心の師とはなるとも、心を師とせざれ

何か起こるたびに人間は、動じる。

心に不動の地位を築き上げることは可能かな?

一日、24時間。

一年、一生。

人間は、動じながら、流されながら、時には流れに乗りながら、心は定まることが無い。

心の奥底の生命には、確固たる哲学が存在する。

見える。

しかしながら、わたしの生命の奥底を映し出す心のスクリーンは、時として曇ったり、千切れたり、破れたり、汚れたりして、信念や一念が、そのまま映し出されることが無い。

何だろう。

動じない心。

「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」

その通りだと思う。

しかし、その通り実行できる人間なんていなよね。

みんな自分の心に感じることを正しいと信じているんだから。

自分が正しいと信じなければ、自分の人生を生きる事なんて出来やしない。

その人間の生き方の浅さ。

人間が確かな哲学を持つことによって、己の人間の生き方の浅さを知る。

「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」

動じない心。



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ふと思う、わたしの中の創価

いつか分かってくれる。

いつかきっと、この信仰の正しさがわかる時が来る。

母は、そんな言葉をよく言った。


でも、なぜ、その時にわからせてくれなかったの?

って思う。

小さい頃、私は知らずにこの信仰を授かった。

何も知らずに母の言われたとおりに、宗教活動を行っている組織の中に信者として入信させられた。

親達は、先祖代々の信仰を捨て、新興宗教といわれる団体をいくつも渡り歩き、現在の宗教組織にたどり着いた。

不思議な縁だね。

その宗教団体が、今、日本で最も大きな組織として存在している。

組織が大きくなるのには、それなりの理由がある。


幸せも、不幸もあった。

何も変わらなかった。

そんな風に思っていた。


知らずに受けた信仰に対して、恨んだりもした。

憎んだりもした。

組織の信仰の仮面をまとっただけの、大人たちの人間の汚さを見せつけられた。

人間が信じられなくなった。


人間を信じることの根本を知るための信仰になのに、人間を信じられなくなる宗教組織に入信させられる不幸。


これ以上のわたしの不幸はないではないだろうか。

私自身を呪ってみたりもした。


学会によって、何年もの間、わたしは苦しみ続けた。

でも、今は、その全ては過去。


わたしにとって創価は、好きでも嫌いでもない。

でも、思いは深い。

深くて、その思いは、互いの信仰というものなしに語ることはできない。


己の信仰とは、こんなものなんですよ。

なんて言うことを書けば書くほど、嘘になる。



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人生の病根は傲(ごう)の一字:本因妙

若い世代では、自信過剰な男性を「俺様」と呼ぶらしい。

「あの人、ちょっと俺様ね」と言えば、〝自信家で鼻持ちならない〟の意味とか。

 
  2011年 8月22日(月)の「名字の言」より


『人生の病根は傲(ごう)の一字』

母が、教えてくれた。

母が、わたしに与えてくれた。

でも、その言葉を忘れそうになる時がある。

でも、その言葉を忘れている時がある。

そして、気が付いたら、もう、その言葉すら忘れていた。

人間は弱い。

決して一人では生きてはいけない。

「一人で生きていける」なんて言うのは、傲り以外のなにものでもない。

生きることに感謝を忘れた人生。

わたしが生きているこに対する全てへの感謝。

大切な人への報恩。

今生きているのは、大切な人のお蔭で生かされている。

私の中の生きるという勇気は、私の中から湧いてくるものであるけど、私の勇気ではない。

でも、私の勇気だ。

人間らしく生きることに対して、より、人間らしく生きようとする勇気。

「より」人間らしく生きるとは、わたしを、より、わたしらしく生かすということだ。

生かしたい。

わたしの人生だから。

感じたい。

わたしが、今を生きている実感。

確かな哲学の中には、必然的に「謙虚」さが生まれる。

報恩と感謝、そして、謙虚さ。

人間は弱い。

結局は、強さが人間を滅ぼす。

その弱さ。

人間が、今というこの瞬間を生きる連続。

現在。

そして、過去。

未来。

過去は大切な宝。

