創価のだれよりも一番素晴らしいのは、母


今日の【名字の言】をご紹介します。

スロー・リーディングが注目されている。“本をゆっくり読むこと”を指す。速読術のノウハウが語られる風潮の中で、もう一度、読書の原点に立ち返ろうとする試み、とも言えようか。

読む速度によって本の印象は大きく変わる。仕事や研究で、多読・速読を余儀なくされることもある。ゆっくりページを繰ってこそ、気がつく珠玉の言葉もある。暮らしのかたちに合った、多様な読み方があっていい。

まことに至福の読書とは、読むリズムと理解の速度が呼吸・心拍とも連動した「本と心身とのアンサンブル」(山村修『増補 遅読のすすめ』ちくま文庫)に違いない。

私たちは〈身読〉という言葉を知っている。身で読む、すなわち学んだことを実践する、との意味である。日蓮大聖人は「他の人が法華経を読むのは口ばかりで、言葉の上だけでは読んでも、心では読まない。また、心で読んでも身で読まない」(御書1213ページ、通解)と仰せになった。ここには書物にふれることの“究極の輝き”“無限の可能性”がある。

読書の秋――良書をじっくり味わって、人生の糧としたい。本をめぐって語り合えば、人間の輪も大きく広がる。読書とは、孤独な時間ではない。人間世界の最高に尊い営みの一つである。(雄)

2011年 10月27日(木):【名字の言】より転載いたしました。



今日の名字の言いかがでしたか?


わたしの母は、本を読むわけではない。


何かを読まなければ、信仰というのは、深まらないのだろうか?

母は、実践の人。

母は、行動の人。


どんなに学会の書物をたくさん読んだって、どんなに御書の御文をたくさん知っていたって、そんなことなんて、ちっとも偉いなんて思わない。


わたしの母は、大した知識や教養があるわけではない。


しかし、わたしの母、創価の誰よりも偉大な人。


わたしが、私の人生で一番尊敬できる人。


母は、実践の人。

母は、行動の人。


草創期から、母は、創価の為に、彼女の生き方すべてを捧げてきたのだ。


母こそが、創価の功労者なのだ。

無冠の功労者。


だからこそ、母は素晴らしい。


創価の誰よりもすばらしい。


母へ。



父へ  | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

「盲信、洗脳の創価はひどいよ!最低だよ!」って言ってるの♪

わたしは、最近、「世界に一冊のメモ帳」である私の個人ブログで、創価学会員である「わたしが」、その創価の悪口をさんざん書いている。

自称、創価学会員と名乗るネットのユーザーさんも、まあ、かなり困惑したり、腹を立てたり、眉をひそめながらよんでいるかもしれない。


でも、わたしは、創価学会員である。


ここでは、わたしも、自称、創価学会員なのである。


自分が創価であるかなんだかなんてことを語る必要ないと思うんだけど。


創価とは、一人ひとりの人間が、己の人間を語ることが全てなんだ。


創価の名前のついたタイトルの個人のブログやHPを見ると、時として、嫌な気持ちになる。


創価の自慢話ばかりや会合の内容などを書くなら内輪でやってくれ!


組織の同志のアホなコミュニケーションをとるなら現場サイドでやってくれ!


聖教新聞と同じ美談ばかりをただ宣伝するだけなら、その役目は、ちゃんとリアルな新聞媒体がその役目を担っているよ。


聖教新聞に書かれてあることを、だた、コピーするだけの作業が、創価学会員だと勘違いするのはやめてくれ!


ブログにこんな記事を書くことって、かなりのエネルギーが必要。


あたりさわりのないところで、創価はみんなが家族同様なんですよ~~♪ みんなが人のため、世の中のため、社会のために役立つ人間として頑張っているんですよ~~♪


なんてことも出来るけど・・・。


しかし、現実はそうじゃあない。


いいことばかりがあるはずがない。


創価の中の哲学は、最高にもなるが、最低にもなる。


それは、その創価が根本とする哲学を、自らが体得できるか、できないかによる。


創価の価値は、受け取る一人の一人の人間によってダイヤモンドにも、石ころになるということ。


自称、創価学会員と名乗るネットウェブオーナーは、自らの組織を讃嘆し、そして宣揚する。

創価は正しい団体なのだ。

創価は正義の団体なのだ。


と連呼する。


組織に頼るな!


