つぶやき-信仰は、己との正義と悪の戦い

信仰者として、正義を主張し、闘う事は、
正義に、相反する者と、敵対する事なのだろうか?

信仰者の戦う、「正義の戦い」とは、一体、誰との戦いなのだろうと、
浅墓な私には、己の中に確立されつつあるものとの確かなズレのようなものを
感じることがあります。

信仰者として、敵対してきたとされる人間。
誹謗中傷や、悪の限りを尽くしたとされる人。

その、人間がこの世を去った後も、その死者を引きずり出してまな板の上に乗せ、
その死に際を再現して、、あざ笑うかのように鞭打つことを、
わたしは、絶対にしたくはありません。

信仰者として、仮に敵対してきたとしても、
それは、全て己の中の悪をその相手の中に見つけ、
己の悪が、はびこらない為の、本来、「己の中の敵」であるべきものを、
相手に見つければよいのだと感じます。

信仰に反逆し、その信仰者に対して、誹謗、中傷した者と、
信仰者同士で、互いを厳しく高めあおうともせず、信仰者の仮面をかむった者、

その両者に、いかほどの差があるというのでしょうか?

悪の限りを尽くした者の生命、その凶器は、等しく、己の中にも存在する。

この世を去れば、もう、敵対する役目は終わっているのでしょう。
原因、結果の全ては、死者が、この世で役目を終え、
死者自身が、何もかも全部を背負っていくのだから。

死者が、その全ての現世の自身の宿業を何もかも覚悟で背負っていく。
死は、この世で役目を終えた瞬間なのだ。と感じます。

己の生き様は、全部、己自身が分かっているはず。
誰が、攻めずとも己が、一生、永遠の生命の輪廻の中で、
原因と結果の攻めを負うのだろう。

生きるも地獄、死ぬも地獄、そして、死んだ後も、
輪廻と流転を繰り返すのでしょう。

それで十分過ぎるのではないだろうかと感じます。

信仰者の戦う正義と悪とは、己の中の正義と悪が、己の死に際に、
どちらの生命で決着がつくのか、その己の中に存在する「仏」と「悪魔」を、
諸法によって、気づかされる「縁」に触れているだけなのでしょう。

気がつけば、己自身がその、「死に際」に、まな板の上に乗せられ、
あざけり鞭打れることなどないと一体、何を理由に約束で出来ますか?

人間の、業の深さは、はかりしることは出来ません。

「人を呪わば、穴二つ」。
どんな人間でも、いつでも、自分の棺おけと墓穴を自分で用意出来る、
人間は愚かな生き物なのだ。 と、私の過去を振り返れば、そう思います。

死に際に、「地獄へ堕ちろ!」と己自身が、罵られないなどという約束が、
出来るものなど、信仰者の仮面をかぶった偽善者と呼べるのかもしれません。

また、信仰を騙る傲慢の極み、輩なのかもしれません。

信仰者にとって、悪との戦いは、相対するものによる悪に「縁」することによって、
己の中に存在する絶対的な悪を、いかに封じるか、その戦いなのだと思います。

『獅子身中の虫』(しし しんちゅうの むし)は、
私の生命にも存在した事実を突きつけられているのです。

己の生命と心は、根本的な「強さ」と「弱さ」、
「善」と「悪」の間を、常に揺れながら、相対的なものに、
必然的に縁しながら生きる。

宿業と宿命。

ここから逃れることが出来ないから、
ここから逃れようと、脱却しようと、

宿業と宿命にまみれた、人間の姿をした動物が、
人間なるものを求めて、試行錯誤する。

己の中に絶対的なものを築きあげようとして。

その試行錯誤の結果が今の世の中を創り出している、
それぞれの生命に映る風景を決定付けているのでしょう。

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2009-02-08 日  23:26:05 |  URL |  # [編集]
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2009-02-08 日  23:31:12 |  URL |  # [編集]
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