人間の逃れられない生老病死

人間は死んでどうするかでは無くて、生きてどうあるべきかを知りたい

大切な人が亡くなった時に感じるもの。何も感じない人間などいるだろうか?悟りを開いた人や仏なら別だろうが、赤い血の流れる生身の体に精神を有する人間が無感情でいられるわけが無い。

あの世に旅たつ魂が現実か、この世が現実かでも、私たちは、現実を生きた人たちの上に生きている。

現実は、今を演じる舞台。あの世は、観客席。この世の舞台で演じ切った人たちは、満足の笑顔で現実を生きるあなたの舞台を応援してくれているのかもしれません。

深く悲しく、辛いことですが、生きている私たちは、そう「信じる」ことで、辛さを乗り越え、他者への思いやりや、己が現実を生きる為のエネルギーに変えていけるのかもしれません。

さまざまな状況で「生老病死」に直面した時に、宗教、信仰、哲学のの確かさを、己の中の自己確立の高さを確認できる時かもしれません。

人の死は、誰にでも等しく平等。生きていることも平等なはず。裸で生まれて、あの世に持っていけるものは何も無い。宗教が慰めなのかそうでないのかは「信じる」ことでしか成立しないのかもしれません。

生きてどうあるべきかという定義のようなものは、人ではない人間には意味の無いことでしょう。、それよりもどのように死んでいくのか。己の「死に様」を決するためにどのように生きるかという答えなら出せます。それは、今、この瞬間をどう生きるかということに尽きます。

明日があるさという人間は、気がつけば「人間」のままで死というゴールを迎え、輪廻転生を繰り返すのでしょう。過去から未来永劫、無意味な意味を導き出すことよりも、今を生きる意味を導き出す。

「生きて何ぼ」「生きてるだけで丸儲け」己の未来さえわからないのに、死んだ後のことを拝聴したとしても悟れる人間などいるわけが無い。未来も、死後の世界も、己が今を生きるただそれだけのためにある。

人間の価値は、今、この一瞬にどれだけもてる力を発揮でるかということが、己の最後の死を未来のその時に生きた証として残せることになる。信じることは、今を生きるための、人間として得心を得るために馬鹿になることかもしれません。私には、「人」になれる悟りはどれほど先のことでしょうか。

※この記事は、筆者の他のブログに対するコメントに内容を付け足して記事としています。

【名字の言】人生を確かに生きるひとしずく

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