人間の「生きがい」って何?

「生きがい」ってなんだろう?

時々、生きることが嫌になる時がある。

時々、何のために生きているのかわからなくなる時がある。

前向きに、毎日を、「昨日よりも今日、今日よりも明日」という思いで生きたい。

今日という日を、未来の自分のために、理想をかかげ、夢と希望に向かって、明確な目標と目的に従って生きていきたい。

人のために灯をともせば、わが前明らかなるが如し

人間として、更に人間らしく、より、人間らしく生きたい。


その願いとその思い。


でも、人間は、やっぱり人間なんだ。


弱い私の中の強いわたしとの葛藤。


人間だもの。


折角生きているんだから。


甲斐がなければ、人間が生きている意味が無い。


自分の為の生きる。

人間の為に生きる。


偽善者。

エゴ。

エゴでいい。

偽善者でもいい。


わたしのため、人間のために生きてあげる。




本因妙 | [2011-11-29(Tue)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

見えぬ人間の器で見える人間社会を生きる私を支える信仰

毎日を生きること。

それは、現実に生きる私という存在との闘い。


見えない私の中にある人間的な器で、どれだけ現実社会で生きる「わたしという人間」を支えることが出来るかどうか。


人間的な器をいかに大きく広げることが出来るか。


それは、もって生まれた私の宿命と宿業を乗り越えることとの戦い。


そこに必要なもの。


目には見えない大きな力。


現実に生きることをさらに高める。


生きようとする己の本能を突き動かす力。


その力の根源こそ私の信仰の中にある。


その哲学。


人間の中にある不可能を可能にする哲学。


不可能から逃げる、あきらめの発想をしか持つことのできぬ、タダの思い付きの負け犬思想を遠吠えのように語る者には、決してたどり着くことが出来ない。


不可能を不可能とあきらめる者には、人間が生きることの本質には、決してたどり着くことなどできない。


人間がより人間らしく生きることを、不可能の中から発見することを決してあきらめない。


その哲学の真骨頂。


私が今を生きていることが全て。




本因妙 | [2011-11-27(Sun)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

最近、泣かなくなった私に泣いた

最近、泣かなくなった。

よく泣いた。

生きることは、泣くこと。


そんな毎日。


毎日、泣いてた日々。



過去に対する後悔の日々。


逃れることの出来ない現実。

悩みと苦しみと、生きる事と死ぬことに対する迷い。


一日、一日を乗り越えることの壁。


今、生きているわたしを持て余す毎日。


深い深いどん底。


そのどん底の中でもがく。


あふれ出る涙。


どうすることもできない現実に、行き詰るところは、涙。


わたしが今、どこにいるのかわからない。


どうしてこうなったのかと嘆く日々。


涙に明け暮れる毎日。


己の宿命に流され、涙に暮れる毎日


・・・だった。



今、泣かないわたしに気が付くことによって、泣いている自分がいる。


死ぬことへ突き進む毎日。


どん底の中で、死というものと向き合う。


明日でもうおしまいだ。


「死」と「生」の究極の選択のなかで悶え苦しんだ毎日。


わたしの人生は、大切な人と共に、一度は死んだ。


生き残ったわたしの抜け殻の人生。


二度目の人生を生きる。


それは、どん底の毎日だった。


今、わたしが、生きていることをほんの少し、味わえる。


毎日が苦しい。


そして、毎日が楽しい。


苦しくて泣いた日。


でも、今は違う。


苦しくても頑張れることが楽しい。


頑張れなかったわたしが、苦しいことから逃げずになんとか頑張っている。


それが嬉しい。



涙の意味、涙の価値。


本当の笑いを取り戻せそう。


ありがたい。


生きていることはありがたい。


泣。



本因妙 | [2011-11-16(Wed)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

「おいっ、創価!」仏法を理解するのに世間の常識はどうでもいい!?

最近の創価学会員の質の低下というのを痛感させられることが多い。

創価学会という看板を支える活動化とよばれる連中。

組織活動に携わることによって、自らの悩みや課題といった困難の克服、独立自尊の人生を歩むための一人の人間の中の確かな哲学の確立すること。

言い換えれば、一人の人間革命のために、絶対的不可欠な人の生命の中に確かな信仰信の確立のための信心活動。


創価の中の学会活動というのは、ただの組織活動ではない。


でも、最近の創価学会員のなかには、ダメ創価2世や、アホ3世などばかり?


