母は世界中のの誰よりも素晴らしい


母は、本を読むわけではない。

何かを読まなければ、信仰というのは、深まらないのだろうか?

母は、実践の人。

母は、行動の人。

どんなに学会の書物をたくさん読んだって、どんなに御書の御文をたくさん知っていたって、そんなことなんて、ちっとも偉いなんて思わない。

わたしの母は、大した知識や教養があるわけではない。

しかし、わたしの母、創価の誰よりも偉大な人。

わたしが、私の人生で一番尊敬できる人。

母は、実践の人。

母は、行動の人。

草創期から、母は、創価の為に、彼女の生き方すべてを捧げてきたのだ。

母こそが、創価の功労者なのだ。

無冠の功労者。

だからこそ、母は素晴らしい。

創価の誰よりも素晴らしい。

世界中の誰よりもすばらしい。

母へ。




母へ | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

どこまでも一人の人間の為の信心、信仰であってこそ正しい宗教


わたしは、創価学会員である。

自分が創価であるかなんだかなんてことを語る必要ないと思うんだけど。

創価とは、一人ひとりの人間が、己の人間を語ることが全てなんだ。

創価の名前のついたタイトルの個人のブログやHPを見ると、時として、嫌な気持ちになる。

創価の自慢話ばかりや会合の内容などを書くなら内輪でやってくれ!

組織の同志のアホなコミュニケーションをとるなら現場サイドでやってくれ!

聖教新聞と同じ美談ばかりをただ宣伝するだけなら、その役目は、ちゃんとリアルな新聞媒体がその役目を担っているよ。

聖教新聞に書かれてあることを、だた、コピーするだけの作業が、創価学会員だと勘違いするのはやめてくれ!

ブログにこんな記事を書くことって、かなりのエネルギーが必要。

あたりさわりのないところで、創価はみんなが家族同様なんですよ~~♪ みんなが人のため、世の中のため、社会のために役立つ人間として頑張っているんですよ~~♪

なんてことも出来るけど・・・。

しかし、現実はそうじゃあない。

いいことばかりがあるはずがない。

創価の中の哲学は、最高にもなるが、最低にもなる。

それは、その創価が根本とする哲学を、自らが体得できるか、できないかによる。

創価の価値は、受け取る一人の一人の人間によってダイヤモンドにも、石ころになるということ。

自称、創価学会員と名乗るネットウェブオーナーは、自らの組織を讃嘆し、そして宣揚する。

創価は正しい団体なのだ。

創価は正義の団体なのだ。

と連呼する。

組織に頼るな!

組織のただの宣伝活動家になるな!

創価の正しさを証明するものは、一人の人間の姿。

わたし自身しかいない。

創価の中の宝を大切にしたい。

わたしの中で、その宝の原石をさらに大きくしたいと思う。

「創価は、いよいよ更に、永遠なる生命の黄金城を建設する」

現実はどうだ?

組織は、大きくなり過ぎると必ず崩壊するんだ。

組織はいつかは、その役目を終え、新しい芽が、次々に生まれる。

組織はジャガイモ。

創価。

「種ジャガイモ」になり、創価の確かなDNAを引き継ぐ、たくさんの美味しいジャガイモをつくれ!

そして、最後には、朽ち果てる定め。

全ては、受け継ぐべき一人ひとりに託される。

今年の財務はしないと組織に、宣言した。

(以前に、書いた記事↓)
創価学会はどこに行く?その哲学は根本は?

