信仰の本質から逸脱した宗教に携わる観念の奴隷達

創価学会が拝んでいるご本尊。

そのご本尊が、本物か、偽物か?

そんなどうでもいいことが、重要であるかのごとくに言い合っている人間達がいる。

なんだろうね?

本物、偽物と決めつけること、また、決めようとすることに何の意味がある?

己の生命の御本仏を映し出す鏡。

単なる鏡。


その鏡に偽物も本物も無い。


鏡は、己の心の奥深くにある。


力を引き出すのは、己の中にあるご本尊だ!

確かな生きた哲学である根本のご本尊が存在する。

ネット上に蔓延するただの頭の禿げた坊主達。

本当の信心の本質から逸脱した観念の奴隷たち。

あなたに信仰を語る資格は無い。

あなたこそが、宗教を金稼ぎの道具にし、信仰に携わる者を宗教の奴隷にしているのだ。

宗教の本質から逸脱した観念の奴隷たち。

観念の奴隷の坊主どもが、信仰者を宗教の奴隷にし、弱い人間をさらに弱くする。

確かな信心を築き上げるための本当の信仰心を捻じ曲げさせる。

あなたこそが、「偽物」だ!

創価の中の自称、創価学会員と名乗る者たちのなかにも、ネットではうようよ見ることが出来る。

お馬鹿な薀蓄を語る人間が。

あなたが信仰しているのは、創価学会の中の根本ではない。

インターネットというネット信仰に心を奪われたゾンビだ。

ネット信仰だ。

「0」と「1」の世界の崇拝者が創価を騙っているから、片腹痛いよ。

創価にもいるよ「偽物が」

あなた、あなた、あなたは、創価の「偽物」だ!

2011-10-11


創価 | [2014-01-29(Wed)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

【人生】:あきらめの人生、勘違いの生き方


歳を重ねるだけの人間にはなりたくない。


人に説教じみたことを言う人間にはなりたくない。


年を積み重ねただけの「タダの説教」というのは、訳わかんない。


今を生きている意味が、常に明日の価値を高める。


そんな風に生きている人間にとって、何の変化も無い生き方を宗教のような説教を聞くのは、堪えられない。


それは、あきらめの人生を悟ったただのお話。


そんなのは哲学でもないんでもないね。


勘違いの人生。


人間が物として生きる人生は、どこまでも利用される運命にある。


自己不在の人生。


もう、今という時間をただ浪費するだけの人生。


そんなことを延々と説教してる。


全くわからないよ。


そんな人生を無限の可能性を秘めた人間が生きることに、全く意味をなさないことを繰り返すことが理解できない。


価値。


何の価値があるのだろう?


タダの合理主義ならコンピューターに任せておけよ。


人間の存在価値を失わせるような説教に何の価値があるん?


人間は人間。


物に人間を当てはめようとして、簡単に生きようなんて虫が良すぎない?


1+1=2でよかったね。


人間を否定する生き方が正しい生き方?


人間を否定して、人間らしい生き方が出来るはずがない。


それじゃあ、人間として生きている価値は無いというわけね。


あほらし。


わけのわからないことをわかったように言葉を並べれば、わからない人間は、わかったようにすり寄ってシンパしてますよ。


何にもわかっちゃあいない。


人間なんて、なんにもわかっていなくくせに、さも、わかった口をきく。


バカだよね。


ホント、どこまでも人間は馬鹿。


どんな人間も解することなんてできない。


人間に出来て、人間にできないこと。


信。


人間が人間であり続ける事。


信。


バカには、一生見えないよ。


今日も意味の無いことを書いてしまったよ。


やっぱり、わたしは、馬鹿だからね。


まあ、わたしのメモだから、気をモメないでね。


人間の世界は、馬鹿騒ぎの世界。


馬鹿だね。


バカだから。


まあ、馬鹿ほど、可愛いし。


馬鹿は偉いし、馬鹿は天才だし。


ん?