組織のただの宣伝活動家になるな!


創価の正しさを証明するものは、一人の人間の姿。


わたし自身しかいない。


創価の中の宝を大切にしたい。


わたしの中で、その宝の原石をさらに大きくしたいと思う。


「創価は、いよいよ更に、永遠なる生命の黄金城を建設する」


現実はどうだ?


組織は、大きくなり過ぎると必ず崩壊するんだ。

組織はいつかは、その役目を終え、新しい芽が、次々に生まれる。


組織はジャガイモ。


創価。


「種ジャガイモ」になり、創価の確かなDNAを引き継ぐ、たくさんの美味しいジャガイモをつくれ!


そして、最後には、朽ち果てる定め。


全ては、受け継ぐべき一人ひとりに託される。



今年の財務はしないと組織に、宣言した。

(以前に、書いた記事↓)
創価学会はどこに行く?その哲学は根本は?


わたしが現在、この地に引っ越してきたのは、昨年の暮れだった。


財務とは、創価学会の一年に一度、組織をあげての資金を集めるイベント。


イベントというのは、ちょっと違うかもしれない。


まあ、儀式みたいなもので、その意思表示によって創価の信仰のあるなしが問われることにもなる。

でも、本来、お金によって己の信仰をはかりにかけるようじゃあ、そんな組織とは、とっくに縁を切ってやる。

創価の中でも、そのあたりは、信仰心の浅い者や、深い者などいろいろある。

しかし、お金という財務によって信仰の有無を問うことなんてあってはならないというのが、この哲学。


しかし、学会組織は、お金という財務をすることによって、信仰の功徳に恵まれるんですよ。


とても、わかりにくく、まわりくどく説明する。


信仰心の無いものは、自分の信仰心の無さを悟られたくないから、自分の中ではっきり明確な意志の無いまま、お金という財務を支払う約束をする。

盲信。

盲信は、やがて、洗脳に変わる。

それが、自分の信仰心なんだと錯覚する。

これが、組織の為の人間を生み出す宗教の奴隷。

創価にいるよ。


なんだか、そんな人間ばかりになっちまったような気もするね。



で、話を戻すけど、昨年、引っ越しをしてきて、創価学会員としても、引っ越しという手続きがあり、組織内で移動も完了していた。


しかし、ながら引っ越し後、財務の申し込む手続きが始まる、今年の9月ごろまで、地域の創価学会員の担当幹部が顔を見せたことは、引っ越した後に、しばらくたった後の一度のみ。

本来なら、毎月の定期的な会合などの連絡などが行われることが定例であった。

これまで創価として所属してきた中では、そんなことが当たり前で、その人たちとの間でも、それなりの人間関係を保ってきた。

だから、創価は、創価学会員といわれる人達のことを、家族と呼んだり、同志と呼んだりする。

学会員一人ひとりを大切にする現場主義なんだ。

当たり前のことが、当たり前にできるのが創価なんだと思っていた。


でも、現実は違う。


だけど、わたしは、創価の組織の人間と連絡や近況などを話さなくても、、関わらなくても、現実生活すべてが、わたしの自己を確立させるための己の哲学に基づく闘いの場所なんだと感じていた。


だから、まあ、縁が無くてもそれなりに、やってるので気にしているわけではなかった。



しかし、


来た!


ココの地域の創価の奴は、来た!


しかも、何でこんな時に来るんだよ!


って言う時に、アホ面下げて。



下っ端の幹部じゃあなくて、中くらいの幹部かな?


まあ、正式には、きちんと幹部には、役職名があるんだけどね。


その中くらいの幹部が二人も来たよ。


そして、あろうことか!!!!



「今年の財務のお願いに来ました。」



『厚顔無恥』とは、まさにこのことを言うのかと思ったよ。



「一口、1万円です。」


「はぁ~~っ?・・????」



内心、開いた口が塞がらないと言う気持ち。



創価にとって大切な信仰対話より、金集めの連絡の方が大事かい!


しかも、いつもなら一人で来るくせに、今日は二人かい!


そして、執拗にお金の振り込みを約束する財務の申し込みを迫る。


(※また、通常、申し込みをすると、最終的な振り込みの確認まで2度、3度と足を運んでくるよ)



人間主義で、一人ひとりを大切にする現場主義に立つ組織。


人間対人間、この信仰に最も必要なのは、対話。

一人の人間の気持ちをどこまでも理解する。

人間の心の不可能を可能にするものは、対話。





こんなふうに、お前ら創価の大幹部は、偉そうにいっている奴らが話をしてるじゃあないか!