今を積み重ねた己の宝。

未来を創り、変えることのできる大切な宝。


『人生の病根は傲(ごう)の一字』

大切な言葉をありがとう。

変わりたいと誓う私の中にとって、母が与えてくれたこの言葉は、大切な宝。

宝なんだ。

生きているだけで丸儲け。

人間は、すべてに対する謙虚さの中から、生きることの大切な本質を気が付くことが出来る。

だから人間なんだ。

人間。

神も仏も人間の中にある。

でも、人間は、神でも仏でもない。

神や仏になんてなりたくない。

神や仏と勘違いして、人間として生きることを止めるのは嫌だね。


『人生の病根は傲(ごう)の一字』

下界の人間達を眺めて、現実の外から説教を垂れる人生なんて意味がない。

生身の人間でなけりゃあ、人間として生きられやしない。

まだ、まだ、これから。

生きることにゴールなんてありゃあしない。

スタートとゴールの連続。

人間やめたら死ぬのと同じ。

生きる屍とはよく言ったものだ。



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当たり前に生きる

人間が、当たり前に生きること。

当たり前に生きるということがどれほど難しことであるか。


当たり前に生きるということは、これほど大変なことなのか?


当たり前のことを当たり前に実行できる人。

当たり前のことが当たり前にできないで苦しんでいる人。

当たり前のことが、当たり前にできて、当たり前なんだ。


「早く、一人前の人間になれ。」って、一人前の人間ってなんだ?


当たり前ってなんだ?


わたしは、利他や慈悲という言葉は知っているけれど、利他や慈悲という言葉を知ることが出来ない。

でも、利他や慈悲という言葉の実践は、あたしの毎日の行動からすべてが表れていくのだというふうに感じる。

誰の為でもない。

わたしのためなんだ。

だから、感謝して人のために行動できる。

でも、利他や慈悲なんていう大それたことなんかじゃあない。

だってわたしの為なんだから。

勇気をありがとう。

わたしの勇気はどこから来るかって?

それは、大切な人を守るため。

感謝と報恩のまことを尽くしたいと誓っているし、祈っているし、願っている。

それが、わたしの今を生きることの意味。


勇気というのは、自らの生命から生み出されるものであるが、それは、自らの力ではない。

そこに人間がいるからこそ、まことの勇気は湧きあがる。

ブログというのは、私に与えられた自由場所。

ここでは自由でありたい。

当たり前に生きたい。

でも当たり前に生きることが不可能な程、人間って困難な生き物。

人間を支配しているのは何?

当たり前に生きられない人間達の不可能を不可能とあきらめて、単なる思い付きや、アイデアで生きる。

そんなのは御免だね。

人間の進化の理由。

不可能な中から可能を生み出してきた。

生命の不思議。

生命とは見えない形を見える形にかえたもの。

人間が人間たる理由。

人間に与えらた使命。

人間が楽に生きるのなんて、気の持ちようだよ。

ただ、ちょっと気持ちを切り替えれば済むこと。

なんて言うけど、そんな当たり前のことが出来ないのが人間の愚かさなんだよね。


人間は簡単には生きられない。

簡単に生きようと思えば思うほど、難しくなる。

人間の世界で生きる。

人間というのは、定まらないけれど、定まらないものを定めるのが人間のなせる業ではないのだろうか?

人間には、知恵がある。

その人間の知恵が集まれば英知なる。

人間だから出来ること。

人間という不思議な生き物だからなせる業。

必然。

見捨てちゃあだめだよ。

見捨てないよ! おとうちゃん!



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ブログタイトルを変更いたしました

ブログタイトルの変更をいたしました。

「世界に一冊のメモ帳・ひとしずく」

より、

    「世界に一冊のメモ帳

といたしました。

ちょっとした心境の変化ですが、今後ともよろしくおねがいします。

サイト運営者:バン

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自然に生きてるってわかるなんて、なんて不自然なんだろう?

人間て楽することに、一生懸命になっているけど、

究極、人間が楽をして生きることに際限なんてないんじゃあないんだろうか?

そんな楽をして生きることを、懸命になって探している人生は、本当に楽なことなんだろう?