要するに、馬鹿は愛すべき人間。


もっとも優れた人間の称号は、馬鹿。


だから、バカボンは、愛される。


馬鹿だけどね。


でも、馬鹿になりたいよ。


世の中には、馬鹿になれない「ろくでなし」とい人種もいる。


そんな人のために馬鹿は頑張っている。


みんな、馬鹿になろう。


どうせなるなら、大馬鹿者って言われたい。





人生 | [2014-01-29(Wed)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

【知恵】:「三人寄れば文殊の知恵」・人間社会を生きる


ああでもない、こうでもない。

人間と言うものは、「考える頭」があるということによって、どれほど幸せに生きる為の無駄な時間を送っていることだろう。

不幸の「壁」を、考える頭によって、自ら作り上げてる。

「なんだ、そりゃあ?」

頭が良すぎて、手も足もでない、考えすぎる「バカな頭」。

「うそ~!」

「それ、矛盾してる~!」

「あ~だ、こ~だ」と理屈なのか屁理屈なのか知らんけど・・・。

手前勝手な、都合の良い理由を永遠と並べてみても、現実を生きない人間にとって、所詮、すべて、「絵に書いた餅」。

何も実現できなければ、無駄の無意味。

無意味どころか現実を生きることから遠ざかり、叶いっこない夢を生きながらあの世を生きているようなもの。

せっかく、体と心の痛みを感じる、また、切ったら血を流し、傷跡を残す体と心。

生身で生きられる人間として、生まれたのに・・・。

「喜怒哀楽」の感情。

人間の五感と研ぎ澄まされた第六感(?)。

何のためにあるのかな?

人間にあるものは、全部必要なものなんじゃあないの?

切り捨てたり整理したり合理化するなんて、人間が人間を知るためには、あまりにも不合理すぎない?

人間にとって要らないものなど何一つない。

人間社会を、力強く生き抜くための全部が武器。

「その武器を鍛えなさい!」

「使って、使って、使いまくりなさい!」

「泣いて!泣いて!泣き喚け!」

「怒って、怒って、頭をぶつけた押せ!」

「悩んで、悩んで、悩みぬけ!」

人間に備わった全てを使い倒せ!

「突き抜けろ!」

そんなことなどできないだろう。

使い方を知る為の説明書を貰わなかったのか?

お前自身で作らんのか?

拾うことも出来ない「運」の無い人間!

所詮、臆病で、運を開けない人間は、どこまで言っても、頭があるのにいらん頭を使うばかり。

人間についている頭を使う本質をどこまで行っても知ることが出来ないんだよ。

だから愚か者だという。

本当に使える脳みそを使い倒せない馬鹿ばかり。

それは、お前のこと (・・・私のことです・・・)

じゃあ、どうすればいいのか?