それなの、久しぶりに地域の創価の「中くらいの幹部が、訪問してきて、金集めの話をするんかい!


集金係なら、お前の創価のメインバンクの営業マンにでもやらせればどうだい!



そう思いながら、尚も、私の中の、開いた口が塞がらない。



わたしの中で、「ぶちッ!」と何かが切れた音がした。



惰性と怠慢。


いや、腐ってるかなとさえ思った。




そして、今年の財務を拒否することを宣言した。


悲しいよ。



地域の創価の人間に猛烈に抗議して、その後、しばらくして、この地域のアホ、中幹部は、辞めた。



だから、今、ここの創価は、大嫌いなんだよ!


ちなみに、この創価学会の財務の金額も気に入らない。


なんで、創価学会の財務の金額は、最低、一口、「1万円」からなのか?


組織を守るためだけの組織人間には、納得できる答えなど言えるはずがない。



1万円以下のお金に、功徳の価値は無いか!

1万円以下のはした金では、お金じゃあねえか?

1万円以下では、面倒くさいか!


「おい!創価!傲り高ぶるなよ!」





だけど、それでも、わたしは「創価」を誇りに思う。


一人の人間の存在のために。



絶対に、あきらめないよ!


また、次に。




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おい!創価!だから「題目をおくる」なんてことを言うなって!!!

「題目を唱えなさい!」


これは決して言っては、いけない!


親であるなら、尚更、言ってはいけない。


一人の信仰心の明かりは、決して言葉で灯ることは無い。


最大級の傲慢な言葉。


こんな言葉を吐くものに、確かな哲学による信仰を映し出す、信心なんてかけらもないね。


創価の中の似非宗教に励んでも何にもならない。



わたしの地域の創価に、聞いてみた。


わたし:「私の所属するこの地域の組織には、どのくらいの世帯の学会員さんがいらっしゃるんですか?」


地域の創価の幹部:「・・・まあ、わたしもはっきりよくわからなんですよね・・・。」



わたしは、この幹部が、組織の中でもっとも現場に近い学会員なのに、

学会さんの一人ひとり、はっきりと答えなくても、せめて、「約●●世帯くらいですよ。」

という程度のことの答えは当然あると思っていた。


創価の組織って盤石だって、言ってたくせに・・・。


創価は、いよいよ80周年から、100周年へ向けて更に、絶対に崩れない創価城を築き上げていくのだ!


なんて、聖教新聞に書いてあることは、とっても立派なんだけどね。


これが信頼できる現場主義の一人ひとりにの幸せを願う創価か!


心の中で、怒りの炎がメラメラと立ち上がる。


そして、わたしは、畳み込むように、更に、今わたしが、現実に生活をして所属している創価について根掘り葉掘り聞いた。



するとこの幹部は言った。


下っ端幹部:「わたしよりも、もっと「上」の幹部に聞かれた方がいいですよ。」


下っ端幹部:「「上」の幹部は、それなりの信心があるから・・・。」


わたし、「なんで、そんなことがわかるんですか?」


下っ端幹部:「体験をつんでいるから。」


(わたしの心の声):下っ端幹部のあんたのことを私は、信用できない。そんな信用できない人間が、おすすめする「上」の幹部なんて知るかっ!


※下っ端幹部ということばは、この幹部が、この組織には、会員と幹部と幹部の中で、上の幹部といったので、それに従い、わたしは、下っ端幹部と書いている。


わたしは、あんたという人間しか、今は見ていない。

しかし、あんたは、自分の信仰信の無さを晒し、創価としても恥ずべきことした。


盲目の信仰。

あんたという人間に創価が見えないのに、どこに創価があるというのか?



わたしは、信頼できる人間に対して、その人が言うことは、信じることが出来る。

たとえ間違っていたとしても、後悔がない。

わたしが信じた人だから。


わたしが信用できないこの下っ端幹部が、この人なら何でも分かるよなんて、逃げ口上をする奴が言うことを誰が信用するかって言うんだよ!



