創価の座談会の現実を憂う

お久しぶり

創価の座談会の会合と言うところに集まる学会員というのは、「うなずきマン」ばかりなのだろうか?

互いの同志の発言を戒めあう、互いを高めるための信心による信仰心を高めるための信仰者の集まりと言う意識はそこにないのだろうか?

そのような会合に腹立たしさを感じる者は、一人もいないのであろうか?

学会と言うところは、優しく人を包み込む団体ではないのか?

人を優しく包み込むという事は、信心でとらえるならば、そこには厳しさというものが無ければならない。

その厳しさを感じる事の無い、イエスマンばかりの創価のその根本思想に基づいた、一人ひとりの信仰心に訴えかける一人ひとりの信仰心を感じ取ることの出来る会合へと高めようとする姿勢を感じる事が出来ないなのは、私に問題があるのかもしれない。

しかし、その感じる事が、冷静な心で感じ取る事の出来る信仰心に基づくものであるとするならば、学会の座談会の質の低下と言うものを憂う。

その質の低下という下品な信仰者としてあるまじき、差別的な言葉を吐かねばならない学会の中の組織に感じる惰性を責めなければならない。

いつの間に、座談会と言うところは、政治ばかりを語る場所になってしまったのだろう。その政治を語る姿に、信心と言う言葉が一言も出ないという事は、座談会で発言するその語る人間の創価の中にあるものは何なのだろう。

自分と同じ創価の人間を見て感じる、己の中に映し出される創価の姿は、その本質を忘れ去られ、失いつつある単なる文化団体もしくは、政治団体を応援するための母体組織へとその中身を替えつつあるのだろうか?

そんな事を感じる座談会では、今期の選挙は公明。

それしか、私の頭には残らなかった。

そして、幹部の惰性に満ちた、信仰心からずれたところから発せられる心で語る、座談会の中央に座る姿。

そこに感じるのは、一人ひとりが、平等という開かれた空気と自由な発言が許されるような環境を、感じ取る事ができない。

なぜに、こんなに窮屈な思い出で、この座談会という、一人ひとりの存在に光を当てなければならないところから程遠い場所に、嫌な思いを募らせて座っていなければならないのだろう。


所詮、行きたくなければ座談会には、来ないでください。信仰の場所でありながら生きたい人だけが集まるサークル活動のような場所なのかしらん。

個人の発言において、庶民のための創価といいながら、その内容は、人を、お金と住むところで、区別しようとする人間として、最低な発言をしながら、その発言を戒めようともしない。

それどころか、みな、うん、うん、うなづくだけ。

「あ~、そうですか。」「あ~、そうですか。」

あー、そうですかじゃあないだろ!

相手の中にある、その汚い生命を見抜けないようなていたらくな幹部では、その中にある信仰心は一体どんなものなのかを見抜くのには十分すぎる。

組織が崩壊するのは、組織の最も裾野である座談会が、互いの信心を高める場所から遠ざかるような人間同士ばかりが集まる事によって、やがては、突然のように脆くも全てが崩壊の一途を辿るように思えてならない。

その現実を見て、私に、今、出来ることを探す。

【名字の言】人生を確かに生きるひとしずく

創価 | Trackback:(0) | Comments:(2) |-
コメント
法〇と言うことですが、今の時期に使われる言葉の意味がよく分かりません。

私は2006年12月に入会しました。

信心と政治どう捉えるべきなのでしょう?

公明は、生活を守るために動いています。

公明の法案により救われている家庭は多いでしょう。

我が家もそこに含まれて居ますし、公明の政策には頷けるものが多いです。

ただFのための活動により、公明、創価への偏見が強まるのではないですか?

そう思う私は間違っているのでしょうか。

師弟の誓願とは言うものの、正直[政治屋では無いんだ]との思いがあります。

新聞にしろ選挙にしろ、話した数にとらわれすぎだと思う私は間違いなのでしょうか。

あなた様の目から見た私の意見は、どう写るのでしょうか。


ご意見をお聞かせ下さい。

コメントが、この先の何かに抵触すると感じるようであれば、削除してください。
2010-04-19 月  00:40:19 |  URL | 男子部 #abHJs7eY [編集]
男子部さんへ

内部批判とも受け取れる記事にコメントありがどうございます。

政治に参加するための選挙活動を、学会活動のための信仰と結びつけるために、国を正すという意味で、御書の立正安国論を引用して当たり前の説明を聞いても、そのまま納得して、自分の信仰心としてとらえる事が出来、理解をする為には、人によっては難しいことだと感じます。

男子部さんから頂いたコメントについては、ほぼ、同じような意見をお持ちの真面目な学会員の方は、私も含めて多いだろし、その疑問は、自然でもあり、間違っているとは思えません。

私の創価の組織に対する批判は、自身のこととして敢えて伝えることによって創価の信仰者の方が感じて、気がついてもらいたいという信仰心に基づいて記事を書いています。

それよりも私自身が気がつかせてもらえるということが大目的でもあるのです。創価の人間同士の創価の批判は、互いの信仰を高めるためには絶対に必要なはずです。

全ては、ご自身の信仰心において、どのように受け取る事が出来るのかという、現在の姿を映しだす心の中の生命を感じ取る事を試されているということだと感じます。

全てはご自分の信仰心を高めるためあるという哲学に基づくことであること。それが大切だと感じます。
2010-04-20 火  14:50:31 |  URL | バン #- [編集]
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