う~ん。

「やっぱり、また、あしたかんがえよ」

あたまのなかは、ひらがなばかりの世界が、もやもやとうかぶだけ。

何一つ知恵が浮かばない。

その知恵。

生きる知恵。

神様でも、仏様でもない限り、生きる知恵なんて、頭で考えただけでは、出てこない。

ひねりだせるはずが無い。

ただ、観念、観念、観念。

「もう、ええ加減に、観念せい!」

生きる時間を無駄にする。

無意味な時間。

そこには、知恵をひねり出せる、確かな哲学がないから。

その確かな哲学とは、現実を立って歩くための行動を必然的な伴う哲学。

生きる為の、活きた知恵とは、頭の脳みそから出るのではない、現実の中で、人間として生きる結果によって引き出される、一人ひとりのオンリーワンなのだ。

現実をオンリーワンの幸せで生きられる確かな哲学に基づくものが、生きる現実に、壁を作らない最高の知恵。

こんなところでくだらない能書きをたれているような今の私には、絶対に捻り出せない生きた知恵なのだ。

現実を生きることの辛さは、なんとも楽しい。

今を生きている実感。

そんな風に思えそうな・・・。

辛さの中の笑顔。

それが、今の私の現実的な目標。

このどん底で、現実は変わらないけれど、本当に、己の中の開けてくる生命を心で、確かに感じ取ることが出来る。

怖い、怖いと思っていた現実も、蓋を開けてみれば、己の弱い心が作り出していた幻影にすぎないのだ。

『三人寄れば文殊の知恵』

人間が人間社会を生きる知恵。

対話により生まれる人間社会の英知。

妙法。

桜梅桃李の人生。

今を生きる。



知恵 | [2014-01-29(Wed)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

【生きている】:怒りによって今を生きることが出来る信仰


激しく怒りの感情がこみ上げてくる。


どうしようもないほどの怒りに満ちた感情だ。


この「怒り」というエネルギーは相当のもんだ。


怒りという感情。


放っておけば、わたしの中で、どんどん暴走を始める。


でも、わたしは、心の中から湧いてくる今を生きているというこの現実に対してどうすることもできない怒りを鎮めようとは思わない。


無理やり心に抑え込もうとは思わない。


これが現実なんだ。


生きるということなんだ。


どうしようもなく見える現実。


私一人の今の力ではどうしようもない。


激しく高ぶる感情。


その怒りに我を忘れそうになって、現実という今を生きることから逃れようとするもう一人の自分。


諦めて放棄しようと滲み出てくるもう一人の自分。



自分の闘いだ。


葛藤。


一瞬、一瞬が格闘。


怒りの生命との格闘だ。


この怒りはマイナスのエネルギーではない。


今というこの瞬間を生きる。


そして、未来を変える大いなるパワー。


怒れ!


怒れ!


もっと怒れ!


己の生命。


信じる。


信じるための信仰だ。


怒りこそ、この信仰の醍醐味だ。


毎日が怒りによって、今日から明日へ。


喜びへと変わる。


妙法。


桜梅桃李。







信仰・信心 | [2014-01-28(Tue)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

【信心】:THAT WAS THAT「あの時はあの時さ」

あの時のようにもう一度自分を信じて生きてみる。

あの時は、あの時。

THAT WAS THAT.  

「あの時はあの時さ」

本当に馬鹿だったあの時。

でも、あの時は、あの時なんだ。

THAT WAS THAT!

間違っていたけど、あの時は確かに、自分を信じて生きていた。

間違っている自分を信じて生きていた。

だけど、だから、あの時のように確かに自分を生きていたように、もう一度自分を信じて生きてみよう。

だから、今。

こうして、自分を信じて生きることが出来るようになった。

生きた屍のように、死ぬことだけが自分の人生だったあの時、あの頃。

信心は、今を生きることの為にある。

本因妙

今日より明日。

過去はもう戻らない。

価値の無かった過去。

無意味な過去。

しかし、無価値を価値あるものに変えることが出来る。

価値創造。

不可能を可能に変える。

生み出す力。

信心。

「自分をどこまで信じきれるか」ではない。

自分をどこまでも信じるんだ。

信じれる。

信じきることが出来る。

確かな哲学に基づいて。

今を生きるために。

己をどこまでも信じるのが信心だ。

それがわたしの信仰だ。

わたしの宗教は私自身なんだ。

わたしが宗教だ。

どこまでも謙虚であること。

妙法。

桜梅桃李の人生。

今を生きる。


信仰・信心 | [2014-01-19(Sun)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

【信じる心】:頑張っている自分、ダメになりそうな自分・桜梅桃李

今日一日、昨日のわたしより頑張った。


今日は、また、もとのダメな自分に戻ってしまった。


3歩進んで2歩下がる。


1歩進んで2歩下がる。


進んでいるのか戻っているのか?


わたしの足跡。


それでも今を生きる。


今の自分を信じて生きる。


こんな自分でもわたしは私。


自分というわたしを信じてあげなければ、誰が自分を信じてくれるんだろう。


自分という私を信じなければ、誰を信じることが出来るというんだろう。


ダメなわたしも私自身。


頑張っているわたしも私自身。


桜梅桃李。


そのための信仰だ。


わたしと私の闘い。


こんなわたしをもっと好きになってあげよう。


きっと、きっと、昨日のわたしにはできなかったことが出来る。


昨日より今日、今日よりも明日。








信仰・信心 | [2014-01-18(Sat)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

【本因妙】:生身の人間が現実を生きてなんぼの宗教


「思い」を語ったところで己が生きた証にはならない。

現実をいきてなんぼ。

生きているだけで丸儲け。

今、その力が試されている。

必要な時、その瞬間に力を発揮することが出来ない哲学などただの妄想。

ゴミだ!