「闘う君のことを戦わない奴らが笑うだろう。」

っていうそんな世の中。


「自然に生きてるってわかるなんて、なんて不自然なんだろう?」

は、吉田卓郎の「イメージの唄」の歌詞。

人間っておかしな生き物だと思う。


強い人間ほど、自分の心の中を見せない。

弱い人間ほど、自分の心をひけらかして同情を引こうとする。

それは、全部言い訳のような気がする。

でも、ここでは、何もない。

あるのは自由。

この空間。

この場所でのわたしというものの方向転換。

歩み方。

わたしの変わり方。

この場所の意味。

飾らず、見栄を張らず、自分に無理をしない。

ありのままに生きる。

ここでは、わたしは「自然に生きてるってわかる」大切な場所にしたい。



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創価学会員の「コピぺ」信仰

創価学会の団体の機関紙である聖教新聞。

その中の「名字の言」というコラム。

そのコラムの内容を「コピーペースト」をして、そのまま貼り付けてブログなどに掲載している人がいる。

私も、以前、「コピペ」をしていた。

「コピペ」をしてそのまま貼り付けるだけ。


「一体、この人は何をしたいのだろう?」と思う。


「何を伝えたいのだろう」というよりも、

「何をしたいのだろう」という強い疑問が湧く。

ただの「コピペ」。

創価学会の宗教団体に所属している創価学会員ということを前提に。

大切なものを、ただ、垂れ流す。

「ただ、垂れ流す」ことに一体、当事者の信仰心を映し出すことはできない。

コラムの執筆者達が、この500字ほどの原稿を書くために、創価と己の信仰に思いを馳せながら確かな哲学に基づく作品を書き上げることに苦労をされていることだろう。

その「名字の言」を、創価学会の会員であろうブログなどのウェブサイトを運営する者は、「たった、1分のコピペ」でその根底にある大切なものを宣伝しようとする。

そこに自分の言葉は何にもない。

他人を思いやる利他、慈悲の信仰を仰ぐ仏法を根幹とする創価学会の会員であると自負するのであれば、自らの信仰心に問いかけることをしないような自身に対してそして、他人に対して無慈悲な行為は止めるべきだと感じる。

他人の物を借りるのであれば、謙虚に、敬意をはらい、しかるべき方法で、マナーを守る。

そんなこともできないような人間が、創価学会員と名乗り、創価学会を宣伝するようなことは、誰人にとっても信仰上、有益なことは無く、害ばかりが増える。


単なる「コピペ」だけでは、その人間の信仰まで「コピペ」信心であるかのように思える。

己の中に、本当の自身の宗教を開く自己を確立するための信仰心というものがあるのかどうかを、常に問うていただきたいと願う。

信仰とは、一人ひとりの中に築き上げられていく、唯一のものであり、人間の心の奥底のを生命を感じることのできない「コピペ」信仰で得られるものではない。

せめて、「名字の言」を転載するのなら、そこには、きちんと自身の信仰と哲学に基づく感想や意見を述べるべきであると感じる。

何も感じることが無いのなら信仰心が無いのと同じ。

「コピペ」だけで創価の宗教を盲信するだけで、本当に一人ひとりの人間革命という自己確立の集大成をなすこと出来ようか?

己の信仰心に対する誇りを持とうとするのならば、行動、振る舞いを改めるべきであるし、必然的に成すべきことに気がつくはずである。

信仰とは、全部、自分自身できまる。

創価学会が自分を変えるのではない。

自らが変わる以外に、信仰に基づく確かな哲学を確立できることなどありえません。

インターネットは人類にとっての大きな財産。

わたくしにも言える事なのですが、正しい信仰、宗教団体を名乗り宗教活動のほんの少しの役目を果たさんと願うのであれば、他人の物を横取りしコピペしてそれが、自分の信仰心の証だというのなら、それは、創価を汚すことにつながり、正しい信仰を歪ませることにもなる。

インターネット上には、ゴミもたくさんあります。

宝を拾うのか、ゴミを拾うのか。

宝を買うのか、ゴミを買うのか。

それは、全部、パソコンをクリックする指先からつながってる心ひとつ。

全部自分自身の自己責任。

せめて、我々は、創価と名乗る以上、信仰上のゴミを増やさないという己の根本の中の宗教的な意識が必要なのではないでしょうか?