全く、情けないね。


と、わたしの心の中の言葉全部を、私の中に飲み込む。


これが今の創価の現実なのだ。


現場の基盤がボロボロなのに、そこに何が築けるというのだ。

何が盤石な基盤だ。

永遠に崩れない創価城だ。


全く、泣いてるよ。

わたしも悲しくて泣けてくるね。


こんな創価な人間が、頭数だけそろえて、困っている人に向かって、「題目をおくりましょう!」だなんて、何を血迷った傲慢宗教に突っ走ってんだよ!

てめえの足元も見えてないくせに、何が、「題目を唱えてあげてま~す!」「だから、がんばってくださ~い!」

何様だい!


傲慢という袈裟を来た創価。


これも創価って言うのかい?


もっと、謙虚になったらどうだい?

おい! 創価!



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【創価 組織】:妻に先立たれ残された哀れな半ボケ老人の現実

二人で暮らす、お年寄りの創価学会員の方の片割れである奥さんが亡くなられた。


片割れっていう言葉はあんまり好ましい言葉とは思えないけど、この老夫婦になんかいいような気がする。


残されたのは、旦那。


世間的に言えば、可哀想。


男が後に残っても何にもできない。


自分の履くパンツの在りかさえ分からないんだから。


生活力、ゼロ。


出来れば、旦那が先に、あの世へおさらばして、奥さんが、旦那を見送る。


なんて方がいいね。

奥さんは、旦那から解放されて、これまで旦那に苦労をさせられてきた分の人生を、家族と共にエンジョイする。


でも、この場合は、奥さんが先に死んだ。


ここで繰り返す。

この夫婦は、創価学会員であるということを。


そして、この夫婦には、7人ものの子供がおり、入院して2週間ほどで亡くなった病院で己の母親の死に目に会えたかどうかは定かではない。



葬式にもどれほどの身内、親族が顔を出したかもそのあたりもここでは置いといて。


しかし、わたしの母親の話では、


葬式の後の次の日。


残された、やや痴呆を発症しと見えるぼけ老人。


介護でヘルパーの世話にもなっているらしいが、このヘルパーもこのぼけ老人対しては、警戒をしており必要以上というよりも必要以下程度の世話しかせず、まるでこのぼけ老人に何かされたかのようにも思えるほど、そそくさと仕事を終えるということだ。


葬式を終えた次の日。


母のところへ、そのぼけ老人がやってきた。



「食べるものが無く、お腹がすいたので」何か食べさて欲しいという。


勿論、母は、亡くなった方老婦人の方の葬式へ出席している。


その時には、家族や親族も来ていたとのこと。


しかし、やってきたぼけ老人の話を聞いて、おにぎりを持って、ぼけ老人の自宅を訪ねたところ、そこには、葬式の後に、親族や家族が食べ散らかしていった残骸が置き去りにされていたらしい。


女3人、男4人の息子や娘がいながら、その家族たちは、誰一人、亡き母の後に一人残された、ぼけ老人の世話をするものはいなかったということだ。


ただの一人もいない?


こんな半分ぼけた老人を、妻が亡くなったあとなら、さぞ可哀想に感じる事だろう。


せめて初七日をむかえるまでは、代わる代わるでもいいからそばについていてあげよう。


当たり前に思う。


それで周りは、創価学会員のご夫婦のあそこの子供たちは、当たり前のことをちゃんとされると見るよね。



でも、現実は違う。


誰一人、自分の父親が悲しみ沈んでいるはずの時に側について、労わってやる者が居ない!


「7人も子供がいるのに?!」


こんな疑問を感じない人は、まずいない。


この疑問を感じる疑問こそが、すべての答え。


これが現実だ。


これが創価学会員の現実だ。



そこに何がある?


何もないからこうなる?


長く生きた結果の答え。


最後の審判。


はたの人間が、どちらが悪いなんて言うことはできない。


子にはこの理由がある。


親には親の言い訳がある。


しかし、だからといって、「そのぼけ老人が子供の世話にはなりたない」と己の生き方に対して現実に向き合うことも不可能なほど枯れ果ててしまったからといって、

その世話をなんで、うちの母に泣きついてくるのだろう?


