ネットの創価が学会を滅ぼす


私は創価学会員であり、創価学会によって授かった仏法を信仰しており、その仏法における教義と哲学を根本として、記事を掲載しているわけですが。ネットにおける当サイトのポリシーとして「創価学会」のことは意識して、これまで取り上げないようにしてきました。。

それは、「創価」の中だけと言わずに世の中には、素晴らしいと感じる生命を持つ人は、他宗を始め、信仰さえ持たない人の中にもいくらでもいらっしゃいます。また、学会員だからといって、これだけ組織が肥大化すれば、全ての人が、世間的な常識を弁えた人たちかと言えば、必ずしもそんなことは無く、一般社会からも、創価学会の人間は、非常識といわれても仕方のない人もいるわけです。

勿論、それは、私を含めてのことであり、創価といえども、言ってみれば、なんら世間の人たちと変わらない。いえ、逆に、多くの悩みと問題を抱えたまま、そのまま消化できずに悶々と苦しんでいる人の方が多いのかもしれません。それは、創価だけに限らず、「信仰」と「宗教」を選択する人の心の闇は深い。一般世間から非難されるような行動を取るという人が、創価や、信仰・宗教をしている人に中にいても、それは、至極、当然のことなのです。

信仰とは、一人、一人が、社会の中で、役目と責任を果たせる生き方が出来る人生の独立自尊を体得するためにあり、宗教とは、その一人ひとり、個人のためにあるのであって、創価という組織のために人間個人の信仰があるのではない。

あくまでも、ひとりひとりの自己確立を目指すための信仰心を生命に開き続けることの役目を創価と言う団体は担っているわけです。

一人、一人のその心の中にある信仰心を現実の生活に即して、そのあり方を語ることが、創価を語らずとも「創価」を語ることになる。しかし、その方法は各人各様。それぞれの境涯と境遇における宿命転換の道筋の中で、己の心と生命に映る現実を語ることが、「創価」の「価値」の種を撒くことにつながる。そんな風に考えます。

他宗を批判する、寄せ付けない雰囲気を醸し出し、創価が宗教界の王者と名乗るのであるならば、こんなネットという場所において、その他宗がしていることと同レベルな宗教活動をして良いものかどうか、それぞれの己の「創価」によって与えられた、その信仰心を育てるための根本である哲学に、常に、問うてみる必要もあるのではないかと考えます。

寄らば大樹の陰。大きなものを主張することによって、己を大きく見せようとするために、己の信仰心を隠すための道具に「創価」と言う名前を簡単に使うことが、己の中で許されるのならば、それは、本当の信仰心があるのかどうかその覚悟を命に問うことが、また、必要になるのではないかと考えます。それは、己自身の過去の浅墓な行為としての事実から感じ取れることの答えでもあります。

しかし、私が「創価」が備える根本と、その本質に対して感じる「誇り」と「恩」は、ひとしおです。

恩は恩。

わたしは、わたし。

その恩を返すのは、私の中の信仰心。私の中の信仰心と言う【もの】を顕すことによって恩返しをすることが、己を変えることになる大切なことと考えます。だから、「創価」を名乗る必要はないし、創価の中の哲学とは、己の中の信仰心を開くためのものであり、その哲学を現実の生活における人生に反映させるためのものである。

そして、哲学であるこの信仰の究極、「利他」の信仰、更に進んで「慈悲」の信仰であるということは、言葉の意味や観念として理解は出来ます。しかし、生身で現実を生きる、それぞれの人間の千差万別を考えれば、利他や慈悲などどいう、言葉の意味の本質さえ理解できない人間が、お利口さんの信仰者を装って、ネットで、自身のお尻がかゆくなるような、自分の中で体得さえしていない言葉を並べて余所行きの「猫なで声」を使うことに意味があるのかどうか?

「自分に無いものを背伸びして見せても、後で、自分が恥ずかしくなるだけ。」ともいいます。

それよりも、私が感じるのは「ネット」と言う場所で「創価」を使うことのマナーを弁えることを、学会員の方は学ばれた方がよいとも感じます。ネットの社会を「こんなところ」と言うのは、語弊があるのかもしれませんが、己の中の本当の宝であるなれば、本当の価値を知らずに、こんなネットなんかで「創価」「創価」と宣伝することよりも、そのメリットと、デメリットを信仰者の知恵として学び、真摯に受け止め、「組織」「組織」とその枠を固めようとして、創価の団体の力をひけらかし、広げれば、広げるほど、ネットと言う世界では、不特定の傍(はた)で観戦する人達は、理解を傾けようとすることよりも、逆に、更に、かたくなな拒否反応を示す場所なのだということを、学ぶべきなのではないでしょうか。その学ぶべき根本こそ、妙法の中の題目にあるのではないでしょうか。

そんな意味では、このネットという未成熟なメディアの世界に、多くの信仰者達が、こぞって参加し宣伝まがいや宣伝そのものに終始する宗教団体と同列な場所で、まるで「創価」の宣伝チラシをばら撒くことがいいのかどうか。