わたしが現在、この地に引っ越してきたのは、昨年の暮れだった。

財務とは、創価学会の一年に一度、組織をあげての資金を集めるイベント。

イベントというのは、ちょっと違うかもしれない。

まあ、儀式みたいなもので、その意思表示によって創価の信仰のあるなしが問われることにもなる。

でも、本来、お金によって己の信仰をはかりにかけるようじゃあ、そんな組織とは、とっくに縁を切ってやる。

創価の中でも、そのあたりは、信仰心の浅い者や、深い者などいろいろある。

しかし、お金という財務によって信仰の有無を問うことなんてあってはならないというのが、この哲学。

しかし、学会組織は、お金という財務をすることによって、信仰の功徳に恵まれるんですよ。

とても、わかりにくく、まわりくどく説明する。

信仰心の無いものは、自分の信仰心の無さを悟られたくないから、自分の中ではっきり明確な意志の無いまま、お金という財務を支払う約束をする。

盲信。

盲信は、やがて、洗脳に変わる。

それが、自分の信仰心なんだと錯覚する。

これが、組織の為の人間を生み出す宗教の奴隷。

創価にいるよ。

なんだか、そんな人間ばかりになっちまったような気もする。

で、話を戻すけど、昨年、引っ越しをしてきて、創価学会員としても、引っ越しという手続きがあり、組織内で移動も完了していた。

しかし、ながら引っ越し後、財務の申し込む手続きが始まる、今年の9月ごろまで、地域の創価学会員の担当幹部が顔を見せたことは、引っ越した後に、しばらくたった後の一度のみ。

本来なら、毎月の定期的な会合などの連絡などが行われることが定例であった。

これまで創価として所属してきた中では、そんなことが当たり前で、その人たちとの間でも、それなりの人間関係を保ってきた。

だから、創価は、創価学会員といわれる人達のことを、家族と呼んだり、同志と呼んだりする。

学会員一人ひとりを大切にする現場主義なんだ。

当たり前のことが、当たり前にできるのが創価なんだと思っていた。

でも、現実は違う。

だけど、わたしは、創価の組織の人間と連絡や近況などを話さなくても、、関わらなくても、現実生活すべてが、わたしの自己を確立させるための己の哲学に基づく闘いの場所なんだと感じていた。

だから、まあ、縁が無くてもそれなりに、やってるので気にしているわけではなかった。

しかし、

来た!

ココの地域の創価の奴は、来た!

しかも、何でこんな時に来るんだよ!

下っ端の幹部じゃあなくて、中くらいの幹部かな?

まあ、正式には、きちんと幹部には、役職名があるんだけどね。

その中くらいの幹部が二人も来たよ。

そして、あろうことか!!!!

「今年の財務のお願いに来ました。」

『厚顔無恥』とは、まさにこのことを言うのかと思ったよ。

「一口、1万円です。」

「はぁ~~っ?・・????」

内心、開いた口が塞がらないと言う気持ち。

創価にとって大切な信仰対話より、金集めの連絡の方が大事かい!

しかも、いつもなら一人で来るくせに、今日は二人かい!

そして、執拗にお金の振り込みを約束する財務の申し込みを迫る。

(※また、通常、申し込みをすると、最終的な振り込みの確認まで2度、3度と足を運んでくるよ)

人間主義で、一人ひとりを大切にする現場主義に立つ組織。

人間対人間、この信仰に最も必要なのは、対話。

一人の人間の気持ちをどこまでも理解する。

人間の心の不可能を可能にするものは、対話。



こんなふうに、お前ら創価の大幹部は、偉そうにいっている奴らが話をしてるじゃあないか!

それなの、久しぶりに地域の創価の「中くらいの幹部が、訪問してきて、金集めの話をするんかい!

集金係なら、お前の創価のメインバンクの営業マンにでもやらせればどうだい!

そう思いながら、尚も、私の中の、開いた口が塞がらない。

わたしの中で、「ぶちッ!」と何かが切れた音がした。

惰性と怠慢。

いや、腐ってるかなとさえ思った。

そして、今年の財務を拒否することを宣言した。

悲しいよ。

地域の創価の人間に猛烈に抗議して、その後、しばらくして、この地域のアホ、中幹部は、辞めた。

だから、今、ここの創価は、大嫌いなんだよ!

ちなみに、この創価学会の財務の金額も気に入らない。

なんで、創価学会の財務の金額は、最低、一口、「1万円」からなのか?

組織を守るためだけの組織人間には、納得できる答えなど言えるはずがない。

1万円以下のお金に、功徳の価値は無いか!

1万円以下のはした金では、お金じゃあねえか?

1万円以下では、面倒くさいか!

「おい!創価!傲り高ぶるなよ!」

だけど、それでも、わたしは「創価」を誇りに思う。

一人の人間の存在のために。

絶対に、あきらめないよ!



宗教 | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

木を見て森を見ず・森を見て木を見ず


己の生命の中での、成功と達成の刻印は、現実に生きることにおいて、その全てを決定付ける基本となる。

そして、その全ての道筋を、太く、大きく、更に、整備させていくのだ。

己の生命で。

『木を見て森を見ず』

些細なことやどうでもいいことに囚われすぎてはいけない。

大局的なものの見方も大切。

些細なこととに囚われることは、一つのものを極めていくものの見方につながらないか?

