理解できないものを理解するということ


好きとか嫌いとか理由の無い生理的な拒否反応は、仕方が無いというように片付ける。

そんなマイナスの最低な答えなんて、答えじゃあない。

理解しようとする時に、沸き起こる感情。

その感情を乗り越えるということは、理解しなければならないものに対する前向きな心によるもの。

その感情の元となるのは、己の?

現在の己の生き方の全て?

感情と感情。

理解できないものを理解するということ

それは、己の中の葛藤。

人間を理解することの難しさ。

思いやり以前の心の器の問題?

心の器より、過敏に反応する心の出来、不出来の問題?

単なる鈍感な人間の愚かさの軽薄な理解より、感情に打ち勝つ生命の塔を打ちたて、その鎖でつながれた心から、発する思いやり。

人間が、理解できないものに対する思いやりを発揮するために、そんなに、己の中で、戦わせなければならないものなのか?

単なる独り相撲。

独り相撲の哲学?

哲学は、孤独な中で生まれるもの。

思いやりって、それは同情。

理解しなければならないものに対する、心の葛藤の末に投げかける重い槍。



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人間の我慢の限界:宗教の袈裟を着て「法」を語る


人間の我慢の限界。

一人の裸の人間の言葉で「法」を語る。

「宗教の袈裟を着てそのユニホーム」で、「法」を語る。

この二つは、全くその語る意味が違う。

その時、その持つ人間の本性が出る瞬間。

一人の人間の本性を通し、その「法」を知ることによって、人間が必要なものを知る。

その宗教を賛嘆し、その組織を宣揚するために、「法」の教えを語る時、人間の我慢の限界を越えて、むき出しにされた本性を知ることは、その宗教の価値を下げる。

その宗教の宝を石ころにする。

その宗教の未来をぶち壊す。

その宗教の本質とその価値を語れないのに語ろうとするもののその心とは?

私のような未熟者では、「ココ」が、どこなのか、わけもわからず、どこのどいつが見ているかも知れないこんな場所で語るのには、どんな批判が来るか、その宗教の宝と大切な【もの】を壊しはせぬかと、名前さえ出す事が恐ろしい。

それは、こんな場所だから。

良識を弁えた人間ならば、

「よくあんな場所で、そんなことが出来るわねえ。」

なんて中身を知らぬものが、勝手な事を噂する。

「一体、常識さえ弁える事の出来ない、非常識な人たちなんだから」、なんてね。

「そりゃあ、しかたが無いかもね。」

「正義、正義」と、正義ならなんでもあり。

なんて風に思っているの人たちなんだから。

慎みや謙虚や思いやりが、そのやり方のえげつなさに、かき消されてしまうほどの正義の履き違え。

宗教を信仰しながら、世間の常識からずれていく、この非常識。

でも、それをその宗教の正義と勘違いするドアホ。

本当に、極普通に生きていらっしゃる人には、迷惑極まりなくて申し訳ありませんと代弁しても収まりません。


一部で見られるそんな、今のその宗教の実情。

憂慮しなければならない心配事を、上からの号令だけで、猪突「盲信」。

突き進もうとする。

元気がいいのはいいけれど、礼節を弁えられんのかね。

その宗教の看板が泣くよ。

それは、私には、愚かに見える。

「物言わぬ」本当に、その宗教の価値を知る良識を弁えた高き生命の人たちは、見えているはず、感じているはず、心配しているはず。

でも、私は、「一人の裸の人間の言葉」で、「法」を語る。

だから、あえて、その宗教のダメだしをする。

それは、その宗教を大切にしているから、絶対に壊せない宝があるから。

きっと心配しているはず。

号令だけで動く、イエスマン達。

一番大切なもんを忘れてはいませんか?

大切な人が、一番恐れているものはなんですか?

その宗教の本質とは、利他と慈悲。

未曾有の理想。広大無辺な理想。

その宗教の素晴らしさを、にわか仕立ての袈裟を着て、人に教えを説く坊さんにでもなったつもりで、出家並みの修行や過酷な現実を生きたわけでも無いのに、わたしゃ、頭が良いといわんばかりに、理路整然と、「偉そうに」法を説く。

何様のつもりじゃ!

そんな暇があったら、一人の大切な人を救える人間になるために、現実を生きんかい!

法は、お前が偉そうに、こくもんじゃねえ。

おまえ自身に現実のために説く法だろ?

誰も法を説いてくれなんてそんなことを誰が頼んだのかねえ。

俄仕立てのお尻の赤いお坊さん。

ネットはホントに厄介だねえ。

一著前に、お釈迦さんにでもなったつもりで偉そうに法をといても、やっぱり、人間は人間。

その馬脚を現す時がやって来る。

その本性を現すときがやって来る。

中身の無いものに、紙を貼り付けても、当然、雨が降れば破れて、おんぼろろ。

攻撃される事を承知でも、結局、そいつの我慢の限界。

我慢の限界とはなんだ?