こんな低落な奴ばかりが、名前だけの活動家と称して、役職や任務を与える。


「やらされている」という受け身意識バリバリの中途半端な活動化のお蔭で、迷惑するのは、これまで創価を支えて、草創期を戦ってきたお年寄り。


わたしの母もその一人だ。


そんな母が、今の創価という組織を嘆くようなことがあったよ。


創価学会では、毎月、全国規模で執り行われる幹部会と称するものがある。


この幹部会の様子を、地域のそれぞれの創価学会の会館で衛星放送中継される。


同時中継などと呼ばれ、略して、「同中」、「同継」などとも呼ばれる。


その「同中」に参加するために、母は、地域の婦人部の方が運転する車に乗せてもらって、会館に向かった。


会館には、付近に駐車場が用意されている。


創価学会の会館を警備するために任務についている学会員が、車の案内などを行っている。


わたしの母は、高齢者であり、現在、杖をついて歩行しており障害手帳を持っている。


また、私の母以外にも、歴史ある創価学会のこと、老人とよばれる人達も創価学会員の中には多い。


そんな障害を抱え痛い足を引きずりながらも杖をついて、車に乗せてもらって、会合に参加している。


母の信仰信の強さは、どこまでも創価に対しても純水である。


しかし、そんな母が、創価に対して、とても残念な思いをすることになった。



車で創価文化会館に到着した時のこと。


車で連れてきてくれた婦人部の方は、母が杖を付いていることを気遣ってくれて、会館の入口から一番近いところに止めておろしてあげようとして、車を止めたところ、会館の警備にあたっていた創価学会員は、言った。



「そこに車を止めてもらっては困ります。」


「人が通れなくなります。」


「もっと奥のガレージまで動かしてください」



そんなふうに言われたそうだ。


しかし、通行の妨げになるとはいっても、通行できないわけではない。 しかも、ほんのわずかの乗降の間だけだ。

しかも、当たり前の常識のある人間なら、そんなところに止めることには、意味がある。


障害を抱えた人が、歩行することはとても危険が伴う。


だからこそ、最短距離で、一番安全な場所でおろしてあげようとしているのに、会館の警備をしている創価学会員は、障害のある人であることなど関係なしに、邪魔者扱い。


仕方なく、遠く離れた駐車場に車を移動させらた後、母は、杖をついて歩いて会館までなんとかたどり着いた。



「おい!」


「創価の馬鹿学会員!」


「お前、おかしいよ!」


お前らの哲学なんて、一体、何なんだ?



世間の常識でさえ、わかるはずのことを、創価の常識には、ほんの少しの気配りも出来んのかい!


情けないよ!



そんな創価に人間的な魅力なんて、どこにあるんだよ。



非人間的な組織の中で、ひとりひとりの幸せを説く宗教なんて成立しない。


似非宗教人間を育てる創価なんて創価じゃあないよね。


ただ、存続するためにのみ存在する創価なら、もう早くつぶれてお終いなさい。


もう、創価なんて創価じゃあないよ。




本因妙 | [2011-11-13(Sun)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

ドラマはいつもドラマティックなのに、なぜ現実は何も【怒】らないの?

登場人物の一人ひとりが繰り広げるドラマ。

ドラマは、いつもドラマティックに繰り広げられるのに、現実の暮らしにおける社会生活の中では、なぜ、いつも何も起こらないのだろう?


なぜ、怒らないのだろう?


怒る勇気さえないのだろうか?


こんな情けない社会に腹が立たないのだろうか?


悔しくないのだろうか?


世の中に対するあきらめ?


それなのに、ドラマの主人公は、必ずドラマティックな演出が用意されており、怒り、泣き、笑い、そして、切ないエンディング、ハッピーなエンディング、様々なエンディングを迎える。


現実の生活にドラマは必要ないか?


主人公を演じたくないか?


名脇役を演じたくないか?


私の生きた人生の確かな足跡を残したくはないのか?


一生に一度、大馬鹿な結末を迎えるドラマの主人公のドラマティックな筋書きを演じる。


演じるんだ!


怒れ!

怒ったっていいんだ!