そして、些細なことどうでもいいようなことに、実は、大局的なものを映し出すことの出来る要因や、本当の大切なそのものを、見つけられることもあるでしょう。

を見て森を見ず』

そして、

を見て木を見ず』とも言われます。

この二つは、相反しているわけではなく、どちらも必要なものの見方ということなのかもしれません。

でも、なかなかこの2つのバランスを、その状況や、現在の立場などを、瞬間、瞬間、判断して、切り替え、保つことは、現実を生きる上で、とても難しいと思います。

己の場合など、現状に対して、窮地に陥ると、近視眼的思考回路にはまり易く、やはり、『を見て森を見ず』の選択を、しているようなことがほとんどです。

それだけ、己のの心というものは、何かのストレスに対して、弱いということなのでしょう。


「人間」を動かす「命(生命)」になれ!

今を生きること。

ただ、人間を動かす命(生命)に成れ!

過去も未来も、今を生きる人間の姿がそこに無ければ、語る言葉の全ては単なる妄想に過ぎない。

無意味だ。

価値は無い。

何もしないのと同じだ。

死んだ人間が、言葉を語れる世界。

間違った宗教は、恐ろしくも馬鹿な、妄想信者を生み出す。

その人の生命の真実は、姿に現れる。

正しい宗教とは、現実を生きる人間の姿に現れるのだ。

ネットで宗教を語る「人」だけの世界に、真に正しい宗教が広まるとでもいうのだろうか?

洗脳された宗教の奴隷(信者)達よ。

落ちぶれる宗教。

堕落する宗教。

組織の為の宗教。

金儲けの為の観念の袈裟を着た禿人ども。


今、己の宿業を一つ、乗り越え、そして、断ち切る時


過去の全てが、ぐるぐると巻き戻され、あの時の、あの場所、そして、あの匂い、あの季節・・・、

何が、どうなっているのだろう?

グルグル、グルグル。

過去に、引き戻される鮮明な記憶の数々。

長い間、思い出す事さえなかった記憶。

その記憶に、辿りつくたびに、己の心が、生命の針が、強くふれる。

辛さなのか、痛みなのかわからない、心に強く、再び印象付けられる記憶。

己自身の腐りかけた命では、これまでは、感じることの出来なかったこの感覚。

しかし、苦しみに飲み込まれいた過去にくれべれば、何か、己の中の、何かが取り除かれていくような、掃除されていくような感覚。

何かの痛み共に、その痛みが、取り除かれていく感覚。

己の人間らしく生きようとする生命の明かりが灯る

今、己の宿業を一つ、乗り越え、そして、断ち切る時。



悩み・迷い・苦しみ | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

現場で流す汗と涙の跡:血脈


 2011年 10月22日(土):【名字の言】

組織では、いい情報は上に上がりやすいが、悪い情報は上がりにくいもの。悪い情報が早く上がる組織は課題に即座に手を打ち、伸びていく。

行財政改革まったなしの今、行革審会長として改革を断行した財界人、土光敏夫氏に再び注目が集まる。氏は生涯、現場主義を貫いた。工場のモーターや機械の音に耳を澄まし、その調子を言い当てることもあった。〝日本一の工場長〟のあだ名がついたほどだ。

上に上がってくる情報は「単色になりがち」という。本来の情報は天然色なのだが、途中であく抜きされてしまう。だから土光氏は言う。「自らの足で現場を歩き、自らの目で現場を見ることだ。現場の空気を味わい、働く人々の感覚にじかにふれる」。それでこそ情報に「色」がついてくる。的確な判断ができる(『経営の行動指針』産業能率大学出版部)。

「学会の強さは、最前線の地区から盛り上がる民衆の力だ」と、かつて戸田第2代会長は語った。

最前線の地区やブロックの同志を最大限にたたえる。家庭の悩み、病魔との闘い、経済問題など、千差万別の苦労に耳を傾け、同苦し励ます。この現場主義、会員第一主義を、飽くなき執念で貫いたからこそ、学会は伸びてきた。青年に継承すべき誉れの伝統である。(敬)




『醜いアヒルの子は♪

裸の王様キラ~イ♪』



裸の王様ってかわいそうだね。

ブレーンが愚か者だから。

世の中、誰も叱ってくれなくなると、もう、そこから人間的な成長を期待することなんて無理なもんかね。

年をとっても、あ~は、なりたくない。

ぼけ老人になって、見境なくやりたがる老人。

嫌だね。

仕方がないね。

なんでこうなっちゃうんだろう?