嘘の宗教だ!

嘘の信仰だ!

嘘の信心だ!

語る暇があったら今という現実を生きよ。

生身の人間として、社会の中で生きよ。

己の思いが今という現実を生きる中で、人間の姿を通して振る舞いとなって現れる。

人間の中で学ぶ。

どこまでも謙虚に。

己の信じた道。

その確かな道を己の生命に哲学として刻むために行動する。

「生きる」という行動。

「生きるという行動」は、学習となって更に己の哲学を高める。

人間として幸福に生きることの人生の選択することが可能となる確かに生きることの出来る知恵となる。

生きるための活きた知恵。

生きることの一歩を確かにする知恵。

己の足跡をはっきりと残すための知恵。

信じる事。

行動すること。

そこから学ぶこと。


生きることとは、ありがたい。

どこまでも感謝出来る心であり続けたい。

大切なものを与えてくれた、大切な人に対する恩。

大切な根本。

今を確かに生きることの出来る哲学。

その哲学は、一人の生身の人間が、現実を己の力で乗り越えて生きられることの出来る哲学。

一人ひとりがもつ生命の中に秘めた力を最高に引き出すことの出来る哲学。

「当たり前」の火事場の馬鹿力。

本因妙。

桜梅桃李に今を生きる。

妙法。



本因妙 | [2014-01-14(Tue)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

【信心】:怒りの頂点を極めると笑いに変わる

わたしを信じる。


わたしの中の怒り。


生きることに対する怒り。


怒りが頂点を極める。


冷静さを取り戻す。


そして笑いに変わる。


楽しい。


怒れるわたしがいる。


真剣に生きている証拠だ。


怒っていいんだ。


わたしは怒っていいんだ。


謙虚さ?


そのなものはどっかに捨てちゃえ。


今必要なものは、そんなもんじゃあない。


自分をどこまでも信じることだ。


怒りの頂点を極める事だ。



わたしの信心。


確かな哲学に基づくわたしの信仰心。


そうだ、わたし自身が宗教だ。


桜梅桃李に生きる。








信仰・信心 | [2014-01-14(Tue)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

【間違った創価 組織】:聖教新聞を5部も購読する学会員

私が創価という組織を、冷ややかに右後ろ斜めから見るようになったのは、こんなところに原因があるのかもしれない。


「金集め」の組織。


一人の人間の信仰心を宗教の奴隷として巧みに利用する。


聖教新聞を一部購読するよりも2部購読する方が、信仰を高く積むことが出来るんだって。


功徳があるんだって。


宗教の奴隷だね。


信じることでしか成立しない宗教。


盲目的な信仰心。


正しいか?


正しくないか?


宗教とは、そんなことはどうでもいいんだろう。


一部しか読まないなら一部でいいに決まってるのに。


読まないのに、2部、3部、4部と購読する学会員。


理解できない。


宗教とは恐ろしい。


盲信とは恐ろしい。


洗脳とは恐ろしい。




創価 | [2014-01-14(Tue)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

【普遍的な真理】:宗教と寛容についての問題提起


宗教を単なる頑固者の道楽にしているような人には我慢ならない。

宗教は、真理に独善的な解釈を出して探究を降りてしまった者と、 その独善的な解釈を妄信し、そこに安寧を覚えてその先を探究しない者の集合体



確かにそんな「観念の妄想論者」ばかりなのかもしれない。

他者を否定し、排除する。

己の小さな器の中だけの偏狭な世界をすべての宇宙として語る独善主義者。

人間を物の道理に押しやる唯物論者。

目に見える物がこの世の中のすべてみたいことを盲目的に信じている。

否定的に、ただの「あきらめ」として切り捨てる。

面倒くさいものには蓋をするだけのご都合主義。

一番楽な生き方を正しい生き方とする。

そんな人間性を否定する先に導きだされた偏屈な理論に基づく似非な宗教。

洗脳。

自己洗脳。

己自身によって洗脳されている人に対して、お気の毒だ。

己のエゴによる独善的な解釈を盲信し、人間が生きることの面倒くさい部分を無だとする。

そこに見える矛盾をバッサリ切り捨てる。

つじつまの合わないことだらけなのに、道理に従えだって?