どうせ、生きているだけで丸儲け。


己の中の社会対する矛盾と怒り。


現実の暮らしの中でドラマティックなドラマを演じたい。


その主人公は、わたし。




本因妙 | [2011-11-10(Thu)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

「気持ちは必ず通じるよ♪」なんて馬鹿でエゴな言い訳をしない!

「笑い」ってまるで、麻薬のような魔法の媚薬。


笑い転げた後に、現実にふと、立ち返った時の静けさに感じる、妙な淋しさと一抹の不安とほんの少しの恐怖心。


「祭りの後の静けさを感じる寂しさかな。」

そんなのがあったね。


笑いって刹那なんだね・・・。


笑いって刹那なんだろうか?


現実の社会の中で生きる事。


大人としての社会人として人間が生きること。


そこに必要なもの。


「心さえあれば、気持ちは通じるからなんとかなるよ。」


そんな幼稚な大人の言葉に軽々しく乗ってはいけないよ。



人間として社会の中で生きることに、気持ちよりもまず優先されることは、その社会で生きるための知識と技術。


何もないものはその社会では必要とされない。


心があれば何とかなるなんてアホな幻想を抱く前に、そのアホな心を人間として、社会の中でプロとして生きるために、知識と技術と経験で築き上げ、磨き上げる知恵を貪欲に勇気をもっって獲得するために、己の心をどこまでも向かわせる。

自己変革。


自信。


大人の人間として、必要な社会で生き切ることの出来る資格を獲得する。



何にもなくても心さえあれば、必ず相手に通じるなんていうのは、弱い人間の都合の良いエゴ。


エゴ。


エゴな哲学は人間には通用しない。


弱い人間の中に存在する傲慢。


感情と冷静の間で生きる人間。


人間、怒ったらその時点で負けだよ。


でも、負けてもいいのよ♪


「だって、人間だもの」


負けて勝つことの出来る哲学。


あるよ。







本因妙 | [2011-11-10(Thu)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

「もう、お終いだ~っ!」じゃないのよ、そこからが始まりなの♪

あ~、今日も失敗したよ。

一つ手順が狂うと、最後までイメージ通りに、事を運ぶことが出来なかったよ。

ホントに腹が立つ。

あ~あ、もう終わりだよ。


ダメ日って誰にでもある。



「だって、人間だもの」



これって、別に、相田 みつをさんの言葉をパクッタわけではない。



本当に、わたしは、人間なんだから。


だからこそ、


ダメな日って、言わせてって・・・。


「だって、人間なんだもの」


わたしは、弱い。


わたしは、本当に弱い人間だ。


人間が嫌いだ。


私の中にある「人間嫌い」。


人間なんて本当は大嫌いなんだ。


そんな自分が悲しい。


ダメなときに、そんな自分の人間嫌いな本性が出る。


汚い私の本性が。


情けない。


情けなくって、情けなくって、涙が出る。


正義感は人一倍強いつもりでも、生来の気の弱さの上に、人間嫌いが泣きっ面に蜂。


言いたいことも言えずに精神にストレスを溜める。

そんなもんを貯めたって何の得にもならず、得にもならない利息がどんどん膨らんで、「物言わぬは腹ふくるるわざなり」。




「だって人間だもの」


しかし、

「だから、人間だもの」


失敗だらけの一日で、ダメダメなトホホな一日だって、


だから人間なんだ。


現実に生きる己という人間をニュートラルに見つめることが出来る。


ダメな私。




でも、結構、頑張っているよ。


泣きながらでも、頑張っている自分を今、こうして感じるとこが出来る。


ダメな私。


でも、ダメな私も、それが私なんだ。


頑張ってるよ。


だめでも、決してあきらめない。


ダメなときこそ、その地点が、私にとっての今が始まる大切な時。


ありがとうって言う感謝。


ダメでいい、生きているだけで丸儲け。

ダメなとこが、わたしのいいところなんだ。


でも、決してダメにはならない確かな哲学。


ダメなときにこそ心に刻むことが出来る。



そんな哲学。






本因妙 | [2011-11-08(Tue)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

自分本位よりも、他人本位よりも、人間本位で生きる哲学

人間はエゴな生き物。

強欲な生き物。

汚いエゴ丸出しの他人を排除することによって、己の欲望を実現しようとする。


人間が、人間らしく、より人間として生きる。


人間社会の中で生きる。


人間が学習すべきこととは?