全く、おかしな道理だね。


母は、その家族のことに理解できないと言いながらも、辛いだろうから、可哀想だからと、その半ぼけ老人の面倒を見てやっている。


そして、その姿を見て、地域の創価学会員の幹部が言う。


創価には、婦人部というのがあって、「白百合長(しらゆりちょう)」という役の御婦人がいる。



母は、その白百合長にくぎを刺された。


「あの人には、注意しいや・・・」


この言葉の意味には、いろいろ深く想像力をおよばさなければならない。


それを聞いたわたしも、母に注意した。


「あまりかかわらない方がいいよ。」


人間とは冷たいものだ。


しかし、人間に同情は禁物だ。


その場限りの同情では、何にも解決しない。


慈悲とはなんだ?



愚かな人間の人生の最終章に訪れる現実。


人間を救うことなんて出来やしない。


人間を救うのは、己自身しかない。


憐れな現実を真正面から見つめる。


そこに必要なのが、確かな哲学以外のなにものでもない。






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酸化した「はた迷惑」な組織エゴ人間の「頑固さ」という垢

人間の頑固。


とても協調性のある頑固と、はた迷惑な頑固。


「もう、こんな頑固な人とは付き合いたくない!」


なんて、頑ななほど、人の意見を聞かないという頑固。


そんな頑固さは、時として「傲慢」がプンプン。




「わたし、頑固な便秘で困っている。」


便秘に対して頑固を使って強調する。


便秘とは頑固なもの。

早く出るものがでてすっきりしたい。


組織という場所で、その歯車として働く人間には、頑固な「油」が付着するようだ。


その「油」は、酸化してなめらかに部品としての役目を果たすことはできない。


「組織の硬直化」とは、ひとつひとつの歯車が己の頑固の油が酸化して、油として本来の役目を果たさなくなったものの集まり。


傲慢人間の集まりの組織。


組織エゴ。


人間の汚い垢という汚れにまみれている。


その頑固は、洗脳という言葉にも似ている。


こんな人と話をしても、全部組織の歯車としてそれ以上の機能を果たさぬわけで、何の対話も期待できない。


組織のための人間を作り出す。


もう、交わること、関わることさえできないようなところにまで来ているのだろうか?

感じた。


組織の奴隷。


組織の歯車の一つとして、笑っているその人間の笑顔にみえるその瞳の奥には、弱い人間としてしか、生きることを選択できぬ歯車を固定するだけの「ピン」。

ピンという存在。

歯車を回すためだけに存在するだけの「ピン」。


この組織は、今、どこにあるのだろう?


だた、存続させることのみの組織の大きさをひけらかす権威だけに基づく形式主義の組織。

怖い。


組織の中の歯車を見ているだけで、怖いような気がする。


この組織は、本当に一人ひとりの人間を見つめる事に、一つ一つの歯車が役目を使命を担っているのだろうか?


否、「組織のための人間」としてしか機能を果たさない、はた迷惑な酸化した油にまみれた歯車がそんな役目と使命を果たせるはずがない。




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木を見て森を見ず・森を見て木を見ず


己の生命の中での、成功と達成の刻印は、現実に生きることにおいて、その全てを決定付ける基本となる。

そして、その全ての道筋を、太く、大きく、更に、整備させていくのだ。

己の生命で。

『木を見て森を見ず』

些細なことやどうでもいいことに囚われすぎてはいけない。

大局的なものの見方も大切。

些細なこととに囚われることは、一つのものを極めていくものの見方につながらないか?

そして、些細なことどうでもいいようなことに、実は、大局的なものを映し出すことの出来る要因や、本当の大切なそのものを、見つけられることもあるでしょう。

を見て森を見ず』

そして、

を見て木を見ず』とも言われます。

この二つは、相反しているわけではなく、どちらも必要なものの見方ということなのかもしれません。

でも、なかなかこの2つのバランスを、その状況や、現在の立場などを、瞬間、瞬間、判断して、切り替え、保つことは、現実を生きる上で、とても難しいと思います。

己の場合など、現状に対して、窮地に陥ると、近視眼的思考回路にはまり易く、やはり、『を見て森を見ず』の選択を、しているようなことがほとんどです。

それだけ、己のの心というものは、何かのストレスに対して、弱いということなのでしょう。


「人間」を動かす「命(生命)」になれ!

今を生きること。

ただ、人間を動かす命(生命)に成れ!