「おれが宗教だ!」

「おれが教祖様だ!」

みたいなことを語ってる。

「おれの偏狭な宗教でよければ、なんでもこたえてやるよ」ってか?

勘違いのナルシスト。

というわけで、そんなオナルな人に、教えてあげたいね。

『他宗教にも「真理」を見い出していくべきで、他宗教を否定することは自らの正しさをも否定することになる。』

という寛容に基づく融合をどこまでも探求し続ける宗教もあるよ。

一人ひとりの独立自尊の人生を公布という現実に生きる世の中で、一人の人間の中に確かな明かりを灯すことのできる生きるための哲学を獲得することが出来る。

要するに、入学した途端に、いつでも卒業出来る宗教なんだな、これが♪

するもしないも、本人の自由なんだよ♪

でも、卒業できるかな?

世の中のどんな学校を卒業するよりも難しいかもよ。

卒業基準がないからさ。

卒業しようが、卒業しまいが、そんなことは、誰が決めるでもない。

そんなどうでもいいことにとらわれない宗教なんだ。

自由なんだ。

弱い人間は、どこにいても弱い。

己の弱さにどんな信仰をしていても溺れ続ける。

創価の卒業は、己のなかの絶対的な幸福の価値観を己の生命に築あげることが出来れば、もう一人前。

創価ほど、他の貧弱な似非宗教に比べ、一人ひとりの確固たる独立自尊の人生を生きている人がたくさんいる宗教は、無いのではないだろうか?

現実を生きることのできない観念を、ただ毎日、お題目のように語る宗教に何の価値も無い。

言ったことを実行できない非現実的な話には、興味は無い。

創価学会は、確かな哲学を根本に変化し続ける信仰。

進化し続ける宗教。

人間がより人間らしく生きるための真理を探究する。

究極の、人間一人ひとりの幸せをどこまでも追及する宗教。

だから、「団体だけど、団体じゃあないんだよ!」

ひとりの人間として投げかける寛容の在り方についての問題提起の見解。

宗教の信奉者が、自分たちが洞察し、また啓示された「真理」に絶対的な確信をもつのは当然のことでしょう。しかし、そのことによって、独善的、排他的な”偏狭の信”に陥るのは、「真理」の解明を目指す宗教者の正しい態度ではありません。

むしろ、究極的な「真理」の解明のために、互いに英知をしぼり、人間の真の幸福の実現に向けて競い合うことこそ、宗教者のあるべき姿だと考えます。

たとえば、自らが信奉する宗教によって洞察された「真理」が、他の宗教にも見いだせることは、しばしば自らの正しさを補完的に証明するものとなるでしょう。

逆に、他の宗教の全面的否定は、そのなかに含まれている「真理」をも否定することになり、それは自らの真実性をも否定することになりかねません。



全ての宗教に「真理」を見い出していくべきで、他宗教を否定することは自らの正しさをも否定することになる、と言ってるんだよ。

この言葉に、同感、共感できない奴は、お利口な馬鹿にはなれない。

煮ても焼いても食えない「ろくでなし」の宗教論者となる。

要するに、嘘つきってこと。

新たな価値を創造をできない世間話の延長線上で、「うわ言」のような「戯言」を死ぬまで語ってなさい。



宗教 | [2014-01-14(Tue)] | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

Copyright © 桜梅桃李・世界に一冊のメモ帳 All Rights Reserved. Powered By FC2. 
skin:*cuteblog*