己の負け。

しかし、その負けを認める事の出来ないその生命が、本性をさらけ出す。

見ているだけで哀れ。

その哀れさの結末は、誰がそいつの尻をふくというのだろう。

その尻を拭かされて汚されるのが、その宗教じゃあないのか?

情け無い。

逆切れして、そのネットで、攻撃したものをこれでもかと晒す。

何のためのその宗教の宣揚なのだろう。

それは、その宗教は、人を選ぶと言う権威主義に映らんか?

その宗教を褒めちぎり、宣揚する事を己の役目として振舞いながら。

人の幸せを祈ることの出来るその宗教。

利他と慈悲の、その宗教を宣揚しながら。

そんなときには、都合よく自己保身のために、その「法」を都合よく使える。

逃げるために仏法を解釈する。

そんな意味では、法というのは、頭のいいだけの尻の赤い猿でも使える者には万能。

使われるその宗教にとっては不幸。

桜梅桃李。

今を生きる。




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妙法の当体「信心」:「極道」の世界を覚醒させる


人の心を無にすることによって、人間は、「神」にも「仏」にも成れる。

「神」によって人間は生かされ、「仏」によって、人間を生かすことが出来る。

「神」も「仏」も、全ては私自身の生命(命)そのものである。

私自身こそが、その「当体」なのである。

「言葉」の意味を体得するのが信心である。

命(生命)によって、心の洗濯をする。

一人ひとりの、心のよりどころとなる正しい「信仰」によって確立される「信心」。

信じることの大切さ。

「運命」と「宿命」。

「運命」は変えられる。

過去を変えることは出来ないが、未来を変えることは出来る。

今を生きることによって、過去の意味を変えることが出来る。

今を生きる「宝」、未来を創る「財産」。

この世に与えられた命(生命)。

自らの宿命によって、自らの運命を開く。

その鍵。

それは、「命(生命)」という触媒による心の錬金術の扉を開く。

生かされる命。

人間として生かす命。

人として生かされる命(生命)。

人間をより人間らしく、生かす命(生命)。

それは、私らしさの最上級。

己の信仰心。

信心の扉を開き覚醒させる。

それは、「極道」の世界だ。

桜梅桃李。

今を生きる。



信心 | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

「人」の常識は「人間」の非常識


人の心は、お化けだ。

何も無いものを、有るものとして膨らます。

何も無いのだ。

あるのは、人間が生きるという事だけだ。

何も無いのだ。

「人」の常識は、「人間」の非常識。

常識が常識だと思うこと。

それは、非常識だ。


心と体は切り離すことが出来ない。

「色心不二」



人の常識は人間の非常識

切り離してごらん。

「人間」が見えてくる。

その人間自身の命、生命が輝きだす。

ニュートラルな世界だ。

無。

生きる。

生きる事。

それは、「人間が生きる」ということだ。

あるがままに生きる。

それは、己の心に支配されない生き方だ。

「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」



命(生命)のままに生きる。

心に支配されない生き方。

それは、心を無色透明にすることだ。

不可能を可能にすることが当たり前になる。

非常識が常識に変わる。

過去も未来も、「人間が今を生きる」ことが全て。

本因妙。



ニュートラルな世界を生きる。

その「妙」。

その「法」。

桜梅桃李に生きる。



人間 | Trackback:(0) | Comments:(0) |-

「自分」とは「人間」を生かす「命(生命)」である


「自分」とは何か?

私という「人」の中の心を「無」にすると、見えてくる。

「自分」とは何か?

その答えが見えてくる。

「自分」とは、「人間」を生かす「命(生命)」である。

心を「無」にする。

その哲理。

妙法。

桜梅桃李。

今を生きる。




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「祈り 」それはあきらめない「勇気」


祈り。

「希望」

更に祈る。

「勇気」

そして、祈る。

今を生きるどん底をばねに、そして、絶望から希望への底力に。

命(生命)の変革。

革命。

人間をより人間らしく生きる道理に必然的に導かれる。

妙法。

桜梅桃李を生きる。


祈り

それは、あきらめない勇気だ。

自分には無理だと、うなだれる惰弱さを叩き出す戦いだ!

現状は変えられる!

必ず!

確信の命の底に刻む作業だ。

祈り。

それは恐怖の破壊なのだ。

悲哀の追放なのだ。

運命のシナリオを書きかえる革命なのだ。

自らを信じよ!

卑下するなかれ!

卑下は仏法への違背だ。

胸中の仏界への冒涜だからだ。

祈り

それは、我が生命のギアを大宇宙の回転に噛み合わせる挑戦だ。

宇宙に包み込まれていた自分が、宇宙を包み返し、全宇宙を味方にして、幸福へ幸福へと回転し始める逆転のドラマなのだ。

地球紀行「人間は人間」より 





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我思う、故に我あり「神は死んだのだ!」:桜梅桃李を生きる

我思う、故に我あり (デカルト)




相手の中の自分。

から、

自分の中の相手。


神は死んだ (ニーチェ)



神は死んだのだ・・・。

我思う。

故に我あり。

妙法。

桜梅桃李に生きる。



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