過去も未来も、今を生きる人間の姿がそこに無ければ、語る言葉の全ては単なる妄想に過ぎない。

無意味だ。

価値は無い。

何もしないのと同じだ。

死んだ人間が、言葉を語れる世界。

間違った宗教は、恐ろしくも馬鹿な、妄想信者を生み出す。

その人の生命の真実は、姿に現れる。

正しい宗教とは、現実を生きる人間の姿に現れるのだ。

ネットで宗教を語る「人」だけの世界に、真に正しい宗教が広まるとでもいうのだろうか?

洗脳された宗教の奴隷(信者)達よ。

落ちぶれる宗教。

堕落する宗教。

組織の為の宗教。

金儲けの為の観念の袈裟を着た禿人ども。


今、己の宿業を一つ、乗り越え、そして、断ち切る時


過去の全てが、ぐるぐると巻き戻され、あの時の、あの場所、そして、あの匂い、あの季節・・・、

何が、どうなっているのだろう?

グルグル、グルグル。

過去に、引き戻される鮮明な記憶の数々。

長い間、思い出す事さえなかった記憶。

その記憶に、辿りつくたびに、己の心が、生命の針が、強くふれる。

辛さなのか、痛みなのかわからない、心に強く、再び印象付けられる記憶。

己自身の腐りかけた命では、これまでは、感じることの出来なかったこの感覚。

しかし、苦しみに飲み込まれいた過去にくれべれば、何か、己の中の、何かが取り除かれていくような、掃除されていくような感覚。

何かの痛み共に、その痛みが、取り除かれていく感覚。

己の人間らしく生きようとする生命の明かりが灯る

今、己の宿業を一つ、乗り越え、そして、断ち切る時。



悩み・迷い・苦しみ | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

創価学会の幹部の「くせに」、なんでそんなトホホな質問するの?

創価学会のある会合に参加せて頂いた。


幹部:「勤行はしていますか?」


わたし:「はぁっ?・・・」


・・・えっ?何この人?

どう答えていいのかわからず、

そんなことを聞かれることを想定しないから、躊躇しながらも聞かれた以上、答えるしかない。


わたし:「ええ。」



更に、お聞きになる。


幹部:「題目は唱えていますか?」



(・・・ええっ?!、なんでそんなことを聞く権利があるの?)


もう、半分、あほらしくなって、答える気にもなれない。

しかし、黙っているわけにもいかず、


わたし:「ええ。」



一番、わたしが、納得いかない部分の「創価学会の幹部と私」の会話の内容。


まあ、その前後にも、いろいろと質問されている。


その時に、わたしに向けられた幹部の質問。


何を知りたいのか。

一体、私の信心を勤行と題目というはかりにかけて信仰の深さを図ろうとする。


わたしが、一番嫌いなこと。

一人の人間の中の大切なものをいとも簡単に、品定めをして決めつける。


創価学会の中の幹部というぬるま湯につかりきって、一人の人間の重さを上から目線ではかろうとする。


このような素人だましの愚の骨頂ともいうべき、質問を当たり前のようにする幹部がいるんだね。


まったく・・・。


なにもわからないくせに、人を図る短絡的な質問。


わたしは、その質問をもっと深いところに求めたかったが、結局はそんなことは無かった。

創価学会の幹部ってこんなにくだらないものなのだろうか?

万年幹部となると、もう、そいつの信仰心は、「物」と化してしまうのだろう。

あなたの信仰心を、勤行と題目の励行で判断します。


まったく・・・。

本当に、まったくだね・・。

一方通行の質問に、質問されたもののその意味を推し量りかねている本意というものを感じ取ることもできない。


まったくな幹部・・・。


これじゃあ、創価の本当の価値を知るものなど、創価の幹部と呼べるものの中にいるのかね。


どっぷりと創価に使っているねんきの入った幹部ほど、トホホな幹部が多いんじゃあねえの。

己の絶対的な信仰心を、勤行や題目の目に見える形だけで比較、判断されるほど、傷つくことは無い。

そんなものでは、己の信仰心をはかりにかけられるほど、お前に判断されたくはない。


このアホ幹部!

お前、いったい、何様のつもりだい?


己の命である大切な信仰心を、形式的な質問で、本気で答えるほど愚かではない。


お前みたいな幹部は、わたしは、絶対に信用しないよ!


それから、その会合の中で老婦人の体験発表があった。


わたしは、驚かされた!


「創価の財務を100万円しました!」


そう、このビックリマーク!!!!