もう、そんなところで生きている人に、何を言っても無駄。

この人を変えようなんて思うことは無理。

だって、病気なんだもの。

現場主義か・・・。

『どうして現場に血がなれるんだあ~~~っ!』

「あぁ~?・・・?」

現場で流すものとは、汗と涙の跡。

血脈という。

桜梅桃李。

今を生きる。



血脈 | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

ひとりひとりの人間の為の組織でないなら似非宗教

おはようございます。

名字の言をご紹介します。

 「人民の、人民による、人民のための政治」とは、アメリカ第16代大統領リンカーンの不朽の名言。1863年、南北戦争の激戦地ゲティスバーグで行った演説である。

実は、その歴史的瞬間を収めた写真は一枚も残っていない。あまりに簡潔だったため、写真班がレンズの焦点を合わせる前に、演説が終わったからだという。時間にして、わずか2分。冒頭の名言は、その結びの一言であった(本間長世著『リンカーン』中公新書)。

長年、営業畑で後輩を育成してきた壮年によると、着実に実績を伸ばす人材には、特徴があるという。「意外でしょうが、器用な人より、口下手な人が多いんです」。不器用な分、陰で努力する。一生懸命に語る。その真剣さが、かえって相手に響くのだという。広布の世界も同様だろう。

人の心を動かす言葉。それは、時間の長短ではない。表面的な上手、下手で決まるものでもない。そこに何が込められているのか。その一点に尽きる。

御金言に「言と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり」(御書563㌻)と。語る人の思い一つで、言葉の力は何倍にも増す。対話の秋。あの人に勇気と希望を。精いっぱいの真心を込めて、一人また一人、〝言葉の花束〟を贈りたい。(誠)

2011年 10月21日(金):【名字の言】より転載いたしました。




今日の『名字の言』いかがでしたか?


唯一、

一人のための、一人による、一人の絶対的な幸福の境涯の確立のための宗教


一人の人間の宿命転換は、すなわち、人間革命を意味する。


どこまでも、一人の中の生命の独立自尊を目的とする自己確立をめざす己の中の宗教。


世界に一つのわたしの宗教を確立する闘い。


弱いわたしと、わたしの確かな哲学に基づき生きることの闘い。


宗教団体というものは、その組織のために存在するものではない。


創価という団体は、ひとりひとりの人間の中に、正しい哲学の灯りを灯すことにのみ、その役割を担う使命が存在する。


組織の保身のために、真実を隠すような宗教団体なら、私のが生きることの確かな哲学は、その団体には、もはや存在しない。

人間のための組織なのか、「組織のための人間」なのか。どんなに善意から生まれた組織であっても、やがて「組織のための人間」という転倒や硬直化は避けられないのか・・・。

私は、「人間の為の組織」は可能であると信じております。


「宗教と科学、その間の壁は破れるのか」:茂木健一郎・池田大作往復書簡より




文字や言葉では、心動く感動モノで、お涙ちょうだいの美辞麗句なんていくらでも並べられる。

今、本当に試されている。

創価学会という見せかけの看板倒れになり果てるのか?


それとも、創価の看板頼らず、一人ひとりの中に確か信仰の証を打ち立てることの出来る生命を開くことが出来のか?

創価と名乗るものすべてに、一人ひとりの信仰が、今この瞬間生きていることの現実に試されている。


創価とは、どこまでもどこまでも、


「人間の為の組織」は可能であると信じております。



信じる人間の心を信じきることができるために、己を信じることができる信仰を更に確立していかなければならない。


創価にこだわり、創価を捨てる。


唯一、その根本の確かな哲学に基づいて生きる。




本因妙 | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

人間が物を使用する時代から、物に使用される時代。

公衆の場で、スマートフォンの歩きながらの使用が増えている。

従来の携帯から、ウェブ操作の使いやすさが、更に発展したスマートフォン。

スマートフォンを操作しながらの、「ながらスマフォ」の危険性を知らせていた。


『ながらスマフォ」』の若者が、


「スマートフォンも持つと、世界が広がるんですよねぇ~♪」


なんて、現実に見える世界を消滅させていることに気が付かずに、そんなことを言ってる。


スマートフォンとは、他人の迷惑を顧みないエゴな道具にもなる。


のこぎりのバイオリンに見立てて、弓を引いて、あの名曲を歌ってやるよ!


