絶対的な変革の価値基準の創造を親から子へ、子から親へ


「親」と、「子」の言い分について、少し考えてみたいと思います。

年老いた親が、嘆く。

「子供は、私に何もしてくれない。」

大人になった、子供が、その親に対して、呟く。

「親は、私が子供の頃、何もしてくれなっかた。」

・・・。

親から子へ、そして、子から親への伝わらなかった思い。

「溝」。

親の責任なのか?

子の責任なのか?

そんな風に、どちらかの責任を問うている世の中の大方を思えば、結局は、自分の人生の失敗や、後悔の原因の大半を、人の責任になすりつける生き方は、ごく普通、一般的、常識的な生き方なのだということを正当化するのに都合がいい世の中なのかもしれません。

より、前向きな正しい生き方の答えを、自らの中に得られなくなって行く世の中の考え方の基準が、一般的で常識的であるとされることの異常さに向かうことを気がつけなくなってきている世の中。

責任をなすりつけあう社会が、建設的で前向きな社会といえるでしょうか?

ニュートラルな価値基準さえ、成立し得ない社会が、家族を、人を思いやる世界を、広めていくことを、容易く可能に出来る社会と成り得るでしょうか?

確かな価値哲学の創造を己の生命に築き上げ、伝え残し、引き継いでいく命の流れ。

年老いた親が、嘆く。

「子供は、私に何もしてくれない。」

大人になった、子供が、その親に対して、呟く。

「親は、私が子供の頃、何もしてくれなっかた。」

互いに、己の、自らの宿業に気づけないものの言葉。

そのように、呟いたところで何が変わるだろう?

どちらの言葉にも互いに、人として、大人になれない心、人間として生命の幼さ、弱さ、境涯の低さをさらけ出しているだけに過ぎません。

そして、繰り返すのです。

『親は、私が子供の頃、何もしてくれなっかた。』と親を責めたその子供が、老人になって、同じことを嘆くのだろう。

「私の、息子や、娘、孫たちは、私に何もしてくれない。」

私は、愚か者です。

今、求められる、親から子へ、子から親へ伝えられる確かな変革を、己の生命の中からうみだすことの出来る哲学が、本当に必要な時なのだと感じます。



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