このビックリマークが4つくらい並ぶほどの、「財務100万円宣言」。


なんじゃあ、こりゃあ?


そんなことを言うんかい? この婆さん。


財務の金額に信仰心の深さを重ねる。


これじゃあ、政教一致・・・じゃあねえ・・・。


「信金一致じゃねえか?」


こんなことを当たり前に聞いている創価学会員は、なにも疑問を感じないのだろうか?


信じることを強くさせるはずの信仰の体験発表で、


「信じられましぇ~ン!」という言葉が、わたしの頭の中で、鳴り響いた。


トホホ・・・で後にする創価学会のある会合だった。


わたしの中の創価は、どこにある?


わたしの創価は、妄想の世界へと消え去ったのか?


わたしの中にのみ存在する創価な創価。


現場に革命的なカンフル剤が必要だね。




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どうして現場に血が流れるんだあ~っ!・・・ぁ-?・・・

こんばんは。

名字の言をご紹介します。

 組織では、いい情報は上に上がりやすいが、悪い情報は上がりにくいもの。悪い情報が早く上がる組織は課題に即座に手を打ち、伸びていく。

行財政改革まったなしの今、行革審会長として改革を断行した財界人、土光敏夫氏に再び注目が集まる。氏は生涯、現場主義を貫いた。工場のモーターや機械の音に耳を澄まし、その調子を言い当てることもあった。〝日本一の工場長〟のあだ名がついたほどだ。

上に上がってくる情報は「単色になりがち」という。本来の情報は天然色なのだが、途中であく抜きされてしまう。だから土光氏は言う。「自らの足で現場を歩き、自らの目で現場を見ることだ。現場の空気を味わい、働く人々の感覚にじかにふれる」。それでこそ情報に「色」がついてくる。的確な判断ができる(『経営の行動指針』産業能率大学出版部)。

「学会の強さは、最前線の地区から盛り上がる民衆の力だ」と、かつて戸田第2代会長は語った。

最前線の地区やブロックの同志を最大限にたたえる。家庭の悩み、病魔との闘い、経済問題など、千差万別の苦労に耳を傾け、同苦し励ます。この現場主義、会員第一主義を、飽くなき執念で貫いたからこそ、学会は伸びてきた。青年に継承すべき誉れの伝統である。(敬)

2011年 10月22日(土):【名字の言】より転載いたしました。




今日の名字の言いかがでした?


『醜いアヒルの子は♪

裸の王様キラ~イ♪』




裸の王様ってかわいそうだね。


ブレーンが愚か者だから。


世の中、誰も叱ってくれなくなると、もう、そこから人間的な成長を期待することなんて無理なもんかね。

年をとっても、あ~は、なりたくない。


ぼけ老人になって、見境なくやりたがる老人。


嫌だね。

仕方がないね。


なんでこうなっちゃうんだろう?


もう、そんなところで生きている人に、何を言っても無駄。


この人を変えようなんて思うことは無理。


だって、病気なんだもの。


現場主義か・・・。


『どうして現場に血がなれるんだあ~~~っ!』


「あぁ~?・・・?」


現場で流すものとは、汗と涙の跡。


血脈という。



今日の「名字の言」 | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

ひとりひとりの人間の為の組織でないなら似非宗教

おはようございます。

名字の言をご紹介します。

 「人民の、人民による、人民のための政治」とは、アメリカ第16代大統領リンカーンの不朽の名言。1863年、南北戦争の激戦地ゲティスバーグで行った演説である。

実は、その歴史的瞬間を収めた写真は一枚も残っていない。あまりに簡潔だったため、写真班がレンズの焦点を合わせる前に、演説が終わったからだという。時間にして、わずか2分。冒頭の名言は、その結びの一言であった(本間長世著『リンカーン』中公新書)。

長年、営業畑で後輩を育成してきた壮年によると、着実に実績を伸ばす人材には、特徴があるという。「意外でしょうが、器用な人より、口下手な人が多いんです」。不器用な分、陰で努力する。一生懸命に語る。その真剣さが、かえって相手に響くのだという。広布の世界も同様だろう。

人の心を動かす言葉。それは、時間の長短ではない。表面的な上手、下手で決まるものでもない。そこに何が込められているのか。その一点に尽きる。

御金言に「言と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり」(御書563㌻)と。語る人の思い一つで、言葉の力は何倍にも増す。対話の秋。あの人に勇気と希望を。精いっぱいの真心を込めて、一人また一人、〝言葉の花束〟を贈りたい。(誠)

2011年 10月21日(金):【名字の言】より転載いたしました。




今日の『名字の言』いかがでしたか?


