【ゆるい人生】と【ガバガバ人生】と【オマケ】的人生


家庭があるのに家庭の無い暮らし。

宗教はあるのに、そこには、愚か者たちの互いをののしりあう声。

宗教活動は、何のため?

その矛盾を感じ取る子ども。

両親達の醜い姿に、信仰の形の欠片も感じられない思いを、子が見るに見かねて意見をするのを、親は、親の都合で聞き入れてはくれない。

この人たちに、宗教は、一体、何の意味があるのだろう?

理解できない両親の姿に見える矛盾。

その宗教の本当の姿を、見ようとしていたのに、見えなくさせてしまったのは、一体、誰?

そのような家庭に生まれ、その宗教を与えられたことの不幸。

幸福になるはずの宗教が、己の人生の不幸を選択するための宗教に変わる。

この宗教を必要な時に、自らの意志で求めたかった。

正しい信仰を己の意志で授かり、その信仰で生命を開き、真っ直ぐな人生を歩みたかった。

両親の姿に映るその「本物の宗教」は、その両親の宿業によって私の心にどれほど歪んで映って見えていたことであろう。

生命の絆を結ぶための家庭の和楽を、その人間の最も大切なものと気がつくことの出来ないその生命に、映し出される宗教は、何一つ力の無いものとしてしか私には、映らなかった。

本物の宗教を、その両親の姿によって、歪んだ宗教変えて映しださせるのは、一体、何の罪なのだ?

誰の罪なのだ?

お前が、「意味のある無駄」な人生を送らなければならなかったその原因と理由は?

宗教とは、親から受け継ぐことが最高であることに違いない。

しかし、その両親に信仰心というものが生命に開かれていない宗教を、子が受け継ぐことの不幸。

宗教を選択するのは親の判断。

その信仰を与えるのは、親の責任。

その責任を己らのその信仰者としての姿に映し出せない己らの深い宿業による無責任。

その親の無責任で与えられた子の不幸。

それは、回り道を覚悟しなれければならない人生を送ることを自動的に決定付けることになるのかも知れない。

しかし、

その回り道の人生を決定付けている本当の答えは、「お前自身の宿業」なのだ。

しかし、

己の宿業なるが故の全ての現実の苦しみを、与えた親の責任に擦り付ける生き方をする者がいる。

お前。

幸せになる宗教によって、親を恨み、その宗教を批判する。

そのどこまでも深い、深い因縁と、更なる業の深さ。

泣き叫べ!泣き喚け! 怒れ! おこれ!

誰を責めたとて、その間、お前は人生を後ろ向きに歩かなければならない。

暗い、明かりを灯すことの出来ない無明なる人生。

その深い因縁による不幸を、おまえの人生のどん底でそのことを気がつければ、幸せ。

気がつけないものは、この世に本当の明かりが灯ることの無い人生を終えることになる。

その宿業の深さを、更に知らねばならぬことを、知らずに終わることになる。

正しいものによって不幸になることの惨いまでの、凄過ぎる意味の深さ。

どこまでも、どこまでも哀れ。 

哀れ。

お前の哀れを、幸せと勘違いする人生は、もう言葉も無い。

愚かを知ることの出来ない哀れな人生。

勘違いの人生でも、まあ、いいか?

「知らぬが仏」なんていってるくらいだから。

「ゆるい人生」もいいのかもね♪

ゆるいのを通り越して、「ガバガバ人生」。

そうなれば、人間の生き方を知ろうとすることから離れていくことは、そこには、もはや救う余地は、もう無いのかもしれません。

ガバガバなのだから、救えるはずが無い・・・。 

人間を救うのは、その人間自身。

でも、そのような人たちは一体、何のために存在するのだろう?

意味がある。

「オマケ」

この世でお負け的な生き方をしたい?

「お負け」

そうかな?
  
2010/1/12

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