人間として。

創価であると同時に全ての同じ人間として。




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地獄が天国と思える生きているだけで丸儲けの人生

夏が来ると思い出す。

4年前のこと。

生きることが苦しかった。

生きることの上での悩みも解決されなかった。

母の兄弟で一番上の兄が亡くなった。

亡くなった母の兄の葬儀に出席するために、母の実家の九州にわたしは一人で返った。

お通夜と葬式を終えて。

ホテルで、部屋の窓から見える玄界灘を見つめながら思いつめていた。

わたしは、もう、生きていくことをやめたくなった。

もう、このまま戻らずに、ここからいなくなってしまおう。

そんなことを思った。

自分を消したい。

生きることにたちが上がることに疲れた。

もう、真っ暗な先しか見えない人生。

このまま自分が生まれた場所で死ぬこと。

でも、出来なかった。

母に最期だと思って電話をかけた。

察してか、涙ながらに「帰っておいで」という母。


なぜ、あの時に死ななかったのだろう?

というより、こうして生きていることの方が不思議。

あの時は、生きる事よりも、死ぬことの方が楽だったはず。

生きることの辛さのどん底に、なんどもなんども這いつくばって、それでも死ぬことの選択よりも辛い、生きる選択をして生きていた。

生きることを終わらせたかった。

母の言葉で、わたしは生かされたのだろうか?

生きていることが不思議。

生きることの選択と死ぬことの究極の選択に迫られながら生きていたあの時。

死ぬことに怯え、生きることに怯え。

生きることのどん底。

今は、私はどこにいるのだろうか?

でも、後ろを振り返ればそのどん底がはっきり見える。

見えているような気がする。

死ぬことを選ぶ毎日から、今は、生きることを選ぶ毎日。

生きていることはありがたい。

人生生きているだけで丸儲け。

「地獄が天国と思える人は、もう、生きているだけで人生が丸儲けなんだ。」さんまさんが言っていた。

その言葉に、その通りだと同感できる。


今、あの夏の暑い日に自分のどん底があったのかと思える。

でも、あの時は、地獄は地獄以外のなにものでもなかった。


地獄が天国に思えるなんて、仏様位のものだろう。

だらから明石家さんまさんはお笑いの神様と呼ばれいるのかもしれない。

今、生きている。

生きているだけで丸儲け。

ありがたい。


人生を確かに生きる哲学

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人間の世界に平和はあるのか?

今日は、創価学会の聖教新聞の中のコラムである「名字の言」をご紹介します。

2011年 7月4日:今日の【名字の言】

 山岡荘八氏の『徳川家康』は、長く新聞小説の連載回数日本一であった(4725回)。その記録を更新しているのが、池田名誉会長の『人間革命』『新・人間革命』。6月27日で計6182回となった。

新聞連載という激務と格闘し、多くの読者に愛されてきた二人には、いくつかの接点がある。名誉会長が編集に携わった雑誌『少年日本』。21歳の若き編集長の熱意に応じて、山岡氏は創刊号に「紅顔三剣士」を綴った。かつて本紙にも「高杉晋作」を連載している。

『徳川家康』(講談社)の第1巻のあとがき(昭和28年)に、注目すべき山岡氏の言葉があった。戦争の悲惨さを目の当たりにした氏は問いを投げかける。「人間の世界に、果して、万人の求めてやまない平和があり得るや否や」。

そして、その問いに自ら答えた。「新しい哲学によって人間革命がなしとげられ、その革命された人間によって社会や政治や経済が、改められたときにはじめて原子科学は『平和』な次代の人類の文化財に変ってゆく」。

人間革命こそ平和社会への根本の道――この時すでに名誉会長は、そのための行動を開始していた。平和と幸福を育む確かな民衆運動が大河のように広がっていった。壮大なる師の足跡に感謝し、後に続きたい。(和)


【聖教新聞】今日の「名字の言」より転載いたしました。



今日の「名字の言」いかがでした?

「継続は力なり」ともいいます。

これほどまで長く新聞小説『人間革命』『新・人間革命』の連載記録を更新し続けてこられた原点は何なのかということが、理解できるような気がします。

人生の大偉業である人間革命とは?

その目的とは?

それは、どこまでも、たった、ひとりの中に存在する。

人間の世界の平和の実現。

それは可能か不可能かを問う人間には、絶対に不可能なことなのだ。

一人ひとり。

不可能を可能にするための哲学を、毎日、毎日、己が生きる上での現実である、今というこの瞬間に、刻み続けること以外ありえない。

道は開かれるのか?

道は閉ざされるのか?


開くのも、閉ざすのも、すべては、一人ひとりの人間の現実を生きる姿によって決まる。

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