「利他」の信仰、更に進んで「慈悲」の信仰であるということは、言葉の意味や観念として理解は出来ます。しかし、生身で現実を生きる、それぞれの人間の千差万別を考えれば、利他や慈悲などどいう、言葉の意味の本質さえ理解できない人間が、お利口さんの信仰者を装って、ネットで、自身のお尻がかゆくなるような、自分の中で体得さえしていない言葉を並べて余所行きの「猫なで声」を使うことに意味があるのかどうか?

「自分に無いものを背伸びして見せても、後で、自分が恥ずかしくなるだけ。」ともいいます。

それよりも、私が感じるのは「ネット」と言う場所で「創価」を使うことのマナーを弁えることを、学会員の方は学ばれた方がよいとも感じます。ネットの社会を「こんなところ」と言うのは、語弊があるのかもしれませんが、己の中の本当の宝であるなれば、本当の価値を知らずに、こんなネットなんかで「創価」「創価」と宣伝することよりも、そのメリットと、デメリットを信仰者の知恵として学び、真摯に受け止め、「組織」「組織」とその枠を固めようとして、創価の団体の力をひけらかし、広げれば、広げるほど、ネットと言う世界では、不特定の傍(はた)で観戦する人達は、理解を傾けようとすることよりも、逆に、更に、かたくなな拒否反応を示す場所なのだということを、学ぶべきなのではないでしょうか。その学ぶべき根本こそ、妙法の中の題目にあるのではないでしょうか。

そんな意味では、このネットという未成熟なメディアの世界に、多くの信仰者達が、こぞって参加し宣伝まがいや宣伝そのものに終始する宗教団体と同列な場所で、まるで「創価」の宣伝チラシをばら撒くことがいいのかどうか。

ネットのメディアが、宗教の根本の教義を語ることにふさわしい場所なのかどうかの意味を問うことと、その行動の根本を疎かにすることがあってはならないとも感じます。そこには大きな責任が付きまとうのだとう言うことです。ネットの発信者は、創価を名乗るのであれば、この「ネットというメディア」のもたらす影響を理解しなければなりません。単なる個人の自己満足のために、創価の名前を使うのならば、それが、正しいことの根本から発していることなのかどうか、それは、真剣な戦いを求められているということに気がつかなければなりません。そのような、のべつ幕無しでいいのかどうかを信仰心によって、己自身にその善悪を啓蒙する必要もあるのでしょう。

ネットで、信仰と宗教・創価を、語ることの意味を、現実のリアルさ以上に、真摯に受け止め、己の信仰心を発揮することにつなげていかなければ、逆に法を下げ、宝の本当の価値を石ころにしてしまう。その怖さを知らずに、ネットで軽々しく語ることの恐ろしさを、喚起しようとしないのは、ネット社会が、特別な場所であることを示しているのかもしれません。その特別な場所であるということの意味を、信仰によってまた、見抜いていく知恵を得ることがネット社会を変えることにつながるのではないかと考えます。

最高の信仰を保ちながら、「人」や「物」に利用されるのでは、あまりにも愚かです。最高で最強であるこの信仰。もっともっと、その力を己自身の知恵を発揮するために、利用しつくしていかなければなりません。そこに必要なものは、生命からは発することの出来る信仰心以外の何者でもありません。

いいことも、悪いことも全部、受け止めることのできる生命を発揮できるのがこの信仰。そして、本来の理想は、もっともっと大きい。いいことも悪いことも「どんなことも言える」。逆に、言われて困ることなど何一つない。批判されることに、目くじらひとつ立てることも無いはず。そんな風に、何でも受け止めて行く覚悟も必要なのでしょう。

学会可愛さゆえに、つまらぬ我が身の保身のために擁護するための「法」を使って正論と称する言い分けすることは、創価学会が、非難や中傷を受ける事の理由のひとつであるかもしれないし、結局、非難される側にその原因の根本があるのだというところに帰着できないという己の信仰心に立ち返れることの出来ない、己の傲慢さを露呈しているのかもしれません。

仮に、創価学会が崩壊しようと、更に、発展しようと、究極、一人ひとりの信仰が確立されれば、どうでもいいこと。一人の中に永遠に消えない創価の存在が厳然として、己の生命の中に存在する。宝は、創価学会と言う団体にあるのではなく、信仰者の一人一人の中に目に見えない最高の宝として絶対的に存在する。

しかし、ネットの安易な信仰活動の世界では、外部の創価を毛嫌いしている人たちが創価を攻撃し、創価学会を潰すのではなく、その内部から出てくる愚かな信仰者の獅子身中の虫によって、時代を察知できぬ変化の結末が、創価の崩壊につながる可能性を秘めていると言うことを否定することは、出来ません。

それは、リアルな現実よりも、更にリアルなのかもしれません。

 サイト運営者 2011/3/6  


創価 | [2011-03-06(Sun)] | Trackback:(1) | Comments:(1) |-

旅立ちはいつも急です

深夜、自宅に仕事から帰ってきたら、台所のテーブルの上に弁当が置かれていた。

父が、実家から届けてくれたお弁当。

その横には、「おべんとう食べてください」と書かれたメモ書きが置かれてあった。

ありがたかった。

いつも心配してくれてありがとう。

感謝の気持ちがこみ上げてきて、その弁当を泣きながら食べた。

ほんとうにおいしかった。

作ってくれた母の気持ち。

そして、その母が作った弁当を持ってきてくれた父の気持ち。

父と母を恨んで生きてきた私の過去の人生。

申し訳ない。

ほんとうに申し訳ない。

そう思うと、止めどもなく涙があふれた。



失敗だらけの私の人生

その過去は、私の大切な財産。

これからを生きる私の宝。

変わりたい。

もっと、変わりたい。

もっと、もっと、生きたい。

自分のためじゃあない。

私にとって、大切な人の為に生きたい。

幸せにしたい。

だから、もっと、もっと変わる。

私は、変わる。


ここは、いつまでもいるところではない」。

旅立ちはいつも急です」。


今日のNHKの連続テレビ小説「てっぱん」での台詞。


自分の心に、止まるものを感じた。

「ここは、いつまでもいるところではない。」

そう、自分の人生は失敗だらけ。

その失敗だらけの人生で学んだことは、今を生き、そして、これから残りの人生を確かに生きることに直結している。

そこには、己自身の生き方を確かに築き上げることの出来る正しいと信じた哲学があるから。

自らの中に、独立自尊の桜梅桃李の生き方を確立することの出来る法があるから。

「ここは、いつまでもいるところではない。」

そう、だから、いつまでもここに立ち止まっていてはだめ。

変わるために、己の中に常に変化を求める。

その勇気。


決してあきらめないこと。


「旅立ちはいつも急」

その変化を、決して恐れない。

決して、逃げない。

人生は、一度っきり。

でも、私の人生は、2度目。

一度は、死んだ。

だから、2度目の人生を生きる今、生きているだけで丸儲け。

「旅立ちはいつも急」

明日の私。

絶対に変わることの無い確かな哲学に基づいて。

人生を確かに生きる哲学

本因妙 | [2011-03-01(Tue)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

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