エゴ丸出しの自分本位の生き方。


自己犠牲を強いる奴隷のような他人本位。


人間がより人間らしく確かな、人間本位の生き方。


人間本位の生き方。


難しいよね。


なんで難しい?


難しくなんかないよ。


難しいのは、そこに確かな哲学が無いからさ。






本因妙 | [2011-11-08(Tue)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

一味違う人生の醍醐味っていうのを楽しむ

秋のシーズンは、「味覚の秋」とも言われますね。


美味しい物には、美味しいわけがある?


今日の名字の言をご紹介いたします。


 「柿むく手 母のごとくに 柿をむく」(西東三鬼)。たわわに実った秋の味覚に、母と過ごした郷里を思い出す人も多かろう。

渋柿は渋味が強く、とても食べられない。タンニンと呼ばれる成分のためだ。だが柿を日光に触れさせたり、ヘタの部分を焼酎につけて寝かすことで、タンニンの渋味が抑えられ、おいしく味わうことができる。「渋味」を「甘味」に――「苦」を「楽」に転じゆく人生のドラマに重ねたくもなる。


岩手・釜石市に“地域のお母さん”と親われる友がいる。89歳。これまで実った弘教は100世帯を超える。米も買えないほどの経済苦、長女の末期がんも、全て信心根本に乗り越えてきた。だが今回の津波は、自宅も、50年以上経営してきた飲食店も一瞬で奪った。


それでも婦人はほほ笑む。「苦労したから強くなれたし、折伏もできた。幸せですよ。信心のおかげ。次の目標? 震災を乗り越えて、信心の力を証明すること」。仮設住宅に住みながら、訪れる友に仏法を語る日々だ。


「苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ」(御書1143ページ)。苦も楽も味わってこそ、人の喜び悲しみが分かる。信仰の偉大さは、そこにある。「渋」が「甘」に変わる日が必ず来る。(之)
【名字の言】:2011年 11月6日(日)より転載いたしました。




今日の名字の言いかがでしたか?


なんで、あんな渋い柿が、甘くなるのかな?

まあ、説明はいくらでも出来るだろうけど。


昨日、その地方の美味しい特産物をつかって料理を作る番組があった。


渋柿を干すと渋みが抜けて、甘くなる。

甘い柿を干しても、更に美味しい柿になるわけではない。


美味しいものって、簡単なようなで簡単に作れないよね。

味わい深い美味しさって言うのは、一言で言えば「うまい!」なんだけど、その言葉の中には、たくさんの美味しさを表現する言葉が、隠されている。

人間の味っていうのも、人間社会の中で生きてゆく人生を重ねるごとに、酸いも甘いも、苦いもしょっぱいも味という味を全部体験して来た人は、やっぱり一味違うんだよね。


私達の哲学は、一味違う人生の醍醐味っていうのを楽しむために、苦労を苦労と厭わずに現実を生きている今というこの瞬間を、一生懸命に生きる哲学なんだね。


よく言うね。

「ただ今臨終」の精神って。




今日の「名字の言」 | [2011-11-06(Sun)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

感謝と生きているだけで丸儲けの日々

なかなかブログを更新できずにいたら、もう、11月になっている。

その11月もすでに6日、今日は日曜日。

ブログってなんだろうね。


今は現実の世界、リアルな世界が結構充実している。


このブログって、現実の世界があって初めて意味がある。

でも、現実の世界が面白くなってくると、ネットの仮想空間のなかの思いを語る世界なんて言うのが、意味のあることなのかね。

なんて思えてくる。


今年も、残りの毎日を生きる。

今を生きる。


でも、本当に、人間って変わることが出来るものなんだっていうことを、わたしの自己満足の世界であるこのブログを振り返ればよくわかる。

わたしの人間としての目標。

今年の目標。

果たせたかな?

はたせるかな?


感謝で生きられる生きているだけで丸儲けの日々。


だから、大切にしたい。

今を。

過去の宝であるこのブログを。

明日を変え、未来を創造していくために。


わたしにとっての価値ある宝物。

確かなもの。









本因妙 | [2011-11-06(Sun)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

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