付箋・メモ-厚顔無恥な未熟者

信仰を自分の「言葉」で語ることの難しさは、
己の「命」に、生命に、信仰者として、刻むことの難しさの一端を知ることができます。

信仰を己の生命に刻み、開き、己の言葉として語ること。

「信仰心」とは、己の中の哲学の「塊」。

己の「心」を己の生命で磨く。

哲学で、高められた、固められた己の生命で磨く。

己の現在の「苦しみ」や「悩み」、「迷い」を闘いの課題や場所にして。

過去の、そして、現在の私の汚さは、他人の言葉を拝借しておきながら、
さも、己の命から出た言葉のように、泥棒したその言葉を使って、

人を、社会を切たつもりで喜び、その反応を見て、
自己満足に耽る愚か者の解説者、批評家気取り、信仰者気取り。

私自身の生命には、何一つ届いてはいない、
本当は、何も、分かっていない。
己の中では、何も変わっていない。

言って見れば、知識の受け売り、横流し。

己は、単なるコピー機か?操り人形か?傀儡か?

一体、誰のための宗教か?

広めるためだけの宗教ならば、今の世の中、機械にさえできる。

己の「信仰」、そして、己の「信仰心」として、芽生えぬ開かぬ「宗教」が、
絶対的な哲学に基づいているとされる宗教が、

己の生命を開くことなしに、広まったからといって、
一体、己にとって、何の価値があるのでしょうか?

それが、「わたしの喜び」などと、言う者は、付和雷同する弱い心のみによって、
弱者と強者の区別を集団の大小で決め付ける弱肉強食の、
この汚れた社会のイデオロギーそのものではないか?

私の、この汚れた命では、「わたしの喜び」と語る言葉のその中に真実を、
見つけ出せる自信はありません。

「宗教」という道具を使わず、使いこなす為の説明書さえ読まず、
己の生命で刻む苦しみを経験することも無しに、

宗教という道具をただ、伝えることなら、
優秀な会社のトップセールスマンに高い金を払えばいくらでも勧誘してくれる。

金を積めば、いくらでもどれだけでも、「宗教」も金で買える。

正しい哲学に基づく信仰が、その信仰を広める「宗教」が、
要らぬ誤解を生むのも、批判中傷にさらされるのも、
安っぽい人間の受け売り、単なる利害関係の目的のために宗教を利用しているだけの
結果によるものなのかもしれません。

単なるサークル活動や、勉強会の延長程度の宗教クラブなら、
広めることに専念するよりも、まず、私を高めることに専念するべきだった。

信仰を己の命で、己の生命で語らずして、
何を広めようというのでしょか?

己の中で、その道具の価値を無限に高めようしないものが、
安っぽい、押し売り、受け売り程度で、伝わるなら、「似非」宗教といわざるおえません。

結局は、私自身も、無責任に社会を混乱し、扇動し、
要らぬ不安をばら撒くだけの種類の人間と変わらぬ同じ穴のムジナ。

厚顔無恥とは、まさにこのこと、私のこというのだろう。
こうして、今も、その、無知をさらけだしている。

でも、この己の無知をさらけ出すのも、
相対するものに己の無知を映し出して、吐き気と気分の悪さを感じることも

信仰者として、現在の己の境涯を確かめるため、この一瞬に「妙法」を
命に刻むためにあるのかと確信できれば、己の愚かさを常に、
確認することは、意味のある作業なのかもしれません。

人間としての未熟者が、この世の途中で生きているのだから。

恥さらしな人間。

これからも、もっと、恥をさらして行けば良い。

これが、今の私なのだから。

厚顔無恥(こうがんむち) - 語源由来辞典


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