「お~♪ま~♪え~♪は、 あ~♪ほ~♪かっ?!♪」

現代の文明の利器は、人間性を失わせるために開発されたものだろうか?


便利なものを得る代わりに、大切なものが消滅していく。


その功罪。


人間が、物を使用する時代からものに使用される時代。


人間が、物に使用される時代。

本因妙 | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

【名字の言】:傷だらけの絆の確かさと深さ知る



 「聖教新聞で文字を学びました」。東京・日野の男子部員が語ってくれた。中学卒業後、職人の道に。転機は24歳。妻に導かれ入会。同志は信心と生活全般のアドバイスをしてくれた。

漢字が苦手。文章が読めない。悩みを吐露すると本紙コラム欄を書き写すように勧められた。毎日、書き写し音読。分からない言葉は辞書を引き、調べた。3年余り続いた挑戦。苦手意識は消え、今では池田名誉会長の書籍を貪り読むまでに。世界観が広がる喜びを知った。

今年6月末、愛妻が急逝。幼い一人娘を案じ、悲しみのどん底に沈んだ。窮状を知った同志が、すぐさま駆けつけた。未明に遠方から来た人も。交わした言葉は覚えていない。ただ明け方まで付き添ってくれた。その最中、名誉会長から愛娘に真心の伝言が届いた。心の暗雲のすき間から、希望が見えた。報恩の行動が、妻への最大の回向と奮起。先日、友人に弘教を実らせた。

作家サン=テグジュペリは言う。「ともに生きた多くの困難な時間、多くの仲たがい、和解、感動、これらの宝物に及ぶものはなにもない」(『人間の大地』山崎庸一郎訳)。

絶望から希望を創り出した蘇生のドラマ。悲しみも喜びも分かち合う同志の絆。それ以上の人生の宝はない。(集)

2011年 10月18日(火):【名字の言】より転載いたしました。




名字の言』いかがでしたか?


本当の人間の絆というのは、優しさだけで結ばれているのじゃあない。

わたしの心の中で常に結ばれている大切な人。

大切な家族。

これまで、互いに傷つけあった。

恨んだ。

憎んだ。

罵り合った。

遠く遠く離れた。

絆。

その糸は、ボロボロでも、決して切れることは無かった。

絆の意図。

目には見えない心の絆の糸は、絶対に切ることはできない。

それは、私の中に確かな絆の存在を証明する確かな証があるから。

傷だらけの絆。

でも、その絆の太さは、この世のどんな太さにも例えることはできない。

深いんだよね。

絆は太さでたとえるもんじゃあないね。

深さだね。

傷だらけの絆のその確かさと深さ知る。

妙法。

桜梅桃李に今を生きる。




父へ  | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

頭を働かせるのと心を働かせるのは違うよ!

神や仏なんて信じるもんじゃあないよ。

ホント、馬鹿な人間がやることだね。

自分を信じないで神や仏を信じるなんて、弱い人間にはお似合いかもしれない。

神や仏を信じる人間なんて、現実を己の力で生きることのできないヨワッチイ人間だと言ってるんだ。


世の中、神や仏なんて言うものなんてあるもんか。

坊主丸儲けの世界の道理なんだよ。

弱っちい、ご都合主義の人間には、まさに都合がよい。

互いの利害関係がそこで成立する。

似非宗教というもんは、利害関係で成立するのだ。

面倒くさい部分を全部、坊さんに丸投げする。

得手勝手な人間には、仏や神を信じたふりをして、都合よく宗教を利用する。

似非な宗教は、利用する者と、利用されるもの、

更に、利用されるものと、利用するものが都合よく、互いの必要性に合致したシステム。

似非な宗教とは、合理的な利害関係になる損得勘定。


信仰というものに対する精神世界なんていうのは、どうでもいいこと。

坊さんに利害関係の一致による依存によって、わずかばかりの心の安定を得ることのできる。

世間の恐ろしく巧妙に人間を奴隷にする似非宗教の拝金システム。

信者様は神様です。


似非なドロボー宗教ども。



人生を方法論で生きる。

頭を使って生きるのと、心を使って生きるのとは、違うよ。

心って言うのは、いったい、どこにあるんだろう?

