己の中の信心の道を究める為にある宗教

人生の独立自尊のための確かに生きる哲学と生命を深める信心道

宗教とは、己の中の信心の道を究める為にある学校。

世の中の学校。

必要な学校と必要でない学校。

その選択。

人が、何かを始める。

何かを始めたい思う。

その始めたいと思うことに、幸せになる事を始めたいと思う。

何事にも「はじめの一歩」というものがある。

この世に生まれてくることも、はじめの一歩。

いろんな場所で、いろんな環境のいろんな状況でこの世に生まれ出てくるはじめ一歩。

でも、そのこの世の人生のはじめの一歩は、一体、誰が選択したのだろう?

誰が決めたの?

その瞬間から人間が、生きることに対するこの世の矛盾と解けない疑問の心のカオスの原点が、はじまる。

生きるということを課せられる人間としてのはじめの一歩。

人間って言うのは、生きることに対する、矛盾を解く為に、そして、己の中で、その矛盾と折り合いをつけて、その矛盾を説くために人生を与えられている。

納得できないはじめの一歩。

納得できないはじめの一歩を、人生を生きる中で、納得する道を究めるのが、信心の道。

信心道。

己の信仰心を極める。

宗教とは、己の中の信心の道を究める為にある学校。

でも、その学校に入学しても、卒業できる人は稀かもしれない。

入学して、学んで実践したその教え、その哲学、そして、お世話になったその学校の先生達への感謝を常に忘れずに、人生の独立自尊のための確かに生きる哲学を己の中に、心と精神に、そして、更に深い生命へと開き、刻む。

自己確立。

この世の現実の世界で、そして、人間が生きる社会の中で、己の五体と心と精神を持つ人間の姿と形で、己の「生命」を幸福な境涯へと絶対的に開く事の出来る信心。

己の中の信仰心。

その宗教という人生哲学を教えてくれる学校には、卒業は無い?

有るとするならば、それは、何時の事を指すのだろう?

人生においては学ぶ事は、「もういい」は、まだまだ。

「まだ、まだ」は、「もういい」ではなくて、やっぱり、「まだまだ」。

☆確かな哲学・賢者の石
【名字の言】人生を確かに生きるひとしずく

本因妙 | Trackback:(0) | Comments:(6) |-
コメント
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2010-10-24 日  00:07:26 |  URL |  # [編集]
非公開コメントさん、

いただいたコメントに、共感し、同感できる人間が現実を生きるということについて大切な言葉がたくさん。

自身の道を生きようとすれば、必然的に思いが溢れてくるんですね。

おっしゃることと、伝えたいことの意味の深さをコメントから感じました。

いただいた言葉を大切にします。

ありがとうございました。(^^)

2010-10-24 日  10:05:07 |  URL | バン #- [編集]
>その宗教という人生哲学を教えてくれる学校には、卒業は無い?<
卒業しなければこの世の道理に適わないと言う事に成ります。
自己確立は、信心して神になる。仏になる話だと理解しています。
それは神になると言う事では無くて、元々から神である事に気付く、知る、悟ると言う事でしょう。自分とは「無」であると言う事を悟れば、宗教を学ぶ必要も無くなり、そのままの自分で生きられるようになる。
あくまでも個人的な世界観ですが、その世界で自己が確立されて、自分の生きる姿も定められてくる。執着するなと言う意味も理解できるようになる。無我の境地には入学も卒業も学びも何も無い、従って言葉も無い、文字も無い、有るのは今この瞬間に生きている自分だけと成ります。その自分が何故今生きているのか、こうしてバンさんと交流しているのも今ですね。(^^♪

2010-11-06 土  10:31:25 |  URL | カメさん #- [編集]
カメさん、
おっしゃることは、理解できます。
確かに悟りたいですけどね。
でも、理解したことで悟りを得たとしても、やっぱり、完全に神になり、完全に仏になることはできません。人間の中にいる神、人間の中の仏。だから神だけれど、神では無く、仏だけれど、仏ではない。
悟りを開いて、神や仏と悟ったとしても、やっぱり、そこには、その悟りを維持するために、人間として現実の今という瞬間を生きるための信心を維持し続けなければならない。
私にとっての自己確立には、完成した姿は無く、自己を確立し続けるために今を生きるということになります。
一つに自己確立の先には、更に自己確立を高める階段がある。生きるということは、今という瞬間が自己確立の階段を上るためにあるのだと感じます。
宗教というものを客観的に見つめ、宗教からの卒業という精神的な自立は、宗教という組織に縛られずこの世を更に、自分らしく自由に生きるためには必要なことだと感じます。
2010-11-08 月  01:58:35 |  URL | バン #- [編集]
人間は神でも仏でも無いので、自己を確立しても悟りを開いて神に成っても仏になっても
人間は人間の姿をしていますから、私達はこの現実では人間として生きる事に成ります。
その人間として生きる為に神や仏や自己と言うモノが何であるかを考えなければなりません。ブログで語り合う私達の姿はパソコンです。車体に乗れば私達の姿は自動車です。
人間の姿の中に私と言う意識体があります。
其れを神と観れば、物と関係している自分が見えて来ます。姿ある物を生かす主が神であり、自分と言う存在が無くなれば、自分が関係している物は、抜け殻になってしまう。
神を思想的に捉えると、神になる事が難しいでしょうね。運転手と言う気持ちの切り替えが私の悟りに成りました。
2010-11-14 日  00:28:16 |  URL | カメさん #- [編集]
生きるということは、行き着くところ、とても簡単な事なのかもしれません。

その簡単なことを、難しくしてしまうのが、人間の一つの特性なのかもしれません。

「悟り」なんていう言葉も、そんなに難しくて深いものでもなんでもない。

人間が人間として当たり前に生きることを邪魔する精神と心の問題であり、単純に「思いを切り替える」だけで、いつでも、だれでも人間を生かすことの出来る神になって、当たり前生きられるようになるのかもしれませんね。

人間っていうのは、結局は、そんな悟りを得ることに落ち着くことに、人生の四苦八苦を試行錯誤しながら生きていくのかもしれません。
2010-11-16 火  00:12:35 |  URL | バン #- [編集]
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