喧嘩上等・怠惰と怠慢と傲慢


立ちはだかる無知なる傲慢の壁。

そして、謙虚さを維持するハードルの高さ。

「喧嘩上等!」

売られた喧嘩を買うなんて当たり前!

てめぇ、逃げんなよ!

いいねぇ。

ヤンキー用語(?)の中の心意気と言うものは、清々(すがすが)しい。

逃げが無い。

実際は、そこには、生身の人間が血を流し、ぶつかりあうという感情のまま突っ走る。

まあ、馬鹿な人間がやることだけどね。

でも、「本物の馬鹿」は最高。

自分の人生を生き切ることが出来ると思えるから。

感情を、理性という精神でコントロールできない弱い心。

しかし、喧嘩上等!

ヤンキーの粋というかポリシーというか哲学というか・・・。

なんか単純だけどね。

でも、いいよね。

徹底的に戦いあう。

どちらが強いのかを、その己の肉体で決着する。

白黒をはっきりつける。

「タイマン」を貼る。

一対一。

喧嘩に強くなるには、「喧嘩上等!」

喧嘩は、売るけど、買わない「卑怯」。

それは、「タイマン」では無く「怠慢」。

怠慢と怠惰と傲慢。

あの時、あの瞬間。

死と隣り合わせで生きている時の緊張感と絶望感。

そんな、あの時の心をいつまでも忘れないために、常に、己に対して、崖っぷちの状態の選択枝を用意する。

お前、逃げんなよ!

「喧嘩上等!」の哲学。

常に、立ちはだかる己の中の「無知なる傲慢の壁」と、「謙虚さを維持するハードル」の高さ。

哲学における己の中の変革を成し遂げ続けるためには、己の中で、その哲学に対する誇りを、己自身の中の生命の宝として、確立させ続けるための戦いと言える。

今が幸せ。

でも、今の幸せよりも、もっと、大きな幸せ。

もっともっと、大きな幸せを勝ち取るために、現実を生きて、最高で最強の冷静なる感情と理性を、生命に刻む心の「喧嘩上等!」の哲学。

闘えることの幸せ。

「喧嘩上等!」

確かな哲学における「タイマン」とは、無私によって、相手をどこまでも理解しようとする「一対一の対話」。

常に、相手の人間の中の本質を見つめようとするための目を養う。

目を養うとは、心の懐は深く、大きく、そして、生命の境涯を高めること。

確かな哲学に、そこに必要な【もの】とは、たった【1つ】しかない。

必要な時に、たった一つの大切なものを、使えない、働かす事のできない、「策」や「方法」に溺れる、考えるだけのお利口な(?)お頭(つむ)の愚か者にだけはなりたくはない。

わたしの中の確かな哲学に、そんなことは書いてはいない。

それでは、一体、何のための哲学なのかわからなくなる。

それでは、その哲学は、己の中で単なるお題目にしか過ぎないと言う事だ。

自己確立されない人間。

お経を読むしか脳がないのなら、猿にでも出来る。

(・・・それは、ちょっと無理か・・・。)

人間を見つめることによって、己と言う人間を映しだす。

相手の姿を見て、如何に己の心の中に、現在の生命を映しだすことが出来るのか?

そこには、謙虚さが無ければ、己の生命を映しだす鏡は、現われない。

確かな哲学の「タイマン」には、人間対人間の対話と同時に、己の中の「心」と、心の奥深くの「生命」との一対一の「タイマン」が、問われている。

それが無いのは、単なる「怠慢」。

『進まざるは退転』。

将にその通り。

自らを変革できないのは「傲慢」。

自らの変革にさえ気がつけないのは、信仰者としての己の中に信仰心を確立し、更に、高め続けるための努力を忘れて置き去りにし、現状の居場所の居心地の良さに自己満足しているだけの「惰性」と「怠慢」。

どんなに人間にも、いつも巣食う『己心の魔』と宿業。

桜梅桃李。

今を生きる。






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