子供頃には、

「心が大切だ」ということをよく聞かされた。


でも、人間の体のどこに、心はあるのだろう?


ハート。

頭を働かせて想像してみた。


心臓付近に心があるような気がした。


心があったかく感じる時は、どのあたりで温かくなった心を感じるのだろう?
心が苦しくなったときには、体のどのあたりが苦しくなるのだろう?


人生とは、方法論で生きると必ず行き詰る。



桜梅桃李に生きる | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

悟りとは現実に対するあきらめの境地か?


人が人間を悟る。

悟りとは、現実に対するあきらめのを境地をさすのだろうか?

どこまでも人間の可能性を信じている者にとって、悟りというのはいつまでもやってはこない。

自己を確立し続けることの人生。

人間が神や仏になれるはずは無い

悟りを説く人間のあきらめの境地は、人間に対する未来の可能性をどこまでもあきらめずに追及する人間にとっては、何の価値も感じない。

人間が説教するあきらめの境地に達した悟りなんて悟りとは言わない。

人間の精神世界をどこまでも成長させ続けること。

その不可能を可能にすることこそ、人間が人間たる理由なんだ。

この世の現実を俯瞰して、あきらめの境地を集めた言葉を哲学風に語る。

人間は結局は、こんなものなんだ。

そんなところに、人間が人間たる理由を発見することはできない。

人間が、生きる意味。

人間が今を生きるのは何のため?

未来を生きるため。

勇気。

希望。

あきらめない勇気と希望。

人間が今を生きることに対する意味を無限の未来に対する可能性を信じない者の哲学など人間を否定するもの。

人間の可能性をどこまでも開く。

未来に灯りを灯し、未来を創る哲学。

ネガティブなものに対して、常にポジティブな発想で生きることの哲学。

人間が現実を生きる。

人が生まれる瞬間に、この世の人間となる。

その瞬間から人生が始まる。

未来がある。

今がある。

今を生きたことが過去になる。

人間の無限の可能性を人生の最後の瞬間まで見つめ続ける。

妙法。

桜梅桃李の人生。

今を生きる。



勇気 | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

信仰とは、慰めの道具ではない


今日の【名字の言】:2011年 10月13日(木)

体調を崩しやすい季節の変わり目。体が熱っぽかったり、だるさを感じたりしたら、早めに具体的な処置を施し、万全を期したい。

誰もが無縁であることを願う「痛み」「発熱」「疲労」にも意味がある。これらは体が異常を感知して警告を発し、防御を指令するメカニズムだ。この「3大生体アラーム」が働くおかげで、大事に至らず健康を管理することができる。

仕事をはじめ、生活上の小さなトラブルやミスも、一種の「アラーム」と捉えることができよう。それは大きなトラブルの前兆である場合がある。「さきざきよりも百千万億倍・御用心あるべし」(御書1169ページ)と。あいまいなまま放置せず、原因を突き止め、再発防止策を取ることで、未来に待ち構える“落とし穴”を埋めることができる。

完璧な人間などいない。身体の変調も、仕事や日常生活での失敗も、万人につきもの。肝心なのは、それを自身への戒めとし、向上への糧とする“心のアンテナ”を張っているかどうか。

「智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり」(同1466ページ)。信仰とは、慰めの道具ではない。現実生活で勝つためにある。「信心即生活」に日蓮仏法の真髄がある。 (明)




『信仰とは、慰めの道具ではない。現実生活で勝つためにある。

「信心即生活」に日蓮仏法の真髄がある』



宗教は、わたしの信仰の道具であってよい。

しかし、宗教は、信仰者の信心、信仰心を道具にしてはいけない。

「女心と秋の空」

「秋に三日の晴れ間無し」

なんてことを言う。

「秋ナスは嫁に食わすな」

そんなことは関係ナスか…

ここ数日、日中の気温が高くなった。

でも、朝晩の気温は、すっかりと低くなった。

こんな気温の差がある時には、体調も崩しやすい。

風邪などひかぬ様にせねば・・・。

桜梅桃李。

今を生きる。


名字の言 | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

Copyright © 桜梅桃李・世界に一冊のメモ帳 All Rights Reserved. Powered By FC2. 
skin:*cuteblog*