【死】は悲しいもの?【死】は楽しいもの?

確かな哲学の確かな答えを知ることの出来る瞬間

明石家さんまさんの『人生生きているだけで丸儲け』

生きていてよかった。

生きているだけで良い。

生きている実感。

どん底へ、自らを追いやり続けた、己の人生に与えられた選択枝。

馬鹿で愚かな人間が、どん底を自ら掘り進めて、辿りついて見たものは、地獄の中で仏。

その仏とは、地獄にゴロゴロと転がっている宝の原石。

その地獄とは、自らの生命に他ならない。

その地獄で宝の原石を、今こうして掘りだしている。

掘り進めている。

どん底と言う現実。

その事実。

地獄が天国に変わる真実。

「浄土と云ひ穢土(えど)と云うも土に二(ふたつ)の隔(へだて)なし只我等が心の善悪によると見えたり」(日蓮大聖人御書384㌻)

己の中での証明、そして、確信。

人間は、辛い思いを乗り越えた時に、だれでも、もう、二度と同じような辛い思いはしたくないと思う。

それは当たり前のことだと思う。

当たり前のことだと思うのだけれど・・・。

その当たり前に思ことが、1つの辛さを乗り越えたからと言って、もう、辛い事が何一つ無い人生が、願いどおり実現するものでもない。

でも、本当に、本物の辛さを乗り越えて人が、果たして、もう同じような苦しみや辛さを味わいたくないと感じるものだろうか?

そんな疑問にも捕らわれる。

深い辛さを乗り越えた事によって、今を生きる人生、そして、これから生きる人生。

そこに刻印されるものは、大きな大きな達成感と充実感なのではないだろうか?

『(若いときの)苦労は買ってでもしろ』

『情けは人の為ならず』

人生における本当の辛さの本質を乗り越えた人であるならば、辛さは、生きてきた人生の宝、そして、これからを生きていく大きな勇気の無限に湧き出すエネルギーの源。

更に、人生の最終章へ向って、最大の越えなければならない壁の先へ向っていく為に、この世に生きた事を、感謝できる己の中の哲学を証明する永遠に己の生命に打ち立てた事実になるだろう。

それは、死。

生きたものには、必然的に、与えられる、そして、いつか必ずやって来る人間のこの世での「死」。

その死は、辛いものか?

果たして、その死は、ワクワクするほどの、楽しみなゴールの1つだろうか?

確かな哲学の確かな答えを知ることの出来る瞬間。

死。

☆確かな哲学・賢者の石
【名字の言】人生を確かに生きるひとしずく

本因妙 | Trackback:(0) | Comments:(2) |-
コメント
>確かな哲学の確かな答えを知ることの出来る瞬間。
死。

■ こんにちは。
死に対する捉え方や内面での感じ方は、個個人で様々ですね。

“現世”のみでみるなら、死はゴールとも言える訳で。

■ 私個人は、
「生きている間に頑張っても頑張っても自得出来なかった事を、“臨終の瞬間のみだけ”覚(さと)れる訳が無い。他宗教では無いのだから。」
と思っているので、私にとって死とは、仏法からみたら通過点、です。

もちろん、一旦の別れは悲しいし、死に対して真摯に向き合う意識が私にもあります。

だからこそ、縁した方々への気持ち=情があるからこそ、私は折伏をします。

信心が進んでどんなに気持ちが切り替え出来るようになっても、情というあたたかさを持ち続けるのが創価学会員です。
死んで終わりでは無く、縁した人には、ずっと続く道があります。

学会員が反対する家族にまで折伏をするのは、相手への気持ちがあるからです。
相手が絶対的な幸福境涯確立する事を願うからです。

信心が深まり進んだ学会員ほど、人間らしい気持ちを持っています。

周りに粉動されぬように切り替えするからといって、感情を無くす訳ではないです。

その逆です。

家族間で境涯の差がひらけばひらくほど、将来一家離散になっても不思議では無いです。

これを分かる人ほど、反対する親に対して地道に何年かかっても折伏をします。
親の幸せを願う仏法からの事と、

いつまでも親子でいれるようにと、子が親を思う情が、

両方、共に合致しているのがこの信心なんです。

そして、私もそう思ってきたから、親族縁戚や周りへの折伏を諦めず周りの方々の三世全てでの幸せを祈り続けています。

■ 確かに死とは人生の総決算でしょうが、私にとって通過点の色合いが濃いです。

現世のみを見ても、残された子孫の生き方に、故人の生き方の結果が反映されもしますし。

だから、通過点を迎える時にしても通過した後にしても、「今この時」が私には重要です。

過去でも未来でもなく「今」。
今を生きる事が三世を生きる事でもあるから。

死に対して私は、肩肘張るのではなく、
淡々とした、
いわゆる「水の信心」のような感覚です、うまく表現出来ないのですが…。

■ 死に対しても生に対しても、各自様々な意見があるのでしょうね、きっと。

ネットは観念に陥る比重が強いので、どうかお気をつけて。
2010-06-14 月  14:11:01 |  URL | 凰陣 #kVP5JqGo [編集]
凰陣さん、こんにちは。

記事に対するコメントにお答えする前に、まず、凰陣さんからのコメントをいただけるタイミングというか時期というものが、私にとって不思議で仕方がありません。でも、私が不思議に思えること、それは、凰陣さんにとって不思議でもなんでもないことなのだと思います。

それは、私の今と言う現在、その足跡を客観的に見つめられなくなっている時というか、悩みの解決に困っている状態、そんな時にコメントをくださる方なのですね。

私の中の、今と言う現在を生きる「過渡期」的な状態・・・。

記事に対して、死については、「自然に受け入れる」。

自然に受け入れられる生命。

その生命とは、永遠の生命という観点から見つめる事の大切さ。

死は、生きるこの世のでの最後はあるけれど、永遠の生命と言う観点からすれば、おっしゃるように通過点。


いずれやって来る「死」の瞬間も、未来の「今この時」。

私の心で感じる事のできる、私の観念の世界。

言ってみれば妄想の世界と、確かな生きる哲学である妙法の哲理を、己の生命の中で合致させるために、そのギャップを埋めつづけるために生きると言うことなのだと感じます。

観念とは、妄想。

その妄想を、確かな哲学によって、己の中で、己の哲学に集大成させるための記録をつづるために、私のブログはあるのかなあと感じます。

また、時間を置いて、後にコメントさせていただきます。
2010-06-15 火  13:43:12 |  URL | バン #- [編集]
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