唯一、

一人のための、一人による、一人の絶対的な幸福の境涯の確立のための宗教


一人の人間の宿命転換は、すなわち、人間革命を意味する。


どこまでも、一人の中の生命の独立自尊を目的とする自己確立をめざす己の中の宗教。


世界に一つのわたしの宗教を確立する闘い。


弱いわたしと、わたしの確かな哲学に基づき生きることの闘い。


宗教団体というものは、その組織のために存在するものではない。


創価という団体は、ひとりひとりの人間の中に、正しい哲学の灯りを灯すことにのみ、その役割を担う使命が存在する。


組織の保身のために、真実を隠すような宗教団体なら、私のが生きることの確かな哲学は、その団体には、もはや存在しない。

人間のための組織なのか、「組織のための人間」なのか。どんなに善意から生まれた組織であっても、やがて「組織のための人間」という転倒や硬直化は避けられないのか・・・。

私は、「人間の為の組織」は可能であると信じております。


「宗教と科学、その間の壁は破れるのか」:茂木健一郎・池田大作往復書簡より




文字や言葉では、心動く感動モノで、お涙ちょうだいの美辞麗句なんていくらでも並べられる。

今、本当に試されている。

創価学会という見せかけの看板倒れになり果てるのか?


それとも、創価の看板頼らず、一人ひとりの中に確か信仰の証を打ち立てることの出来る生命を開くことが出来のか?

創価と名乗るものすべてに、一人ひとりの信仰が、今この瞬間生きていることの現実に試されている。


創価とは、どこまでもどこまでも、


「人間の為の組織」は可能であると信じております。



信じる人間の心を信じきることができるために、己を信じることができる信仰を更に確立していかなければならない。


創価にこだわり、創価を捨てる。


唯一、その根本の確かな哲学に基づいて生きる。




本因妙 | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

池田大作重病説を流布する創価学会員

以前、池田大作死亡説:沈黙は金なりでも同じようなことを書いた。

創価を宣揚すると見せかけて、創価の名を借りただけの自称、創価学会員の個人ブログの売名行為をする人間もいる。

インターネットの中で、ランキングとアクセスの虜になる。

「70万アクセス達成しました!

これもひとえにネットの創価の同志のお蔭です。

創価学会員でよかった~~♪」なんて、

中吊り広告の友人から渡されたという週刊文春の記事を見て、いちいち、、「池田大作」「重病説」に対する記事を、創価という立場から個人ブログネットで記事にする。

「池田大作」「重病説」週刊文春の中吊り2

なるほどね。

これなら食いつくよね~。

ネットの創価の自称、学会員といわれる同志のお仲間達も。


中国ではネット中毒患者が増殖中。

ネット中毒患者。


中国、韓国、お次は日本。


世界中に万円・・・?

いや、世界中に蔓延。


創価が大切なのか?


それともネットのランキングとアクセスが大切なのか?


創価をだしにせずに、正々堂々と己の人間だけで勝負しろっていうんだ!


創価の中にも、ネットの中毒患者がいるね。


とってもおかしなことだけど、正しい哲学に基づく信仰の宗教団体を宣揚しているように見えるホントの姿は、インターネットに仕掛けられた中毒に嵌ってる。

ネットに洗脳された中毒状態の創価学会員。



日々強りたまえ。

ご用心、ご用心。

人間の中に巣食う魔。

魔を魔と見破る。

今、この瞬間が大切。


そんな自らのうたい文句なんて、素通りの過去形。


それでも、魔は、人間を暗闇に引きずり落とそうとする。


創価学会員の中の観念の奴隷たち。


ネットに洗脳された中毒患者。


創価を宣伝するためにネットを始めたのに、いつの間にか、ミイラ取りがミイラになっていたよ。

ネットに洗脳にされる創価学会員の哀れな末路とは・・・。

ネットの自称、創価学会員さん、ネットの道具と化した人間には、近づいちゃだめだよ。


あっ、これって、もしかしたら、あんた・・・?

ネット中毒患者が増殖中




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