ネットのメディアが、宗教の根本の教義を語ることにふさわしい場所なのかどうかの意味を問うことと、その行動の根本を疎かにすることがあってはならないとも感じます。そこには大きな責任が付きまとうのだとう言うことです。ネットの発信者は、創価を名乗るのであれば、この「ネットというメディア」のもたらす影響を理解しなければなりません。単なる個人の自己満足のために、創価の名前を使うのならば、それが、正しいことの根本から発していることなのかどうか、それは、真剣な戦いを求められているということに気がつかなければなりません。そのような、のべつ幕無しでいいのかどうかを信仰心によって、己自身にその善悪を啓蒙する必要もあるのでしょう。

ネットで、信仰と宗教・創価を、語ることの意味を、現実のリアルさ以上に、真摯に受け止め、己の信仰心を発揮することにつなげていかなければ、逆に法を下げ、宝の本当の価値を石ころにしてしまう。その怖さを知らずに、ネットで軽々しく語ることの恐ろしさを、喚起しようとしないのは、ネット社会が、特別な場所であることを示しているのかもしれません。その特別な場所であるということの意味を、信仰によってまた、見抜いていく知恵を得ることがネット社会を変えることにつながるのではないかと考えます。

最高の信仰を保ちながら、「人」や「物」に利用されるのでは、あまりにも愚かです。最高で最強であるこの信仰。もっともっと、その力を己自身の知恵を発揮するために、利用しつくしていかなければなりません。そこに必要なものは、生命からは発することの出来る信仰心以外の何者でもありません。

いいことも、悪いことも全部、受け止めることのできる生命を発揮できるのがこの信仰。そして、本来の理想は、もっともっと大きい。いいことも悪いことも「どんなことも言える」。逆に、言われて困ることなど何一つない。批判されることに、目くじらひとつ立てることも無いはず。そんな風に、何でも受け止めて行く覚悟も必要なのでしょう。

学会可愛さゆえに、つまらぬ我が身の保身のために擁護するための「法」を使って正論と称する言い分けすることは、創価学会が、非難や中傷を受ける事の理由のひとつであるかもしれないし、結局、非難される側にその原因の根本があるのだというところに帰着できないという己の信仰心に立ち返れることの出来ない、己の傲慢さを露呈しているのかもしれません。

仮に、創価学会が崩壊しようと、更に、発展しようと、究極、一人ひとりの信仰が確立されれば、どうでもいいこと。一人の中に永遠に消えない創価の存在が厳然として、己の生命の中に存在する。宝は、創価学会と言う団体にあるのではなく、信仰者の一人一人の中に目に見えない最高の宝として絶対的に存在する。

しかし、ネットの安易な信仰活動の世界では、外部の創価を毛嫌いしている人たちが創価を攻撃し、創価学会を潰すのではなく、その内部から出てくる愚かな信仰者の獅子身中の虫によって、時代を察知できぬ変化の結末が、創価の崩壊につながる可能性を秘めていると言うことを否定することは、出来ません。

それは、リアルな現実よりも、更にリアルなのかもしれません。

 サイト運営者 2011/3/6  


■桜梅桃李:世界に一冊のメモ帳 | Trackback:(1) | Comments:(1) |-
コメント
読ませて頂きました。
個人がその宗教をどう受け止めるかと言う事については、自己確立も同じであり、共鳴できますが、宗教が組織化すると言う点では、いろいろ矛盾が出て来ます。
一人一人が自己を確立して一人一人がおかれている立場を如何に理解して人間の生活に繋げて行くか、その個人的な哲学と宗教思想は異なる道だと思います。
組織が無いと私も宗教を知る事は出来ない訳で、従って自己確立も体験する事が出来ない。そう言う意味でどんな宗派であっても大切な教えだと思います。
イワシの頭も信仰の対象になると言われていますが、結論としては人間の世界で宗教を説く行為が道理に適うものではないと言う事を知りました。つまり肉体には物の道理が有る事を知り、創造された物としての生き方が自己確立で観えて来たのです。自分とは何かを知り、それは問うても答えは無いので無我と成り、肉体の運転手としての哲学が生まれ創造主である神、つまり精神と肉体の主従関係が明らかになり、気の持ち方が定まった訳です。心が定まらないと気持ちは不安定です。
無我と成り心を0にして肉体を物と認識する事によって道理に適う思考が出来るようになる。後は自然に生き方が定められて職場で信頼され生きる自信が出て来ます。
信者や会員になると、組織の方針に従う訳ですから、個々の人の心の自由な信仰が出来なくなる恐れを感じます。そして苦を滅する為の信心では無くて、苦を生み出さない道理に適う信心が出来るようになる。そんな世界を体験しています。
2011-03-06 日  18:37:33 |  URL | カメさん #- [編集]
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